2012年11月12日月曜日

教師は同職を見分けられるのか?

ある美容師さんが言っていました。
「あ、こいつ同職だなってだいたい分かります」
と。

いい歳して月曜か火曜日にふらふらしていて、小洒落ていて、手が荒れていたら、だいたい美容師だと。

なるほどと思いました。
ポイントは休みと格好と身体的特徴です。

教師も教師をある程度見分けることができます。それは同じ職業ならば、どんな職業でも同じことかもしれませんが、なんとなくまとった空気のようなもので分かります。

でも、この美容師さんの話を聞いて、私も教師の明らかな特徴というものを探してみたくなったのです。

まず、休みですが何よりも分かりやすいのは夏休みです。
小学校教師のほとんどは、夏休みには長い休みを取ります。子どもと同じというわけにはいきませんが、世のサラリーマンよりは長い休みです。

8月は連続ではないでしょうが、土日やお盆を合わせて合計20日間くらいは休みを取るのが一般的だろうと思います。
8月にやたらと家にいるようなら、教師の可能性はぐっと高まります。

また、休みの日ではなくて休みの時間でも分かりやすい行動があります。

それはランチです
子どもが始業式や終業式の日、学期始めや終わりの日など、給食がない日があります。
そんな日は、あたりまえですが、教師も給食がありません。そんなときは、教師という生き物は連れ立ってランチに出かけるのです。
スーツを着ていない、かといって作業服でもない、ジーパンもいればジャージもいる、大学生には見えず年齢もバラバラ…それはきっと教師に間違いありません。

普段はお昼ご飯も学校の外にでることはない教師たち、きっと久しぶりのランチをはしゃいで楽しむのではないでしょうか。


また身体的特徴は、夏にはっきりしますが、日に焼けているということにつきます。
いくらUVケアをしたからといって、体育の授業やプール指導での日焼けは、尋常ではありません。教師とは日焼けするものなのです。
先の美容師さんに言わせれば、
「先生って、分け目が日焼けしてる人が多いんすよね」
ということになります。

教師のみなさん、髪の分け目はこまめに変えましょう。

もちろん、秋になったからといって油断していると日焼けは一向におさまらず、一年中日焼けしていることになります。
肉体労働者にしちゃひ弱だし、理屈っぽそうだけど、日焼けしてるな…と思ったら、きっとその人は教師の可能性が高いということになりそうです。

最後に通勤時のことに触れておきましょう。
普通、通勤時には住宅地そばの駅に向かい、そしてオフィス街や街の中心で駅を出るものでしょう?

教師は多くの場合、逆です。
オフィス街には学校はありません。
住宅地で駅に向かわず、逆に駅から出てきて、自転車に乗ったり、人並みに逆らって歩く人がいればその人はきっと教師です。スーツを来ていなかったら、なおさら確率は高いでしょう。

私は日々、そんなことを考えながら通勤するようになりました。

あの人も教師かな。
あの子も教師かな。

そんな人を探しながら。

同じ想いを抱いて、同じ道を志し、同じ世界でもがき続ける同志として、心の中で、
「今日もがんばろうぜ」
とエールを送るのです。

きっとすれ違う向こうも、同じ気持ちなんじゃないかなと期待しながら。



2012年10月23日火曜日

コソコソ話は女性の本能か?

体育会も終わり、次は文化祭だの音楽会だの、学校現場はイベントに追われております。
もっともメーカーにしても、サプライヤーにしても、催事に振り回されているのは変わらないかもしれません。

ずいぶん前に「なぜ結婚しない女性教師がこんなにも多いのか」ということを書いたんですが、今でもたくさんの方が読んでくれているようです。

やはり、小学校は女性が多い職場です。今回も女性のことを書きましょう。


小学校の女子たちは今も昔もコソコソ話が大好きです。コソコソ、こしょこしょ話しては、ニヤニヤ笑ったり、「サイテー」だとか「ウザッ」とかそんな暴言だけを大きな声で言ったりするのです。

男子としては気になるわけです。気分が悪いわけです。
「あいつら、何話してんだ?」
「俺たちの文句いってんじゃないか?」
と、勘ぐるのです。

そして、
「お前ら、コソコソ話するんじゃねーよ」
と言うと、
「別にあんたの話なんてしてないしー」
と軽くあしらわれるのです。

事実、どうやら女子は男子の悪口を言っていることは少なく(言うには言うのですが)、女子同士の噂話や文句を言っていることの方が多いようです。

ま、男子に文句があれば、今の女子たちは面と向かって言うのです。ああ、女は強し。

女子たちはコソコソ話をすること自体に喜びや楽しみを感じ、またどんなつまらない内容であれヒミツを共有できることに、自分は一人ぼっちではないという安心感を得るようなのです。

違いますか? 元女子のみなさま。

しかし、です。
そんなコソコソ話がそこらじゅうで行われるようになると気持ち悪くて仕方ありません。お互いが悪口を言いあっているのではないかと疑心暗鬼になるでしょう。
男子がケチをつけるのはもっともなことなのです。

ですから、教師たちは「コソコソ話は禁止!」だとか「ナイショ話はしない!」などという決まりを作ったり指導をしたりするのです。

ところがです。
そのコソコソ話を禁止しているはずの教師が職員室ではコソコソ話をしまくるのです。
さすが女性教師の割合が7割の小学校現場です。コソコソ話が好きだった元女子たちは、コソコソ話を子どもには禁止はするけれど自分には解禁しているのです。

元女子の女性教師たちはコピー機の前で、共有テーブルで、こっちの席で、あっちの席で、コソコソこしょこしょやっては、
「それはだめでしょー」とか、
「えー、信じらんなーい」とか、
そんなリアクションだけ大きな声でぶちかますのです。やってることは子どもと一緒です。

いったい子どもたちに指導していることはどこへいったのでしょう…

とくに歳を重ねれば重ねるほど、そういう行動を取るようになるような気がします。もちろん、女性教師のすべてがそうだというわけではありません。そうでない人たちも、もちろんいます。

男性教師でコソコソ話を頻繁にする人を私はまだ見たことがありません。
しかし女性教師は毎日のように見ます。

誰かの文句を言ったり批判しているのではないのかもしれません。あそこのスーパーでは和牛が安いとか、韓流スターの誰それがこんど日本に来るとか、そんな話をしているのかもしれません。

しかし、周りにいる身としては、そこかしこでコソコソこしょこしょやられては、気分のいいものではありません。ましてや、経験年数の浅い身としてはなおさらです。自分のミスをあげつらわれているような気がするのです。
学校の大事なことが、人員配置が、職員会議の落とし所が、一部の年配女性教師たちのコソコソ話で決まっていっているような気さえするのです。

そりゃお前、考えすぎだろうとおっしゃるかもしれません。しかし…ふつーそんなにコソコソ話します?

