2011年12月22日木曜日

「教師は体力仕事」とはどういう意味か?

教師は聖職者か、労働者か?

なんて論争は私にとってはどうでもいいので、ちょっと仕事の内容について考えてみます。

教師は体力が勝負!なんてよく言われましたが、そもそもどんな職業だって体が資本であることには変わりがありません。

しかし、その「体力が勝負」ということの意味を私は当初、履き違えていました。
私はてっきり、子供たちと一緒に休み時間に走り回ったり、体育で手本を見せたりすることを想像していました。それくらいなら、自信はあったのです。体力の衰えを感じたことはありませんでしたし、少し前に日本三大尾根の一つと言われる剱岳の早月尾根を制していたからです。

しかし、小学校現場に入ってみて思い知らされました。
体力とは、運動能力ではなく、本当に「体力」だと。

子供たちは時間に縛られています。時計を見なくたって、チャイムや音楽が鳴り、嫌でも時間というものを思い知らされます。好きなときにお茶を飲むことも、外の空気を吸うこともできず、また、たとえ授業の内容を理解し切れなくても、授業は終わります。
教育現場は内容ではなく、完全に時間を軸に動いています。だから、子供たちはそれに自分自身をフィットさせなければなりません。それが、時間を守り、ルールを守ることの勉強であり、きっと将来、納期を守るという仕事の基本に繋がることなのです。

その絶対ともいうべき時間の縛りはもちろん、教師にも及ぶのです。普通の会社員のように好きなときにトイレに行くことはできません。のどが乾いたからといって、気分転換したいからといって、タバコを吸うことはおろか、コーヒーを飲むこともできません。

始業のチャイムが鳴ったら最後、子どもたちを下校させるまで仕事を中断することはできません。

授業が始まれば、終わるまでは休憩もトイレも基本的には許されていません。立って授業をする以外の選択肢はありません。(まあ、たまには座って読み聞かせをしたり、テストをさせている時間は座りますが)

そう、立っているのです。説明をするにせよ、教えて回るにせよ、立っています。この「立っている体力」がまずは教師に必要とされる体力です。

次に要求される体力は、「こなす体力」です。「教師の仕事」には残業があっても、「先生の仕事」には残業がありません。

子供たちは、基本には時間が来たら帰ります。遅れている子が残ってやることはありますが、教師がこなせなかったことで子供たちを残すわけにはいきません。

たとえ、教科書を教え切ることができなくても、決められた時間をこえて子供たちを教室に残して教えることはできないのです。

だから、こなす必要があります。決められたことを決められた時間内でこなすには体力がいります。

休むことなく動き続けなければならない時もあります。騒いだりダレたりしてしまう子供たちに、時に檄をとばし、特になだめすかして、こなす体力がいります。後回しはできません。後がないからです。

先生の仕事には、基本的に「待ち」の時間はありません。クライアントの返答待ちとか、決定待ちなどというものはありません。もちろん、子供たちが問題を解いたり、テストをしている間は確かに待っています。
しかし、やるべきことがないわけではありません。途中で手を挙げて質問する子や手を挙げないまでも問題につまずいている子がいれば、声を掛け、手助けをします。常に立ち、常に歩き、常に動き、子供たちと自分たちのやるべきことを時間内にこなすのです。

これはサラリーマン時代とは明らかに違う忙しさでした。残業や会議、クライアント待ち、の忙しさとはまったく違います。教師は3時に子供が帰ったら仕事が終われて楽でいいね、なんて誰が言ったのか知りませんが、楽ではありません。もちろん、子供が帰っても仕事はまだまだ続きます。

この、時間枠に極度に閉じ込められた忙しさは、体力がないとやってられません。運動能力ではありません。体力です。

いわば、体の使い方の能力です。筋力や持久力ではなく、体の使い方です。

ベテランは、さすがベテランであるということを私はそんなところに感じます。

どんな職業でもそうなのもしれません。体の使い方や、力の抜きどころというものは若者はベテランには勝てません。

これを新人としては張り付いてでもして学びたいわけですが、採用されると新人はたったひとりで教室に放り込まれるわけです。
そして、若さに任せて、なんとか時間軸と戦いながら、少しずつ教師の体力を身につけていくのです。


最初の一年は、無駄に動いて無駄に疲れて無駄に批判された…

私の実感です。
なんとか、ならんもんですかねぇ…


2011年12月14日水曜日

なぜ教師はWordで表を作るのか?

