2012年2月27日月曜日

なぜ日教組は嫌われるのか?

そろそろ、ど真ん中の問題について考えてみましょう。日教組です。

私が教師になる前からずっと日教組は嫌われものでした。それは今も変わりません。いや、酷くなっているかもしれません。

日本の教育のガンだと言われたり、学力低下の元凶だと言われたり。日教組はいったいなぜこんなにもボロカスに言われるのでしょう。

しかも、日教組はマスメディアで攻撃を受けているのにもかかわらず、日教組自身が公式会見を開いて反論したり、意見を述べたりするのを私は見たことがありません。普通、こんな言われ方をしたら、言われっぱなしにはしないはずです。自分たちの信条や行為がけなされているのですから。でも、彼らは黙ったままです。少なくとも、世間に対しては閉じています。

これが世の中の日教組観をますます悪いものにしていると私は思います。私だったら、何かを言います。たとえ、倍以上言い返されると分かっていても、言うでしょう。

…と言うくらいですから、私は日教組には入っていません。かなり勧誘を受けましたが、断り続けました。最初は、私が何となく面倒くさそうだから断っていると思っていたみたいですが、私がちゃんと考えを持って断っていることが知られてからは、それ以後勧誘はありません。

しかし、大学を出たばっかりで不安も多く、周りに相談できる人がいない若い人ならば、
「教師のほとんどが入るから」
「何かあったときに守ってもらえないよ」
「相談できる仲間がいないと困るよ」

…などと、ベテラン教師から毎日のように説得を受ければ、特に考えもなければ、なんとなく面倒くさいと思っていたくらいでは、根負けするでしょう。

新人に対して執拗な勧誘をする彼らは、何を信じて、どんな正義を胸に抱いて、新人を勧誘し組織の維持をはかろうとしているのでしょう?

私は気になって日教組とは、どんな組織なのかをちょっと調べてみました。

日教組は、日本教職員組合と言い、教師の労働組合です。その始まりは、GHQ統治下の戦後に始まります。言うまでもなく、日本国憲法はGHQ主導のもと作られたものであり、それは旧文部省だって同じことです。アメリカは文部省を押さえることで、日本の教育を押さえたのです。日本が二度と国粋主義に走らぬように。

しかし、面白くないのは旧ソ連でした。戦勝国であるにもかかわらず、出遅れたために日本の統治にはほとんど介入することができなかったからです。
そんな旧ソ連はアメリカ主導の戦後日本教育に危機感を感じ、自国の思惑や思想を日本に啓蒙するために組織を作りました。

それが日教組の始まりです。

教師に限らず、あらゆる労働組合はソ連の掲げる共産主義の影響下で生まれたはずです。たとえそれが、地方の片隅で一人の労働者から起こったものであったとしても。

しかし、日教組は完全にトップダウン的にできたものです。旧ソ連の主導で、GHQとの折り合いの元で作られました。
一教師が、自分たちの職場環境を何とかしようとして始まったものではないのです。

だからこそ、今でも日教組では、指示や思想や義務や要請や命令、あらゆるものが上から下りてきます。逆に組合費は給料から天引きされて、上へと徴収されていきます。
お分かりのように、これは共産主義らしいシステムです。旧ソ連は見事にこれを日本の教育現場に根付かせました。
彼らは日々、組合から指示される仕事に追われています。集会への動員、講演会への動員、活動報告、選挙での電話勧誘…
それらは本当は自分たちの主義の実現のために、自主的に行われるはずのものです。しかし、彼らは一様に」「やらされている」かのように、義務であるかのように、その仕事に取り組んでいます。
そう、かつて旧ソ連での集団労働がそうであったように。

そんなに嫌なら組合を脱退すればいいじゃないかと思われるかもしれませんが、抜けるのは大変です。ありとあらゆる手段を使って引き留めるそうです。幸か不幸か、私はまだその現場に遭遇したことはありません。