私はサラリーマンのときはそれほど気にならなかったんですが、小学校に来て気になって仕方がありません。

コソコソこしょこしょは、女性が生まれながらに持つ性質なのでしょうか?
ビルトインされているのでしょうか?

私はとりあえず目の前の女子には、
「コソコソ話はやめようぜ」
と今日もまた言うのです。

だって、先輩教師には言えないですから。



2012年9月7日金曜日

学力が向上すれば学力テストはなくなるか?

学力テストの本格的実施が再開されて2年、当初は参加しないと表明した自治体も参加し、することが当たり前になちました。

私の勤務する学校でもこの前から、結果の分析なるものが始まりました。

そもそも何で学力テストが復活したのかというと、ピザ調査での成績が悪いとかランキングが下がったと大騒ぎを始めたからです。

だれが?

もちろん、子どもたちではありません。親たちでもありません。ゆとり教育を推進していた官僚でもありません。


騒ぐと利益がある人たちです。


つまり、あの学力低下宣伝キャンペーンは、まず間違いなく学力テストを文科省から下請けしているベネッセコーポレーションやそこに天下った(天下りできそうな)官僚たち、利益を享受する御用学者たちの仕掛けが存在するはずです。

そうでなければ、あれほどテレビや新聞での横並びのような学力低下ニュースがあふれるはずはありません。

そもそもが座学だけできても、理屈ばかり達者でも、世の中では役に立たない、無個性な優秀さより、アンバランスでも秀でた能力を伸ばそうと始まったのがゆとり教育です。

決して学力調査の成績を伸ばすために始めたわけではありません。

言うなれば、「学力は下がってもかまわない、豊かな人生を送ろう」としたのです。

しかし、いつに間にか論はすり替えられ、学力低下が大問題になりました。ゆとり教育を受けた子どもたちが社会に出て、どんな活躍をするのか、誰も見ないうちに。誰も検証しないままに。

私はゆとり教育に賛成ではありません。総合学習なんて今すぐにでもなくしてほしいくらいです。
しかし、ゆとり教育が間違っていたかどうかはまだ分かりません。

スポーツで活躍し、世界へどんどん出て行ったり、オリンピックでは重圧を跳ね返してメダルを獲ったり、ボランティアに積極的に参加したりする「ゆとり世代」を目にすると、これから社会に出て仕事に慣れた彼ら彼女たちがどんな活躍をするのか、とても楽しみなのです。

にもかかわらず、世の風潮はそれを待たずに反ゆとりに舵を切りました。そして、真っ先に学力テストを導入したことが私としては非常に腹立たしいのです。

学力テストをいくらやっても学力は上がりません。誰だってテストをする前には勉強するのです。だからこそ、反ゆとりで行くのならば、まず学力を向上させるためにお金を使うべきです。教師を増やす、環境を整える、補習をする…やれることはいくらでもあります。学力テストは学力向上のためには優先順位が高くはありません。もうすでにピザ調査での結果が出ているのならば、それ以上調査しなくてもかまわないはずです。

ただ、予算を分捕り、仕事を増やし、いらぬ分析に膨大な人力とお金を使ういい口実にはなります。

いったい文科省はいくらでベネッセコーポレーションに学力テストを発注しているか、みなさんは知っていますか?

600億円です。
これは必要な600億円ですか?



だいたい、学力低下、食料自給率低下、就職率低下、年金納付率低下など、低下低下とやかましく大騒ぎになっている時は、誰かが仕掛けているのです。

食糧自給率低下を叫ぶ農水省は、低下を食い止めるために予算をくれと言っているのです。
就職率低下を叫ぶ経済産業省は、雇用を増やすために予算をくれと言っているのです。
学力低下を叫ぶ文科省は、学力を向上させるために予算をくれと言っているのです。
その予算を使って何をするかというと、無駄な財団法人を作って天下りポストを増やすのです。下請けの会社を肥えさせて、天下りの確約を得るのです。

では、学力が向上し、ピザ調査での成績が上がったら、学力テストはなくなるのかというと、私はそうは思いません。今、もうすでに文科省とベネッセコーポレーションは次の手を打っています。

それは、意識調査です。

意識調査は、平たく言えば、子どもたちの勉強に対するやる気や態度のアンケート調査です。

先生の話はしっかり聞いていますか。
毎日コツコツと勉強していますか。

そんな質問が何十個も続くような意識調査を現在すでに行っているのです。

なぜそんなことをするのか、というと、学力と意欲の相関関係を取りたいからに他なりません。

意欲がある子は学力が高い。
生活習慣が付いている子は学力が高い。

きっとそんな相関関係を想像ではなく、データとして取りたいのです。
もちろん、実際、取ることができます。

なぜなら、現在、意識調査がテスト問題を解いた後に行われているからです。つまり、テストを終えて「よくできた」と思っている子は自信を持って「先生の話をよく聞いている」に「あてはまる」と答えることができるのです。
「できなかった」と思っている子はどんなに普段先生の話を聞いていても、「先生の話をよく聞いている」に「あてはまる」とは答えにくいでしょう。

学力テストと意識調査を同時に、しかも問題を解き終えてからの意識調査は、かなりの誘導が行われるのです。

意欲や生活習慣と学力の相関関係なんて付いて当たり前なのです。ただデータを取るために行っているとしか思えません。

きっと近い将来、「学力を上げるには、モチベーションだ、生活習慣だ」と高らかな声を上げて、文科省とベネッセコーポレーションは大騒ぎをするでしょう。
もし、日本のピザ調査での成績が上がっても、次はきっと学力テストがなくなることはありません。

意欲や生活習慣と学力の相関関係を注視し続けることが大事なことだという論調が出来上がってしまっているからです。

ベネッセコーポレーションは、生活習慣改善教材でも開発するかもしれません。モチベーションアップのためのメンタルトレーニングコースも開設するかもしれません。


ゆとり世代と呼ばれる若者たちよ。

悔しいじゃないか。
世の中がびっくりするような活躍をしようじゃないか。
学力テストにあくせくする文科省を、
ベネッセコーポレーションを、世の中を、笑ってやろうじゃないか。


2012年8月12日日曜日

学校から、なぜいじめはなくならないのか?