教育現場に入ってびっくりしたことがあります。

一つは、教師という生き物は恐ろしくパソコンが使えないということ。

もう一つは、パソコンが使える教師のWord能力が恐ろしく高いということです。

パソコンが使えない/使わない教師のコピー機の使用能力もかなりなものです。「そんな使い方するの?」と驚いたことも多々あります。しかし、何よりもびっくりしたのは、いわゆる「パソコンなら任しとけ」的な教師たちのWord能力の異様な高さです。

Officeを使うときには、きっとよく使うソフトというものがあるはずです。

pptをよく使う人、xslをよく使う人、そしてWordをよく使う人、自然と使いやすいソフトが決まってくるものだと思います。どのソフトを使ったとしても、同じような出来上がりの文書はできるからです。

しかし、Wordで表を作る人がいることにびっくりしました。どう考えても、100マス計算のようなただの格子状のフォーマットを作るのならExcelが楽でしょう。Wordで罫線を引きまくって出来ないことはないでしょうが、改行ひとつでレイアウトが狂うので私はとてもやる気になりません…が、教師の多くは、やるのです。

しかも、それが早いし、私が使ったことのないアイコンやプロパティを駆使するので、最初は画面を楽しく覗かせてもらいました。

また、会計をするにもやはりWordを使います。それはさすがに感心はせずに、なんて無駄な…と思いました。だって金額を打ち込んでも、合計も差額も出ず、手元の電卓を叩いているのですから。(今ではExcelでやっている教師も増えています。)

例を挙げればキリがありませんが、気になるのはどうしてこんなことになっているのか、ということです。

一昔前、教師も地方公務員の一種であり、各自治体が一太郎を導入し、その研修を繰り返したということは知っています。今でも「Wordは使にくい!一太郎がいい!」とこだわるベテランも多いです。
憶測ですが、その一太郎の研修をやりすぎたのがその一因なのではないかと私は思っています。一太郎でこれもできる、あれもできるとやっているうちに、すべてをワープロソフトでする文化が育ち、Wordが隆盛になっても続いているのではないでしょうか?

ただ、不思議なのは、大学を出てくる若い人たちもその傾向があるということです。Wordにこだわっているかのように、Wordを使います。
教育大学では、Wordばかりを使うように指導でもしているのでしょうか?

私に「Excel教えてください」と言う若い教師は少なくありません。もちろん、文系である以上、表計算をする機会は少ないのかもしれませんが、現在、学生である間になんの統計もグラフも作らないことがあるのでしょうか?

あるのかもしれません。
あっても、Excelを使わないのかもしれません。
レポートがWordならば、すべてをWordで終わらすのかもしれません。

Wordがいけないことはありません。しかし、Wordの制約の中で書面を考えるのは褒められたことではありません。これしかできないからと、ワークシートやプリントをWordの制約に当てはめることは子どものためにもなりません。

だからこそ、私はpptを勧めています。レイアウトは自由だし、写真やオブジェクトは行に左右されません。紙に書くのと同じような感覚で書類を作ることができます。

教師の中にはpptはプレゼン用だからと決めつけている人が多いように思いますが、印刷物を作る上でもかなり使い勝手がいいのはまちがいありません。

でもExcelにしろ、pptにしろ、新しいことを始めるとなると、「じゃあ、研修してよ」と口にするのもまた教師の常です。

いやいや、子どもに「みずから学べ」と言うんでしょ?
自主性が大事だと教えるんでしょ?

じゃあ、大人もやりましょうよ。ね?

2011年12月10日土曜日

なぜ教育学部でないと小学校教員免許が取れないのか?

教員免許というものは、とりあえず取っておくものだ。

大学時代、私の周りの友人たちはそう言っていました。なにせ、受けなければいけない一般教養の講義を普通に取れば、あとはほぼ教育実習だけで教員免許が取れるからです。

それは取らない手はないと、俺は高校英語だ、中学社会だと、免許を取る者たちがたくさんいました。そして、教育実習に行った話をよく聞かされたものです。

教員になる気も、免許に興味もなかった私は、そんな彼らの話を右から左へ聞き流していました。

ところが、彼らが「どうせなら小学校(の免許)も欲しかったなあ。俺たちは文学部だからしかたないけどさ」と漏らすのを聞いて、妙に気になって聞き返してしまいました。

そのとき初めて、小学校教員免許は教育学部や教育大学でないと、取れないことを知ったのです。

思えばおかしな話です。

なぜ小学校教員免許だけがこんな扱いなのでしょう。人材を広く集めることが学校現場には必要であることが、こんなに言われているのに。

それはつまり、大学受験時に小学校教師になろうと思っていなければ、小学校教師になることができないということです。

教師は狭い世界だから。

と自他ともに言うそんな風潮の根っこはこの辺りにあるのかもしれません。

適格/不適格を問うのは、採用試験であり、免許ではないはずです。小学校教員免許は教育大学や教育学部の利権と化していて、外部の参入を妨げているとやっかみを言われても仕方ありません。

