2012年8月12日日曜日

学校から、なぜいじめはなくならないのか?

夏休みが終わります。
いつのまにか夏休みも最後になってしまっていました。やはり、持つ学年や担当によって忙しさは全然違います。二ヶ月ぶりの更新になります。

昨年は「教師の夏休みは長すぎるのか?」について考えました。
ぜひ、読んでいただければ幸いです。

で、今年はやはり「いじめ」について考えたいと思います。大津であんなきとがあった年ですし、きっと私のような半端な教師であっても教師の考えを聞きたい人もいるでしょうし、「教師は何を考えてるんだ?」と思っている人もいるだろうからです。

今回、大津の事件で大きく非難されているのは、以下の点です。

・いじめを教師が見ていたのに、止められなかったこと。
・いじめの訴えに取り合わず、事実を発表しなかったこと

まず、なぜ教師が止められないのか?ということを考えてみます。
今回でも先生は見ていても何も言わなかったのか、「やりすぎるなよ」としか言わなかったとか、色々な報道がされています。
この教師の行動をみなさんはどう考えますか?
無責任?
他人事?
甘すぎる?

これは、教師からの牽制だったと考えるのが正しいのではないかと私は思います。
教師がいじめらしきものがあるかもしれないと感づいたとき、
「いじめはゆるさん!」
といきなり勇ましく介入することはまずないでしょう。
教育はその名の通り、「教え育てる」ことを目指すからです。断罪したり、更生したりすることは範疇からズレるのです。
だからこそ、いじめられている子の様子を見守りながらも、教師はいじめっ子が自発的にいじめをやめることができるよう、チャンスを与えるのです。

それが、子どもたちの周りをうろつくことであり、「やりすぎるなよ」と軽くジャブを打つのです。

これがきっと、先生は見ているだけだったと言われたり、声を掛けただけだったと言われたりした行為だと私は思います。

しかし、これで終わってはいけません。このジャブでいじめっ子がいじめを改めなければ、教師は子どもの自発的更生を待つことなく介入しなければなりません。
大津の事件では、どうだったのでしょうか。いじめが教師の目の届かないところで行われるようになったか、教師がいじめがなくなったと誤認してしまったか、何らかの原因で最悪のケースに至ったのでしょう。
見て見ぬ振りをしたとは考えにくいです。嵐ならば過ぎ去るのを待つのでしょうが、いじめはいつ終わるか分かりません。見て見ぬ振りを決め込むような教師はいないと信じます。

では、なぜ学校はいじめの訴えに取り合わず、事実を公表しなかったのでしょう。

これは、学校のことなかれ体質が大きな原因かもしれません。もちろん、これは学校に限ったことではなく、あらゆる組織はことなかれ主義のはずです。

ぶっちゃけて非を自白してもクビ。
隠して万が一バレてもクビ。

組織人は、同じクビなら、バレるまで隠しておこう、と考える人ばかりです。ましてや校長や教育長など、組織の中である程度のポジションを築いた人はなおさらです。

訴えがあっても知らぬ存ぜぬを通し、あきらめてくれればもうけもの。万が一、裁判を起こされたら、その時は仕方がありません。

大津の中学校の教頭も校長も、訴えがあったときには覚悟を決めていたはずです。
これは隠蔽といえば隠蔽ですが、私は隠蔽という言葉を使うことに少し違和感があります。

積極的に隠しているわけではないのです。ただ、波風を立てずにそっとしておこうとしているのです。

言うなれば、無策です。保留です。思考停止と言ってもいいかもしれません。

教師の目の前には、常に成長する子どもたちがいます。何か問題が起きても、見守っているうちに何にもしなくても、子どもが成長することによっていつのまにか解決してしまうことも少なくありません。

それが教師が無策や思考停止に慣れてしまう原因の一つだと私は思います。

しかし、無策や保留、思考停止が取り返しのつかないことを引き起こすことは、年金や財政赤字、領有権などの問題を見れば、誰もが分かるところです。

無策は罪です。
間違えるかもしれないけれど、何か行動を起こそうとする人を、教師を評価する世の中であってほしいものです。


しかし、なぜいじめはなくならないんでしょうか。
こんなに卑劣で、誰もが憎む行為なのになぜ絶滅しないのでしょうか。

小学校からも中学校からも、高校からも、そして職場からもまるでなくなる気配がありません。
まるで、人間関係があるところには、必ずいじめがあるかのように思えてきます。
みなさんも周りを見渡せばそうかもしれません。私だってそうです。いじめを憎む教師が職員室では、うらであれこれ結託して、一人をいびったり、つまはじきにすることがあるくらいです。

大人がそもそもいじめを全滅できないのに、子どもに求めるのはやめましょう。学校でいじめが起きることは特別なことではありません。親や教師もそれを想定しておくことです。人間はいじめるものなのです。

日本では年間約三万人の人が自殺をします。東北の震災以上です。その最も多い理由が人間関係なのです。

これは異常です。
なんとかしなくてはなりません。震災なんて霞んでしまうくらいの惨事なのです。この10年で30万人が命を絶っているのですから。

いじめの発生を止めることができないのなら、私たちは耐性を身につけるしかありません。

反撃できる者は反撃し、防御できる者は防御し、逃げることができるものは逃げるのです。
そして、その後に待っているものは、仲間外れや無視などのひとりぼっちでしょう。
でも、それに耐えるのです。それがひとりぼっちへの耐性です。

ひとりぼっちを恐れない。私が現時点で考えることができる、いじめへの処方箋はこの「ひとりぼっちへの耐性」です。

だれもがひとりぼっちを恐れ、手持ち無沙汰を恐れ、スマートフォンをいじくりまわす現代では特に難しいことかもしれません。

でも、ひとりぼっちを恐れなければ、どんな集団からも離れられるし、逃げることができるだろうと思うのです。

そして、ひとりぼっちはいつまでも続かないはずです。きっと誰かが声を掛け、手を差し伸べてくれるはずです。人間はいじめるけれど、同時にまた誰かを救いたいとも思う生き物のはずですから。

二学期が始まります。
いじめに悩む子どもたちが、大人たちが、ひとりでも減りますように。