夏休みが終わります。
いつのまにか夏休みも最後になってしまっていました。やはり、持つ学年や担当によって忙しさは全然違います。二ヶ月ぶりの更新になります。

昨年は「教師の夏休みは長すぎるのか?」について考えました。
ぜひ、読んでいただければ幸いです。

で、今年はやはり「いじめ」について考えたいと思います。大津であんなきとがあった年ですし、きっと私のような半端な教師であっても教師の考えを聞きたい人もいるでしょうし、「教師は何を考えてるんだ?」と思っている人もいるだろうからです。

今回、大津の事件で大きく非難されているのは、以下の点です。

・いじめを教師が見ていたのに、止められなかったこと。
・いじめの訴えに取り合わず、事実を発表しなかったこと

まず、なぜ教師が止められないのか?ということを考えてみます。
今回でも先生は見ていても何も言わなかったのか、「やりすぎるなよ」としか言わなかったとか、色々な報道がされています。
この教師の行動をみなさんはどう考えますか?
無責任?
他人事?
甘すぎる?

これは、教師からの牽制だったと考えるのが正しいのではないかと私は思います。
教師がいじめらしきものがあるかもしれないと感づいたとき、
「いじめはゆるさん!」
といきなり勇ましく介入することはまずないでしょう。
教育はその名の通り、「教え育てる」ことを目指すからです。断罪したり、更生したりすることは範疇からズレるのです。
だからこそ、いじめられている子の様子を見守りながらも、教師はいじめっ子が自発的にいじめをやめることができるよう、チャンスを与えるのです。

それが、子どもたちの周りをうろつくことであり、「やりすぎるなよ」と軽くジャブを打つのです。

これがきっと、先生は見ているだけだったと言われたり、声を掛けただけだったと言われたりした行為だと私は思います。

しかし、これで終わってはいけません。このジャブでいじめっ子がいじめを改めなければ、教師は子どもの自発的更生を待つことなく介入しなければなりません。
大津の事件では、どうだったのでしょうか。いじめが教師の目の届かないところで行われるようになったか、教師がいじめがなくなったと誤認してしまったか、何らかの原因で最悪のケースに至ったのでしょう。
見て見ぬ振りをしたとは考えにくいです。嵐ならば過ぎ去るのを待つのでしょうが、いじめはいつ終わるか分かりません。見て見ぬ振りを決め込むような教師はいないと信じます。

では、なぜ学校はいじめの訴えに取り合わず、事実を公表しなかったのでしょう。

これは、学校のことなかれ体質が大きな原因かもしれません。もちろん、これは学校に限ったことではなく、あらゆる組織はことなかれ主義のはずです。

ぶっちゃけて非を自白してもクビ。
隠して万が一バレてもクビ。

組織人は、同じクビなら、バレるまで隠しておこう、と考える人ばかりです。ましてや校長や教育長など、組織の中である程度のポジションを築いた人はなおさらです。

訴えがあっても知らぬ存ぜぬを通し、あきらめてくれればもうけもの。万が一、裁判を起こされたら、その時は仕方がありません。

大津の中学校の教頭も校長も、訴えがあったときには覚悟を決めていたはずです。
これは隠蔽といえば隠蔽ですが、私は隠蔽という言葉を使うことに少し違和感があります。

積極的に隠しているわけではないのです。ただ、波風を立てずにそっとしておこうとしているのです。

言うなれば、無策です。保留です。思考停止と言ってもいいかもしれません。

教師の目の前には、常に成長する子どもたちがいます。何か問題が起きても、見守っているうちに何にもしなくても、子どもが成長することによっていつのまにか解決してしまうことも少なくありません。

それが教師が無策や思考停止に慣れてしまう原因の一つだと私は思います。

しかし、無策や保留、思考停止が取り返しのつかないことを引き起こすことは、年金や財政赤字、領有権などの問題を見れば、誰もが分かるところです。

無策は罪です。
間違えるかもしれないけれど、何か行動を起こそうとする人を、教師を評価する世の中であってほしいものです。


しかし、なぜいじめはなくならないんでしょうか。
こんなに卑劣で、誰もが憎む行為なのになぜ絶滅しないのでしょうか。

小学校からも中学校からも、高校からも、そして職場からもまるでなくなる気配がありません。
まるで、人間関係があるところには、必ずいじめがあるかのように思えてきます。
みなさんも周りを見渡せばそうかもしれません。私だってそうです。いじめを憎む教師が職員室では、うらであれこれ結託して、一人をいびったり、つまはじきにすることがあるくらいです。

大人がそもそもいじめを全滅できないのに、子どもに求めるのはやめましょう。学校でいじめが起きることは特別なことではありません。親や教師もそれを想定しておくことです。人間はいじめるものなのです。

日本では年間約三万人の人が自殺をします。東北の震災以上です。その最も多い理由が人間関係なのです。

これは異常です。
なんとかしなくてはなりません。震災なんて霞んでしまうくらいの惨事なのです。この10年で30万人が命を絶っているのですから。

いじめの発生を止めることができないのなら、私たちは耐性を身につけるしかありません。

反撃できる者は反撃し、防御できる者は防御し、逃げることができるものは逃げるのです。
そして、その後に待っているものは、仲間外れや無視などのひとりぼっちでしょう。
でも、それに耐えるのです。それがひとりぼっちへの耐性です。

ひとりぼっちを恐れない。私が現時点で考えることができる、いじめへの処方箋はこの「ひとりぼっちへの耐性」です。

だれもがひとりぼっちを恐れ、手持ち無沙汰を恐れ、スマートフォンをいじくりまわす現代では特に難しいことかもしれません。

でも、ひとりぼっちを恐れなければ、どんな集団からも離れられるし、逃げることができるだろうと思うのです。

そして、ひとりぼっちはいつまでも続かないはずです。きっと誰かが声を掛け、手を差し伸べてくれるはずです。人間はいじめるけれど、同時にまた誰かを救いたいとも思う生き物のはずですから。

二学期が始まります。
いじめに悩む子どもたちが、大人たちが、ひとりでも減りますように。







2012年6月23日土曜日

教科書はタブレットになるか?