私の周りでも、教育大学や教育学部以外出身の教師は数えるほどしかいません。彼らはどうやって小学校教員免許を取得したのかというと、わずかな大学がやっている通信教育での取得がほとんどです。

通信教育や短期大学でも取得できる免許がなぜ4年制大学で取得できないのか、甚だ疑問です。すぐにでも、免許制度を改革し、多くの大学や学部から、小学校教師を募集してほしいものです。

ちなみに文学部を出た私はというと、文科省がこっそりとやっている、教員資格認定試験を受けました。これは3次までの試験をパスすれば学歴に関係なく、小学校教員2種免許(短大卒相当)が取れます。合格率は受験者数ベースで10%ほどですが、とりあえず受けとけ的な人も多いため、きちんと勉強すれば受かるはずです。

ただ、3回のテストでさえ与えることのできる免許が、どうして4年制大学で取れないんでしょうねえ…



2011年12月8日木曜日

通知表は手書きであるべきか?

近年、通知表が全国的にどんどん電子化され、プリントアウトした活字になってきています。
もちろん、5とか◎とかの評定だけではなく、担任の先生が書いてくれるコメントもです。
我が身を振り返ってみれば、先生がいったい自分について何を書いてくれるのか、それを楽しみにしていたような気もします。ただ、昔のことなのではっきりとは覚えていません。

その通知表を教師が作成する際の作業が、要するに手書きではなく、パソコンに移行しているのです。

思えば、当たり前の話です。
テストの点数だって、普段のちょっとした評価点だって数字である以上は、合計するにしろ、平均を出すにしろ、エクセルで管理をした方が便利です。情報化が世間と比べて10年遅れていると言われている学校現場でもさすがにそれくらいのことをしている教師はいます。とはいえ、私の周りの小学校教師の多くは、紙に記録し、電卓をたたいています。

少しずつでもエクセルが普及しているのであれば、当然、コメントだって同じファイルの別シートで管理した方が便利であるのは明白であって、手書きをするコメントの下書きを書くのなら、当然のようにエクセルで下書きをすることになります。

それならば、そのエクセルでデータとしては出来上がっているものをわざわざ手書きで清書することに疑問を抱き、レイアウトを整えてそのままプリントアウトしようとするのは何も突飛なことではなく、ごくごく普通のことです。

ところが私の学校の話をしますと、これがなかなか進みませんでした。年配教師によるパソコンアレルギーはもちろん、恐ろしく例年通りを好む現場風潮、そして何より「パソコンは味気ない」という感覚があるからです。

確かに手書き文字の力はあるでしょう。肉筆と言うくらいです。その力は広告などでも既成フォントを使わずに手書き文字を使ったり、題字の仕事があることからも分かります。

しかし、見た目でおとるのならば、内容で勝負するべきです。タイプで書きやすくなった分、推敲を重ねればいいでしょう。手書きでは出来なかったことがきっと出来るはずです。そして、何よりも、恐ろしく丁寧に書くことや間違いをこれもまた恐ろしく丁寧に砂消しゴムで消すことから解放される時間の膨大さは計り知れません。
肥大した学校現場の仕事量を考えば、メリットは大きすぎます。

きっと、手書きと決別することで、教師自身はもちろん、学期末に少しでも担任が楽になることで生まれる精神的余裕は、クラスの子供たちにとっても嬉しいことのはずです。

手書きの力を信じるのならば、ふだんのノートや連絡帳にできるだけたくさんコメントを書けばいいのです。

まあ、これがまた難しいのですが…

ともかく、ようやく私の学校では来年度より手書きとサヨナラです。


2011年10月10日月曜日

教育にもデザインは押し寄せるか?

教育現場は疲弊している。

ずっと前から言われていることです。私が教員を志したときにはすでに言い古されていたくらい。それでも、今もなお、そんなことが聞かれます。

なぜ、そんな疲弊しているのかと言うと、教育現場に求められる内容が時代に応じて増えてきたからに他なりません。
今の子どもたちは、魚と言えば切り身しか見たことがなく、切り身の状態で海を泳いでいると信じている子もいる、とかかんとか言われると、授業に環境教育なる項目ができたのです。授業でやるということはつまり、計画書があって報告書があります。教師の仕事は授業以外にも一気にどんと増えることになるのです。

そんな具合で、これからはITの時代だと世間で言われ始めると、ITが何なのかも分からない人間が学校現場に情報教育を持ち込みました。グローバルの時代だと猫もしゃくしもグローバルグローバルと泣き始めると、学校現場には英語教育が持ち込まれました。

そう、学校現場には何でもかんでも「やったほうがいいのではないか」というものはすべて持ち込まれるようになっているのです。

やったほうがいいことがたくさんあるのは、当たり前です。なんだって、やらないよりはやったほうがいいのです。学ばないよりは学んだ方がいいのです。学ばない方がいいことなんて、何一つとしてありません。学ばない方がいいなんて、学んだ後にしか言えないからです。

だから、コメンテーターにしろ、教育評論家にしろ、識者と呼ばれる人間は、ああしたほうがいい、こうしたほうがいいと、学校現場に「やったほうがいいこと」を持ち込んできたのです。その結果、学校現場は、教師は、疲弊しています。

もうそろそろ、やめようじゃないですか。

付加の時代は終わったのです。

付加価値、付加価値とメーカーがこぞって叫んで多機能を目指したゼロ年代、「後からくっ付けることのできる価値に大したものはない」とばかりに、デザインも機能も削り込んで本質の価値を追求したAppleが日本メーカーを瞬く間に抜き去ったのを思い出しましょう。

今、広告にしろ、ファッションにしろ、プロダクトにしろ、デザイナーの仕事は削ることです。
膨大な機能を、
数多くのボタンを
余分なシールを、
しがらみを、
過去の栄光を、
アンケートという呪縛を、
勇気と決断で削ることが、デザイナーの仕事です。

そのデザインという四文字は、今、あらゆる分野にまで及んでいます。なんせ、「息をデザインするガム」まで出てくる始末ですから。

デザインよ、早く教育界に来い。

膨大に膨らんだカリキュラムを、事務手続きを、計画書に報告書を、手書き文書を、今こそ、削らなければなりません。
「やったほうがいい」「あったほうがいい」ことなんて、「やらなくてもいい」「なくてもいい」のです。

21世紀を生きる子どもたちのために、本当に必要なことを、学校でしかできないことを考え、フォーカスし、実行しましょう。着膨れした教育現場を削るのです。


2011年9月21日水曜日

なぜ教師はジャージを愛すのか?

中学、高校の先生の話ではありません。
小学校教師のことです。

みなさんの遠い記憶を辿っていただければ、小学校教師という生き物は、やはり多くの場合、ジャージを着ていたのではないでしょうか。体育の時間はもちろんのこと、国語であろうと、算数であろうと、ジャージを着ていたのではないでしょうか。

もちろん、スーツを日常的に着ている先生もいるでしょうし、ゴルフファッションの先生もいるでしょう。でも、私の現在の職場を見渡してみれば、小学校教師はおしなべてジャージを着ています。そう、まるでジャージをこよなく愛しているかのように着ています。

少し前、大阪府の橋本知事が公務員たるもの、ジャージで通勤するのは風紀上好ましくないとかかんとか仰ったようで、授業中はともかく行き帰りの通勤時は、どうやら大阪府に限ってはジャージ姿の小学校教師は減ったようですが。

しかし、私の職場ではほとんどの人がジャージです。
勤務中はもちろん、行き帰りもジャージです。毎日体育があるわけではないのにジャージです。そりゃもちろん、夏は上はTシャツになりますし、冬はスウェットになったりもします。が、基本的にジャージに代表されるスポーツウェアを着ています。

ジャージを着る理由を探すのは難しくありません。
子どもと遊ぶため。
いつでも動けるようにするため。
子どもがじゃれついてくるため。

もっともです。なるほど、と言うしかありません。

しかし、しかしです。
スーツを着ていたってドッジボールはできます。おにごっこだってできます。
スーツを着ていたって、走ることくらいなんてことはありません。
スーツを着ているからって子どもがじゃれついてはいけないことはありません。

世のサラリーマンは、スーツを着込んで得意先を汗だくになって回り、時にアポに遅れないために走り、そしてまたある時には、取引先の工場や作業場で作業着のおっちゃんに混じって体を動かしたりするのです。スーツはなにもおしゃれ着でもフォーマルウェアでもありません。

だから、小学校の教師だってジャージじゃないとできない仕事なんて、体育の授業くらいです。それ以外はジャージでなければできないということはありません。

ジャージは公務員として、社会人として通勤服として望ましくない、と言われれば、たしかにそのとおりで、行き帰りくらいはスーツを着たっていいのです。スーツとまではいかなくても、コットンパンツにシャツくらい着ればいいのです。