Windowsからも自社製のタブレットが発売されるようで、またスマートフォンも大型化されるようで、世界のIT話題はタブレット一色です。

というわけで、教育界にもタブレットを、という声が聞こえてきます。

教科書がタブレットになれば、音も映像も付き、ノートも兼ねることができ、そして何冊も持ち歩くことがなくなり、学年が変わってもコンテンツのアップデートだけですむ。
内容も、利便性も、コストもいいことづくめのような大合唱です。
眉をひそめているのは、ITが苦手な年配教師だけ・・・?

しかし、です。
大学生はともかくとして、小学生の教科書やノートをタブレットにしていいのでしょうか?

私は反対です。タブレットがこの先、さらに薄く美しく軽くなったとしても、反対です。
私はいつもこのブログをiPodtouchで書いています。少々の文章もiPodtouchで書きます。成績処理はエクセルでやり、プリントやワークシートはパワーポイントやワードを使います。ITのありがたさはよく分かっているつもりです。

しかし、小学生の授業にタブレットはいりません。
まず第一に、壊れるからです。残念ながら、壊れないタブレットはありません。

しかし、現在、教科書やノートは壊れません。落としても、投げても、折り曲げても壊れないのです。フリーズすることもないし、ブラックアウトすることもありません。

それほどの丈夫さを、確実さを、恒常性をタブレットが実現できますか?

子どもたちがふだんどのように教科書を扱うのか、見たことがありますか?

一日に何回教科書を机から落とすのか、知っていますか?

タブレットパソコンを使った授業をしたこともあります。そのときは、フリーズに備えて常に余分にタブレットパソコンを用意する必要がありました。

もちろん、電池切れにも配慮しなければなりません。誰か一人でもポップアップの警告が出るたびに授業は止まります。
たまのパソコンの授業ならともかく、毎時間それをやることは勘弁願いたいものです。

タブレットが教科書になるには、まだまだ時期尚早のように思います。

また、タブレットは子どもたちから「用意する」「準備する」行為を奪う可能性があります。

あらゆる教科書がコンテンツとして入っているということは、「時間割に合わせて用意する」ということをしないことになります。もちろん、絵の具や体操服は用意する必要がありますが、国語算数社会理科などの準備はほぼ無くなるのです。

もちろん、今でも時間割に合わせて用意などしない子もいます。常にあらゆる教科書をランドセルに入れているのです。従ってその子たちは教科書とノートに関しては忘れものをしません。

しかし、一様に机からいつも荷物が溢れ、床にものが落ちています。たくさんの荷物を押し込んでいるのだから、溢れるのはあたり前ですが、それ以上に片付けが苦手な子が多いように思います。

タブレットは、子どもたちから時間割を奪い、片付け下手にする可能性があるかもしれません。

また、タブレットの歴史は浅く、まだまだ発展途上です。

六年間、紙の教科書を準備するよりも、タブレット一台準備する方が、紙や印刷、運送コストを削減できるという意見があるそうですが、果たして本当でしょうか?

みなさんは六年前のパソコンをまだ快適に使っていますか?
六年前のケータイを今もストレスなく使っていますか?

それを考えれば「タブレット一台あれば・・・」なんて考えは甘いと言わざるをえません。

iPadが優れたデバイスであることは確かでしょう。今までの勉強方法や学びの仕方を変える側面を持っていることも確かです。

しかし、「教科書をタブレットに」という考えは今の子どもたちを見ていても無理があり、かつ望ましくないと思われます。

また、タブレットなんてほっといても、自然に子どもたちは使えるようになるでしょう。学校がわざわざ教えることではありません。

というわけで、全国の教育委員会のみなさん、文科省のみなさん、今、タブレット熱に冒されてはいけません。まだ発展途上です。今、税金をつかうべきではありません。4、5年後には使い物にならなくなります。タブレットという商品が完全に成熟し、世の中が本当にペーパーレスになったとき、考えてもいいのでは?




2012年5月31日木曜日

教師に向いていない条件とは?

久しぶりの更新になります。
やはり新学期はなかなか気忙しく、書こうという気持ちになりません。

しかし、何ヶ月も放りっぱなしでは情けない。
というわけで、教師の条件を考えてみます。


教師に「向いている」条件は、きっといくらでもあります。

話すのが得意
子どもが好き
教えるのが好き
運動が得意

など、キリがありません。
向いている条件というのは、理想の条件であり、いくらでもあるし、どんな職業にだって当てはまってしまいます。

だからこそ、「向いていない」条件を考えてみたいのです。

いろいろ悩みましたが、堂々の第一位は「朝が苦手」でしょう。

朝が苦手な人は教師には向いていません。いくら子どもが好きでも、情熱が溢れていても、朝になかなか起きられない人は教師にならない方が幸せな人生を送れるはずです。

なぜなら、学校の業務開始は書類上は8:30ですが、実際は違います。
その日の教室の窓や戸を開け、登校指導をしようとすると、その45分くらい前、つまり7:45には学校に着いておく必要があります。もちろん、そんなことはやらないと割り切るのもいいでしょう。

しかし、8時半ギリギリに滑り込んで、その日一日を何とかやり切るには、多少の経験が必要です。

私の周りを見渡せば、ほぼ教師は8時には全員出勤しています。
家を出るのが7時前の教師もたくさんいます。

また、普段でさえそれですから、行事がある日はもっと早くなります。体育会の日は6時くらいには出勤する同僚もいます。

とかく、教師の朝は早いのです。
なぜか?

「先生」に残業はないからです。下校時刻になったら、子どもは帰ります。この決まりは動かせません。
「ちょっと待ってて」
「ちょっと延長」
が許されないのです。

準備不足だから、打ち合わせを延期するとか、アポを取り直すなどということは絶対にできません。

だからこそ、子どもがくる前の時間を大切にし、やり残しや積み残しが出ないように準備するのです。
朝に。

夕方にやればいいじゃん、
と思うでしょう。

夕方は「先生」の仕事ではなく、「教師」の仕事がまっています。なんとか会議に、なんとか部会、なんとか委員会、いつ終わるかもしれない会議や打ち合わせが際限なく時間を奪います。

一教師として、先生として自分の時間が担保されているのは、朝しかないのです。

朝から頭が回転するような人間でなければ、教師としては、本人の情熱や能力以前に多大なハンデを背負っていることになります。

しかし、書店を見渡せば、
「朝型人間になる!」
「朝時間で仕事が変わる!」
「一時間前出勤で能率アップ!」
などと謳う書籍がたくさん出ています。朝に強いことが利点になるのは、民間でも同じことかもしれません。

教育大学では、一時限目の講義やゼミを8時に始めてみればいいのです。
そうしたら、きっと教師の適性が一ヶ月で分かります。わざわざ免許を取り、採用試験に受かって、働き始めてから「向いていない」ことに気がつく人間が多少は減るでしょう。

朝のスタートがまずければ、その日が全部失敗になるくらい、クラスの朝のスタートは大事です。朝からスイッチを完全に入れられなければ、仕事を続けるのがイヤになるの無理はありません。

朝がスロースタートの人は、デザイン事務所などの朝が遅い職場を選べばいいのです。
夕方からのバーテンダーでもいいかもしれません。

仕事が自分に合う合わないという問題は、仕事の内容よりも、仕事のやり方に大きなウエイトがあるように思うのは私だけでしょうか。


というわけで、今日も私は11時に寝て、明日は朝5時に起きます。




2012年3月25日日曜日

教育を受けるのか、教材を消費するのか?

行政サービスという言葉がいつからできたのかは知りませんが、今ではすっかり違和感がなくなりました。
最寄りの役所に行っても、「窓口サービス課」なんて表示があったりします。

サービスには必ず消費者という受け手がいます。消費者のことを考えてなされる行為のすべてをサービスと言います。
であるのならば、行政サービスの受けては、その自治体で暮らす人々です。行政サービスに教育も含まれるのであるならば、教育というサービスを受け取るのは、児童ということになります


いつの時代も「官は民を見習え」との声があると思いますが、消費者マーケティングというものがもてはやされてからは、一層拍車がかかるようになりました。おかげで、今や行政の行うすべての事業はサービスです。

教育も例外ではありません。

子供たちは、教育を消費しているのです。

今の子供たちの多くは(こんな言い方ができるほど私の教師歴は長くはありませんが)、新しいものにしか取り組みません。取り組めません。

例を挙げて考えてみます。
今も昔も小学生が使う教材に「ドリル」というものがあります。漢字ドリルや計算ドリルがそうです。ドリルがなぜドリルという名前を冠しているのかと言えば、「繰り返し取り組み、螺旋状に上達していく」という目的があるからでしょう。

繰り返し取り組むものなのです。一度やればそれでいいというものではありません。
しかし、子どもたちの多くは、お手本をもとに繰り返し漢字を書くことや、何度も計算問題を解くことを極度に嫌がります。
「もうやったじゃないか」
「前にやったのに」
というわけです。

もちろん、繰り返し取り組むことは決して楽なことではありません。文句を言わずに取り組む子どもたちにとっても楽しいものではないでしょう。しかし、それでもその繰り返しの中に楽しみを見出したり、辛さやマンネリに耐えて反復練習するものがドリルです。

そんな子どもたちを見ていて思いました。

これはまさに、消費だと。

流行歌のサイクルが速くなり、ファッショントレンドは毎年のようにコロコロ変わり、メーカーの新製品開発期間は恐ろしく短くなったことと別問題ではないと。

歴史は長い目でみれば螺旋のように繰り返すのかもしれません。
しかし、短期的に見れば、時間は未来へ向かって一直線の矢印のように進んでいて、我々のいる現在はまさにその矢印の先っちょにくっついて、次々にまだ見たことにない未来をかき分けて進んでいます。

私たちはそんな時代感覚の中にいるような気がします。無論、子どもたちも。


ここではない、どこかへ。
かつてではない、これからへ。

イノベーション、ソリューションを叫び続けて、私たちは今までにはなかったものを求め続けています。誰かのコピーになることを拒否し、いつかの繰り返しになることを恐れながら。

子どもたちは、授業を消費し、教材を消費し、テストを消費しています。教師からの呼び掛けや、強制がなければ、子どもたちは一度やった問題を見直すことなく、間違えても振り返ることなく、新しい次の何かを求めています。

しかし、私はこの問題を子どもたちだけに押し付けようとしたくはありません。

なぜなら、子どもたちは気に入った本ならば何度でも読み返しますし、好きな遊びは何度やっても飽きません。

繰り返す価値があるのです。

繰り返す耐性がない子どもであっても、価値があれば繰り返すことができるのです。

であるならば、我々教師が価値のある教育を与えているか、という問題に行き着きます。
一度やっただけで、興味を失うような教育を与えてはいないだろうか?
教師自身が「教科書を終わらせなければならない」という意識で教材を消費してはいないか?

我が身を振り返っても、反省するところが多いです。

教師の「とりあえず、やればいい」とでもいうような教科書をこなす姿を見れば、そりゃ子どもたちは教材を消費するでしょう。

もちろん万事が万事、そんなことをしている教師はいないでしょう。
大切なところは、落としちゃいけないところは、熱を込めて繰り返し何度も教え説くものです。

しかし、子どもはよく見ているもので、教師が「流しているところ」を感じ取って「ああ、こんなんでいいのか」なんて思うものです。(みなさんにも、経験があるでしょう)

しかし、どうしてもそんな教え方になってしまう教材もあるんですねえ…前にも書きましたが、学校は何が何でも「時間内に終わらせる」場所ですから。

しかし、「やるときはやる!」「繰り返しが大事だ!」と子どもたちにゲキを飛ばすのです。

2012年2月27日月曜日

なぜ日教組は嫌われるのか?