まあ、そりゃ、べつにジャージだっていいんでしょ?と言われれば反論はありません。
べつにジャージだっていいです。行き帰りにジャージを着ていたって、本人がよければ、そして校長や教頭、教育委員会がそれでよければ、それでいいわけです。

私の話をすると、私は体育の時間以外はジャージを着ません。
あ、運動会の練習時期はずっとジャージを着ているかもしれません。でも、行き帰りにそのままジャージ姿ということはありません。必ず着替えます。

なぜって・・・そりゃ、ジャージが好きじゃないからです。
どう見たところで、だらしないし、そのまま食事に行けないし、電車に乗るのもいやです。普段、教師は子どもたちに指導しているわけです。

「体育が終わったら着替えなさい。汗をかいたままの服でいると、衛生的にも健康的にもよくありません。もちろん、体操服のまま登校したり、下校したりもしません」と。

じゃあ、教師もそうしようよ。
と私は思うわけです。
世の中がクールビズなんてはしゃぐ前から、私はチノパンにポロシャツとか、コットンパンツにボタンダウンとかを着ています。別にかっこつけてるわけではないです。何の変哲もない安物を着ています。

なんかねえ、ジャージのままってのは許せないんですよ、私は。
だから、休み時間にシャツのまま子どもとドッジをして泥が付いて「そんなかっこしてやらなきゃいいのに」と言われても、私はべつに洗えばいいと思うんです。泥だって乾いて払ったらある程度は落ちますし。

やっぱり、親の次に子どもに近い先生がずっとジャージってのは、あんまりうまく言えないけれど、あんまりよくないような気がするんですよね・・・


2011年9月17日土曜日

小学校教師は英語を教えられるのか?

世間では、ユニクロや楽天が社内共通語を英語にしたとかしないとかで、英語熱がいっそう高まっているそうですが、その波はひたひたと(いや、けっこうザッパーンかな・・・)小学校現場にも押し寄せています。

もちろん、付属小学校や熱心な自治体では、何年も前から英語など小学一年生から取り組んでいるものかもしれません。
私もドレミの歌や、曜日の歌に取り組んでいる授業を見たこともあります。

しかし、今年の春より指導要領改正により、5、6年生では英語活動に取り組むことがすべての小学校で必修となりました。

英語ではありません。
英語活動です。

これは、英語に触れてみるものの、英語を教えるわけではない、活動はするけれど成績を付けない、ということです。成績なんぞをつけて、中学校へ上がる前に英語嫌いになったら本末転倒だということみたいですが。

さて、前置きはこれくらいにして、じっさいに今、小学生がどんな英語活動をしているのかを私の学校を例にお話しします。

年間授業数の半分は、ALTと呼ばれるネイティブの先生が来られ、子どもたちに授業をしてくれます。担任の教師は、事前に「こんなことをやってほしい」と伝えれば、快く引き受けてくださいます。ALTとして経験の長い先生は、英語はもちろん、日本語も上手だし、子どもたちの扱いもとっても上手です。日本人とはひと味違うハイテンションも子どもたちにとっては、新鮮に映ることでしょう。

「英語ってなんだか楽しそうだな」と思う子どもたちも多いはずです。
うん、文科省さん、ねらいどおいだね。

しかし、です。
問題は、ALTが来ない残りの半分です。
いったい、英語の免許も持たない、日本人の教師が英語学習で何をするのでしょう?

もちろん教科書はありますし、CDもありますし、電子黒板を使う教材も用意されています。とはいえ、教科書を読み、ALTの先生をまねてみたところで、子どもたちはなんとなく違和感を感じながら授業を受けるでしょう。(私はまだしたことがないからわかりません)

違和感の理由の一つは、目の前の先生がいきなりその時間だけ英語を話し始めることにあります。英語を教えているのならば、違和感はありません。でも、英語活動は英語に親しませるけれど、英語を教えてはいけないのです。英語を教えるのならば、そりゃ少しくらいは教えることができます。仮にも大学を卒業しているのですから。しかし、英語で活動となると、いったいネイティブでもない私たちになにができるのか、とふと疑問に思ってしまうのです、きっと。

そしてやっぱり、この問題がつきまといます。

発音です。

英語を教える免許はないし、得意どころかまったく話せない、海外旅行だってパックツアーしか行ったことがない、という人が小学校教師のほとんどです。
(ちなみに教師は異常にパックツアーが好きです。そして必要以上に連れ立って海外旅行へ出かけていきます。群れるのがすきなのかなあ・・・)