そろそろ、ど真ん中の問題について考えてみましょう。日教組です。

私が教師になる前からずっと日教組は嫌われものでした。それは今も変わりません。いや、酷くなっているかもしれません。

日本の教育のガンだと言われたり、学力低下の元凶だと言われたり。日教組はいったいなぜこんなにもボロカスに言われるのでしょう。

しかも、日教組はマスメディアで攻撃を受けているのにもかかわらず、日教組自身が公式会見を開いて反論したり、意見を述べたりするのを私は見たことがありません。普通、こんな言われ方をしたら、言われっぱなしにはしないはずです。自分たちの信条や行為がけなされているのですから。でも、彼らは黙ったままです。少なくとも、世間に対しては閉じています。

これが世の中の日教組観をますます悪いものにしていると私は思います。私だったら、何かを言います。たとえ、倍以上言い返されると分かっていても、言うでしょう。

…と言うくらいですから、私は日教組には入っていません。かなり勧誘を受けましたが、断り続けました。最初は、私が何となく面倒くさそうだから断っていると思っていたみたいですが、私がちゃんと考えを持って断っていることが知られてからは、それ以後勧誘はありません。

しかし、大学を出たばっかりで不安も多く、周りに相談できる人がいない若い人ならば、
「教師のほとんどが入るから」
「何かあったときに守ってもらえないよ」
「相談できる仲間がいないと困るよ」

…などと、ベテラン教師から毎日のように説得を受ければ、特に考えもなければ、なんとなく面倒くさいと思っていたくらいでは、根負けするでしょう。

新人に対して執拗な勧誘をする彼らは、何を信じて、どんな正義を胸に抱いて、新人を勧誘し組織の維持をはかろうとしているのでしょう?

私は気になって日教組とは、どんな組織なのかをちょっと調べてみました。

日教組は、日本教職員組合と言い、教師の労働組合です。その始まりは、GHQ統治下の戦後に始まります。言うまでもなく、日本国憲法はGHQ主導のもと作られたものであり、それは旧文部省だって同じことです。アメリカは文部省を押さえることで、日本の教育を押さえたのです。日本が二度と国粋主義に走らぬように。

しかし、面白くないのは旧ソ連でした。戦勝国であるにもかかわらず、出遅れたために日本の統治にはほとんど介入することができなかったからです。
そんな旧ソ連はアメリカ主導の戦後日本教育に危機感を感じ、自国の思惑や思想を日本に啓蒙するために組織を作りました。

それが日教組の始まりです。

教師に限らず、あらゆる労働組合はソ連の掲げる共産主義の影響下で生まれたはずです。たとえそれが、地方の片隅で一人の労働者から起こったものであったとしても。

しかし、日教組は完全にトップダウン的にできたものです。旧ソ連の主導で、GHQとの折り合いの元で作られました。
一教師が、自分たちの職場環境を何とかしようとして始まったものではないのです。

だからこそ、今でも日教組では、指示や思想や義務や要請や命令、あらゆるものが上から下りてきます。逆に組合費は給料から天引きされて、上へと徴収されていきます。
お分かりのように、これは共産主義らしいシステムです。旧ソ連は見事にこれを日本の教育現場に根付かせました。
彼らは日々、組合から指示される仕事に追われています。集会への動員、講演会への動員、活動報告、選挙での電話勧誘…
それらは本当は自分たちの主義の実現のために、自主的に行われるはずのものです。しかし、彼らは一様に」「やらされている」かのように、義務であるかのように、その仕事に取り組んでいます。
そう、かつて旧ソ連での集団労働がそうであったように。

そんなに嫌なら組合を脱退すればいいじゃないかと思われるかもしれませんが、抜けるのは大変です。ありとあらゆる手段を使って引き留めるそうです。幸か不幸か、私はまだその現場に遭遇したことはありません。

日教組はコミンテルンの下部組織のようなものですから、それは日本国歌にも日本国旗にも文句を付けます。体制側の決めるあらゆることに反対をするでしょう。それが、コミンテルンの注入した姿勢だからです。(コミンテルンは終戦までに解散をしていますが、その影響力は続いていたと解釈して書いています。)

しかし、先にも書いたように旧ソ連とGHQは折り合いを付けているのです。ですから、その下部組織である日教組と文部省は本当は折り合いが付いているのです。しかしポーズとしては、対立の姿勢を取ってきました。それは両者がともに日本の教育に介入し、国体をなし崩しに崩すという共通のねらいがあるものの、それぞれがやはり大きな東西冷戦の中にあったからです。

文部省vs日教組は、東西冷戦の代理戦争でした。その最大の被害者は言うまでもなく、国民です。自国の誇りを忘れさせられ、国民としての意識も薄められ、幼稚な自己意識だけを増長させられたのですから。

しかし、東西冷戦は終わりました。ということは、日教組vs文部省の代理戦争も終わったのです。その証拠にベルリンの壁の崩壊から遅れること数年、日教組と文部省は、彼らの言葉を借りれば、「歴史的和解」をしています。つまり、これからは対立を避け、歩み寄って協力をしていこうと約束し合ったわけです。表立って。

日教組は後ろ盾を失ったわけですから、文部省にすり寄るのも現実的な姿勢なのかもしれません。しかし手のひらを返すように、主義主張をひっくり返せない組合員もいました。それこそ、コミンテルンの啓蒙を大切にしていた人たちかもしれません。彼らは日教組とは袂を分かち、「全教」(全日本教職員組合)として新たなスタートを切りました。

組織で言えば、日教組のほうが多数派で、全教の方が少数派です。もちろん地域によって違いはありますが。

政治的なことを言えば、旧来日教組は社会党を支持してきたわけですが、社会党も分裂した現在では、主に日教組は民主党を、全教は共産党を支持しています。

この二十世紀末の日教組の混迷ぶりを見れば、いかに旧ソ連の影響が大きかったのか分かるはずです。
指針を失った彼らは、自分たちで何とか組織を運営しようとはしますが、本部は求心力を失って組合員は減り、文部省と和解した以上、文部省の決定は言わば自分たちの主義主張が加味されたものとなって、抗議や反対運動がしにくくなりました。
一方で、日教組を受け入れざるを得なくなった文部省は、ゆとり教育や自虐史観にみちた歴史教育を推進させるのです。
文部省が文部科学省に再編成されたのには、東西冷戦の終わりや「歴史的和解」の影響が少なくないと私はみています。

現在、日教組の主義主張は20年前と変わりません。コミンテルンの後ろ盾を失った彼らは新しい指針を打ち出せずにいます。
「教え子を戦場へ送るな」
「憲法9条を守れ」
機関紙にはまだこのような文言が踊ります。冷戦が終わり、ヨーロッパは一つになり、同時多発テロがアメリカのど真ん中で起き、中国は経済力をモノを言わせてどんどんと傲慢になり、アラブでは革命が次々と起こっている現在に、まるで響かないそんな文言を振りかざすしかないのです。

また、現在においても、年功序列で給料が上がり、住宅手当がある待遇でありながら、
「生活が苦しい」
「給料を上げろ」
「民間並みにの給料を!」
というプラカードを平気で集会で掲げたりするのです。(これは私の職場に実際にありました)

やはり彼らは冷戦時代で止まっているのです。アメリカと旧ソ連の二大バランスの元で、右肩上がりを謳歌した時代から何も変わっていないのです。その当時は上から降りてくる指針がありました。啓蒙がありました。
しかし、それがなくなってからも、彼らは自分の頭で考えることを放棄し、古典のような主義主張を現在でも繰り返しているように見えます。

彼らがいくらバッシングを受けても、表立った反論をしないのは、上から降りてくる指示がないからではないでしょうか? 今ではいくら上を仰いでも、主義主張も啓蒙も薫陶も降りては来ません。昔の教えをひたすら握りしめ、内輪の不満を抑え込み、「不遇の時代だ」と傷を舐め合うしかないのです。


こんなことを考えてみると、やはり日教組は嫌われるだろうなと思います。いつの時代も変革をしてきたからこそ、伝統がある、と誰かが言っていましたが、かつては改革だ革命だと叫んだ左翼の闘志たちは、今は当時のまま凝り固まり、変革ができずにいます。

働くものが自らの職場に意見をし、環境改善をするのは悪いことではありません。でも、それをするのに左翼思想に染まる必要はないし、民主党の選挙応援をする必要はありません。

私の知る教師一人ひとりは、それぞれにすばらしい人たちばかりです。教師として日々、学ぶところがたくさんあります。
でもそんな彼らが、社会人として自らの組合である日教組についてオープンに話すことをせず、沈黙したまま、長いものに巻かれるように巻かれ、半強制的に組合行事に駆り出されて行くのを見ると悲しくなります。

日教組を憎んで、教師を憎まず。

みなさま、どうかそのスタンスで。

2012年2月16日木曜日

結婚しない女性教師がなぜこんなに多いのか?

自分の周りを見回してみると、なんと独身の先生が多いことか。
それも女性が。

最初はてっきり家庭を持っているとばかり思っていた人が、実は独身だった、というパターンを次から次へと聞くわ聞くわで、びっくりしました。

お話をしていても、特に結婚に問題があるような人たちとは思えません。だから、きっと教師という職業に問題があるのか、学校という職場に問題があるかのどちらかなのです。

ことわりをいれておきますと、これは小学校での話です。中学校や高校では少し違うのかもしれません。

ちなみに私の周りには独身男性教師は、若手以外にはいません。つまり、男性にとっては、職業としても職場としても結婚に関して言うならば、問題はさほどないと考えられるのです。

では、女性教師にとって小学校にある障壁とはいったいなんだろうかということを余計なお世話を百も承知で考えてみます。

まず、男性教師が圧倒的に少ないということが挙げられます。男性教師の多くの伴侶が女性教師であるのは自他ともに認めるところであるから、男性教師を増やせば今の状態は多少は緩和されると思われます。

しかし、なぜこんなに男性小学校教師が少ないのでしょう?男性が小学校教師を志望しないわけでも、意図的に採用試験から振り落とされているわけでもありません。

ただ、教員採用試験はバカみたいに公平なのです。そう、バカみたいに。

22〜23歳の男女を筆記と面接で試験したら、女性の方がはるかに優秀なのです。それはあらゆる職業の採用担当の方が実感しているはずです。筆記だけならともかく、面接でその差はてき面に出ます。なぜだかは知りませんが、そうなってしまうのです。

しかし、企業ならば、それを考慮して男性を採ります。現時点での能力よりも、これからの伸びしろに期待をするからです。実際、男性は4、5年もすると女性に追いつきます。(まあ、これは私の勝手な意見ですが。)

しかし、公的な教員採用試験では、すべてが公平です。男性の成長の遅さは考慮されないのです。潜在能力ではなく、現在能力で測られるのです。

その結果、必要十分な数の男女が試験を受ければ、女性ばかりが採用され、小学校現場は女性教師ばかりということになります。

中学校や高校の先生方、いかがでしょう?
同じ現象が起こってますか?
それとも、そもそも女学生は小学校ほどには中学校や高校を志望しないため、バランスが取れているのでしょうか?