そんな自分が子どもたちに向かって「How are you?」と投げかけることに、ものすごい抵抗を感じるのです、きっと。
英語に堪能な保護者がいたら、何か言ってこないかと不安になるのです、きっと。
(もう一度言いますが、わたしは授業をしたことはありません。しかし、同僚はそんなようなことを言っています。)


それじゃあ、教師よ。

個人旅行で一度海外へ行け。

と、私は言いたい。

そうしたら、わかるはずです。
タイ人はやたらと、フニャフニャした英語をしゃべると。
韓国人はやたらと、パピプペポが強い英語をしゃべると。
中国人はやたらと、ブツ切れの英語をしゃべると。
フランス人はやたらと、息の多い英語をしゃべると。
スペイン人はやたらと、聞き取りやすい英語をしゃべると。

それでいいじゃないですか。
大事なのは、自分の意思を伝えようと懸命に話すことです。
世界の国々は、ブリティッシュイングリッシュをなぞろうなんて考えていません。ましてやニューヨーカーになろうなんてこれっぽっちも考えていないのです。ただ、英語で意思疎通をすることに主眼をおいています。
私が出会ったタイ人も、韓国人も、中国人も自分の英語を恥じてはいませんでした。

だから、日本人ならば、母音が5つしかない英語を話せばいいのです。

それで通じます。
通じなければ、もう一度言えばいいのです。
それが、コミュニケーションの素地を養うということでしょう。

私は自分の発音に自信はありませんが、恥じてはいません。
さあ、れっつ、とーく、いん、いんぐりっしゅ!


2011年8月26日金曜日

職員会議はなぜ長いのか?

「ねえ、学校まだ電気ついてるよ」
「きっと先生たちが職員会議してるんだね」

なーんて、会話はきっとどの学校の周りでも一度はなされているはずです。


しかし、なんで教師はあんなに職員会議ばかりしているのでしょうか?
職員会議という名前からしても、なんていったいなんの会議なのかわかりません。普通の会社に直して言うのならば、「社員会議」になります。名前があまりに曖昧すぎて、いったいどんな会議なのかさっぱり分かりません。

社員会議? なんじゃそら? 社員全員で、社内のあらゆることを検討するのか? と思う方もいらっしゃるかもしれません。

正解。

そうです。職員会議とは、職員全員で学校のあらゆることを検討/決定していく会議のことです。

えっ!?いちいち、全員が全部に関して会議をするのか? なんと無駄な! と思う方もいらっしゃるかもしれません。

正解。

無駄なのです。いったい、この職員会議というシステムがどのように形作られていったのかは知りませんが、「ひとりひとりを大切にする」という子どもに対してのスローガンがいつの間にか教師に対しても適用されてしまったに違いありません。形式上は、全員が参加して全員の意見を反映している、とするために。

もちろん、小さな学校では全員で会議をしてもいいでしょう。世の中には校長先生から用務員さんまで含めても10人程度という学校もたくさんあるはずです。しかし、40名を超える職員がいる学校でも、職員会議はよほどのことがない限り、全員参加です。

私の話をしましょう。

私の勤める小学校は、教師は約40名います。その教師が職員室の自分のデスクに座りながら、会議をすることになります。最初はびっくりしました。会議の席は自分のデスクなのですから。サラリーマンのときにはそんな会議したことありません。会議は会議室でするものでしょう?しかし、学校現場では職員室の自分の机で会議をします。奇妙です。しかし、私以外にこれを奇妙だと思っている人はいないようでした。

自分のデスクに座りながら会議をするとどうなるか?

当たり前のことですが、「ほかごと」をすることになります。一生懸命、広い職員室の端まで聞こえるように大きな声で話している先生の声を聞き流しながら、書類を書く先生、問題を作る先生、テストの丸付けをする先生・・・いろんな「ほかごと」があちこちで見られます。だって、自分の机にはやらなければならないことが積まれているのですから。そりゃ、やるでしょう。

議案を聞く方にも問題があるのですが、その一生懸命話す方にも問題があります。

学校現場とは毎年ほぼ決まった行事を決まったように行うことが期待されています。だから、目新しいことなどそんなにないのです。だから、提案書も去年の流用がほとんどです。一生懸命しゃべられる内容も聞いたことがあるものになります。したがって、長い間、その学校にいる先生になればなるほど、もうそんな提案書なぞ見なくても経験で分かるし、意見も言えるし、いちゃもんをつけることもできるのです。