次に、結婚する必要がない、ということを考えてみます。

確かに、給料は男性と全く同じです。しかも、公務員ですから出世してもしなくても、給料は上がっていきます。一生一担任でありつづければ、責任は重くならずに、ただ給料だけが900万くらいまで上がり続けるわけです。

これは魅力でしょう。
働く世の女性たちがキャリアを手に入れようと必死で責任をどんどん背負って出世しようとしているのに比べれば、かなり恵まれていると言えるかもしれません。が、これは教師にかぎらず、公務員全般に言えることです。

しかし、役職が変わらないということは責任も変わりませんが、子どもと一緒に走ったり跳んだりしなければならないこともまた、変わりません。すべてがすべて、楽なわけではありません。

ともあれ、経済的にそして、生活パターンとして、小学校教師は女性一人で生きて行くのにまったく支障がなく、とかく現実的な女性が将来を見越しても、安心して身を投じられる仕事なのでしょう。

また、同じような境遇の独身の同僚がたくさんいれば(実際にたくさんいるのです)、話し相手にも旅行のつれにも困りません。


では、最後に「結婚できない」「結婚したくない」ということについて考えてみます。

もし、女性小学校教師が「結婚できない」のだとしたら、先に述べた通り、職場の男性が少なすぎるのはもちろんですが、「待ち」や「受け」のタイプが多いのではと考えられます。

彼女たちは幼少の頃より、待ち受ける能力は高いのでしょう。どんな変な教師が担任になろうと、どんな奇天烈な友人がいようと、その環境を受け入れて、けれど流されず、その中でそこそこうまくやってきたからこそ、教員免許を取得し、採用試験にも受かり、今、教師なわけです。

待ち受けて、その中でうまくはやれるのです。その中で。

しかし、その外に向かって動き出す能力には欠けているのではないでしょうか?

中の環境が整わない場合、待ち受けるだけではどうにもなりません。学校現場に適齢期の男性教師がいなかったら、そこまでなのでしょう。

では、「結婚したくない」としたら、その理由は何か?

それはきっと、子どもの嫌な部分や家庭の嫌な部分を見すぎたのです。家庭を持つことに対する夢がなくなってしまったに違いありません。


長々と書きましたが、まずもって、男性教師の採用を増やしましょう。たとえ、男子学生が女子学生に比べて見劣りしたとしても、それは長い教師生活でのわずか4、5年のことなのです。

教師が結婚もせず、子どもがいないと何か問題が起こったときに親たちから言われて一番辛いことは、
「先生は子どもがいないから、わからないんですよ」
という一言です。
若ければまだ甘んじて受けることができます。しかし歳を取るに連れ、いくら受け入れる能力の高い教師でも、受け入れ難くなってくるでしょう。

もちろん、親たちからしてみても、教師が若さ溢れる時期を過ぎれば、担任が家庭では「親」であってほしいと思うのは納得できる話です。
もちろん、名教師として名を残した人に独身が多いのも確かですが、女性教師には名教師になるよりも、幸せな家庭を望む人が多いような気がします。

つまり、男性教師を増やすことが女性教師にとっても幸いなことであり、彼女たちの親としての成長は、そのまま教師の成長となり、日本の教育力の成長となるのです。

世の男性の皆さん、いくらあなたが少々変わっていようと、女性教師の受け入れ能力はかなり高いです。
結婚相手として、一考ください。



2012年1月3日火曜日

教師はなぜ職業を隠すのか?

「隣の人にも先生だと言ってない。公務員って言ってる。」

と同僚の先生が言ってるのを聞いて、ま、そんなこともあるよなあ、くらいに思っていたら、それが教師の当たり前だと知って驚きました。

確かに人を教える立場の教師が、近所で清掃活動に参加しないとか、ゴミの分別をしないとか、そんなことがあるのなら、職業を隠すということもあるかもしれません。

しかし、普通に暮らすのなら、取り立てて意識しすぎることでいいことはないように思います。

体面として模範的でなければならないのは何も教師だけではありません。消防士にしても、僧侶にしても、スポーツ選手のような著名人にしても、世間は模範的であることを求めるでしょう。しかし、近所にそれを隠せないこともあるでしょうし、隠そうとは思わないのではないでしょうか?

隠せば人間関係が築けなかったり、不信感を与えることになりかねないと私は思うのです。

お仕事は?

と聞かれて、

「NPOです。」と返す人は変でしょう?
「公務員です。」と返す人も、「会社員です。」と返す人もやっぱりちょっと不十分でしょう。

その後に「どういう仕事?」とか「会社は?」とかいう質問がくるはずです。
そんな次の質問を防ぐには、ちょっと言いにくそうに、「まあ、一応…公務員ですね」とか歯にものが挟まったような言い方をするしかありません。そうしたら、「ああ、言いにくいのかな。この人はただの役所ではないな。警察かな?税務署かな?」と思われるのでしょう。

どうやら教師の多くもそんな返答をしているようなのです。

しかしです。
そんなことをしたって無駄です。

朝、スーツを着ずにジャージで出かけているのです。8月になったら、ずっと休みに入っているのです。

隠せるものではありません。どっからどう見たって教師です。
バレているのにバレていないと思い、そして相手の方も分かっているのに分かっていないふりを続けていては、やはり結局のところ教師の世界を狭め、教師だけが寄り固まり、教師を特別なものにしてしまうのです。

教師だと周囲に知れたからって、何も不都合はないはずです。
誰だって仕事をしている最中のONの顔と、仕事が終わった後のOFFの顔が違って当たり前です。
誰だって、営業スマイルや営業トークの様子を家族や友人や隣人に見られるのは多少なりとも気まずいものです。
誰だってスイッチを入れて仕事をしています。

だから、OFFはスイッチを切ればいいのです。もちろん、挨拶や法令遵守は当たり前ですが、お酒だってタバコだって、買い物だって宴会だって合コンだって堂々とやればいいのです。「職業:教師」を名乗って、OFFの顔を見せればいいのです。
それが当たり前です。

ただ、自分のクラスの子どもたちはそれが分かりません。教師がOFFだって、子どもたちにとっては「先生」です。
だから「教師は休まらない。いつどこでクラスの子どもに会うか分からない。教師は特殊だ」と思っても仕方ないところはあるかもしれません。

でも、堂々としていればいいのです。デートをしていたって、ハンバーガーを齧っていたって、恥ずかしいことをしているわけではありません。

ましてや、近所づきあいや習いごとや遊びで出会う人たちに、隠す必要なんてまったくないのです。

「教師は特殊だ」
なんて思っているのは教師くらいです。

自分の仕事には誇りを持てばいいし、報酬に見合う仕事をすればいいのだし、マスコミが何と責めようと、既得権益だと言われようと、教師ひとりひとりがONもOFFもきちんと顔を見せるべきです。

教師がそこで閉じこもるからこそ、いらぬ誤解も偏見も出来てしまうのです。

センセイ、自分の仕事を誇ろうぜ!
ONとOFFを見せようぜ。

ってまあ、このブログは本名でかいていませんがね。