誰だって思うはずです。

じゃあ、配るだけ配って「見といて」でいいじゃん。
じゃあ、配らずにサーバーに上げて必要があれば見ればいいじゃん。

でも、教師はそれをしません。
まるで、一から読むのが美徳であるかのように読みます。すべてを綴じて配るのが最善であるかのように配ります。「例年通り」ばかりなのにもかかわらず、例年通りそれを読むのです。さすが、例年通り。

そして、ベテランが経験にものを言わせて、意見を言うとそれが採用となります。若手が少し頭を使ってちょっと「例年通り」を変更すると、「例年通り」をこよなく愛するベテランから、「例年通り」の正当性を主張されて折れざるをえなくなります。

それを毎月繰り返すのが職員会議です。

体育担当や生徒指導担当など、担当があるにもかかわらず、担当が任されて進めることができるものは少なく、担当が考えたものは職員会議で承認されないと実施できません。極めて非効率的なシステムなのです。全員が全員の提案を聞き、そしてそれを承認するという極めてバカ正直なほどに民主的な(形式だけは)システムです。

そりゃ、長いです。眠いです。
うまく行かないことがあっても、多少の不備があっても、誰かが必死で考えて責任を持ってやることを認め、見守る、任せるということをしないと、このシステムはこれからも教師の時間を奪い続けるでしょう。


え? おまえがなんとかしろって?
そうですね・・・そうしたいんですけど・・・また会議が長くなるでしょ。


2011年8月21日日曜日

万歳三唱は「つらい時代」を思い出させるのか?

 夏休みが明ければ、体育会や運動会の練習が全国各地の小中学校で始まることと思います。そこで、競技に勝ったときに子どもたちがやるであろう「ばんざい」についてちょっと書いてみます。

 もちろん、「ばんざい」なんで今どきやらないよ。という学校や地方もあるかもしれません。でも、綱引きや騎馬戦が終わったときに「やったー」だけでは、なんとも締まりのない印象を感じてしまうのはきっと私だけではないと思います。

 私の話をしましょう。
 新任1年目に体験したことです。初めての体育会で綱引きを担当することになった私は、赤白に子どもたちを分けて2回ないし3回勝負をさせた後に万歳三唱をさせました。

「2対1で、赤組の勝ち! 赤組のみなさん、万歳三唱をします! ばんざーい! ばんざーい! ばんざーい!」
というように。

 練習のときからそうしていましたし、それまでだれもそのことについて私に何かを言う方はいなかったのですが、本番当日に自分の担当が終わってほっとしている私にベテランの教師が近づいてきて言いました。

「今の時代、万歳三唱はしない。万歳三唱がそもそもどんなものか知ってるか?」

 私はきょとんとしました。何を言っているのかさっぱり分からなかったからです。

「万歳三唱は、つらい時代を思い出させる。言ってる意味が分かるか? よく考えてみなさい。」

 なんとなく気がつきました。ああ、戦争のことかと。
 ふと見ると、いつの間に集まったのか、二人ほどまたベテランの教師が私のそばに来て、うんうんと頷いていました。私は、すみません、そこまで気が回りませんでした、と言うしかありませんでした。

 気になって、ちょっとウィキペディアを見てみると万歳三唱とは、明治天皇に向かってしたのが始まりらしく、天皇陛下万歳やバンザイアタックなどから軍国主義を想起させるものと受け止められることもあるらしいのです。

 しかし、です。
 綱引きの後の万歳三唱で、天皇陛下万歳を思い起こすでしょうか。バンザイアタックという玉砕作戦を思い起こすでしょうか。と、私は疑問に思いましたが、それが教育界のスタンダードならば仕方ありません。綱引きが終わったときは、「やったー」で終わらせるべきなのかもしれません。

 万歳というものが読んで字の通り、「万の年」、「御代がいつまでも」という意味を現実に持っていたのはいったいいつの時代までなのかは知りませんが、ウルフルズの「バンザイ〜好きでよかった」を青春時代に聴いたり、北野武監督の「監督ばんざい」を見たりしても、私はまったくキナ臭いものやファシズムのようなものを感じませんし、頭をよぎることすらありません。もちろん、不勉強なのかもしれませんし、戦争を経験している人にとっては苦痛なのかもしれません。

 ただ・・・ですよ。そんなこと言うのなら、体育会なんてそもそもしちゃいけないことになりません? 整列なんてさせちゃいけないことになりません? まあ、その・・・教師の某組合(それについてはまた追々)としては色々なことに神経を尖らせるのかもしれませんが。さて、今年はどうしようかな・・・バンザイしようかな・・・やめよかな・・・

 

2011年8月20日土曜日

教師の夏休みは長すぎるのか?

はじめまして。
これから、つらつらと駄文を連ねていこうと思っています。少しなりとも、日本の未来をつくるであろう教育の一助になれば、これほど幸せなことはありません。

では、今、真っ最中の教師の夏休みについて。

 まず一つ断っておくと、私は小学校教師であるから中学校や高等学校のことは分かりません。見聞きすることはありますが、確かなことは言えませんので、ここで言うのは私の経験している小学校教師のことだと思ってください。
 先生は夏休みが長くてうらやましい・・・とは、昔からよく言われることだそうで、確かに子供たちは7月21日から8月31日までいないのだから、授業をしない期間は40日程度もあることになります。

 じゃあ、「授業をしない=休み」なのか、というと、実はそうでもありません。
 今年のことを言うと、私は土日を除いて7月21日から7月28日までは、水泳指導をしていました。水泳指導の合間には、備品をチェックし、体育会の演技を考え、29日には細々した書類をやっつけています。そして土日が明けた8月からは健康診断に行き、休み明けにある職員会議の資料を集め、資料を作り、机周りを片付け、職務研修に行き、そして8月4日から自分の夏休みに入りました。
 つまり、子供たちが夏休みに入ってから2週間くらいは教師は仕事が続きます。しかしだからと言って、子供たちがいるときほど忙しいかというとそんなことはありません。子供たちがいない学校なんてのんびりしたものです。いくら水泳の練習に来る子供たちがいると言っても、授業がないとなれば、忙しさは半分以下。サラリーマンでいうところのプレゼン後みたいなものです。
 私は4日から21日まで、完全に休みます。完全にというのは、子供たちだけでなく私自身も学校に行かないということです。連続18日間の夏休みになります。ちなみに22日からは2学期の準備が始まります。世のサラリーマンに比べれば18日間なんてうらやましくなるほど長い夏休みかもしれません。

 私もサラリーマンの頃は夏休みなんて連続7日間ほどしかありませんでした。初日は死んだように寝て、次の日にまとめて掃除洗濯をし、そして実家に帰って旧友と仕事の愚痴を言い合い、そして満員の新幹線や渋滞に疲れたまま、また仕事に戻っていったものです。

 しかし、です。
 教師には、ふだんの平日に休み時間がほとんどありません。お昼休みさえありません。場合によれば、トイレに行く時間すらないこともしばしばです。休み時間は子供たちと遊び、給食の時間は、配膳の準備と、おかわりをする子や野菜の食べられない子の相手をしながら、自分の食べる分をものの5分でかき込みます。
 サラリーマンの頃はたしかに忙しすぎて昼食を抜くこともありましたし、予定がびっしりすぎてコーヒーすら飲めない時間帯もありました。ただ、終始予定びっしりということは少なく、自分でスケジュールを調整すれば時間がずれるとは言え、ご飯も食べることができましたし、ちょっとした営業周りの合間にゆっくりコーヒーを飲む時間が作れないことはありませんでした。
 しかし、教師は自分でスケジュールを調整することができません。1時間目から5時間目ないし6時間目が終わるまでは、どうしようもないのです。国語から音楽・図工まで全部自分で教える低学年を担任すれば、空き時間も一切ありません。この縛りの中での忙しさは、サラリーマンとはまた違った種類の忙しさです。教師の方が忙しいなんて言うつもりはありません。違った種類の忙しさなのです。「先生はラクだ」なんて、知らないのに宣うている方はぜひ一度教師をやってみるといいと思います。

 いったい何が言いたいのかといいますと、教師は夏休みに普段は取れないランチ休憩を取り戻しているのではないか?ということです。計算してみます。
 サラリーマンが普段のランチを1時間取っているとし、そのうち40分は休憩と考えてみます。すると、教師は始業式4月6日から終業式7月20日までの71日間の授業日分の休憩を取り戻すことができると考えます。40分×71日=2840分=4.5日分(1日600分勤務くらいで換算。教師は毎日10時間くらいは働いている。)でありますから、サラリーマンより5日間くらいの休みが多くても、計算上は許されるんじゃないかと思います。これが2学期、3学期とあるのだから、単純に言うと1年間で15日間くらいの休憩を夏休みで取り戻しているのかもしれません。18日間連続の夏休みが教師に与えられていたとしても、まあ、いいんじゃないでしょうか。

 というのは、ちょっと、我が身に甘いかな。だって、18日間の夏休みって、はたから見たらやっぱりうらやましいだろうから。