日教組はコミンテルンの下部組織のようなものですから、それは日本国歌にも日本国旗にも文句を付けます。体制側の決めるあらゆることに反対をするでしょう。それが、コミンテルンの注入した姿勢だからです。(コミンテルンは終戦までに解散をしていますが、その影響力は続いていたと解釈して書いています。)

しかし、先にも書いたように旧ソ連とGHQは折り合いを付けているのです。ですから、その下部組織である日教組と文部省は本当は折り合いが付いているのです。しかしポーズとしては、対立の姿勢を取ってきました。それは両者がともに日本の教育に介入し、国体をなし崩しに崩すという共通のねらいがあるものの、それぞれがやはり大きな東西冷戦の中にあったからです。

文部省vs日教組は、東西冷戦の代理戦争でした。その最大の被害者は言うまでもなく、国民です。自国の誇りを忘れさせられ、国民としての意識も薄められ、幼稚な自己意識だけを増長させられたのですから。

しかし、東西冷戦は終わりました。ということは、日教組vs文部省の代理戦争も終わったのです。その証拠にベルリンの壁の崩壊から遅れること数年、日教組と文部省は、彼らの言葉を借りれば、「歴史的和解」をしています。つまり、これからは対立を避け、歩み寄って協力をしていこうと約束し合ったわけです。表立って。

日教組は後ろ盾を失ったわけですから、文部省にすり寄るのも現実的な姿勢なのかもしれません。しかし手のひらを返すように、主義主張をひっくり返せない組合員もいました。それこそ、コミンテルンの啓蒙を大切にしていた人たちかもしれません。彼らは日教組とは袂を分かち、「全教」(全日本教職員組合)として新たなスタートを切りました。

組織で言えば、日教組のほうが多数派で、全教の方が少数派です。もちろん地域によって違いはありますが。

政治的なことを言えば、旧来日教組は社会党を支持してきたわけですが、社会党も分裂した現在では、主に日教組は民主党を、全教は共産党を支持しています。

この二十世紀末の日教組の混迷ぶりを見れば、いかに旧ソ連の影響が大きかったのか分かるはずです。
指針を失った彼らは、自分たちで何とか組織を運営しようとはしますが、本部は求心力を失って組合員は減り、文部省と和解した以上、文部省の決定は言わば自分たちの主義主張が加味されたものとなって、抗議や反対運動がしにくくなりました。
一方で、日教組を受け入れざるを得なくなった文部省は、ゆとり教育や自虐史観にみちた歴史教育を推進させるのです。
文部省が文部科学省に再編成されたのには、東西冷戦の終わりや「歴史的和解」の影響が少なくないと私はみています。

現在、日教組の主義主張は20年前と変わりません。コミンテルンの後ろ盾を失った彼らは新しい指針を打ち出せずにいます。
「教え子を戦場へ送るな」
「憲法9条を守れ」
機関紙にはまだこのような文言が踊ります。冷戦が終わり、ヨーロッパは一つになり、同時多発テロがアメリカのど真ん中で起き、中国は経済力をモノを言わせてどんどんと傲慢になり、アラブでは革命が次々と起こっている現在に、まるで響かないそんな文言を振りかざすしかないのです。

また、現在においても、年功序列で給料が上がり、住宅手当がある待遇でありながら、
「生活が苦しい」
「給料を上げろ」
「民間並みにの給料を!」
というプラカードを平気で集会で掲げたりするのです。(これは私の職場に実際にありました)

やはり彼らは冷戦時代で止まっているのです。アメリカと旧ソ連の二大バランスの元で、右肩上がりを謳歌した時代から何も変わっていないのです。その当時は上から降りてくる指針がありました。啓蒙がありました。
しかし、それがなくなってからも、彼らは自分の頭で考えることを放棄し、古典のような主義主張を現在でも繰り返しているように見えます。

彼らがいくらバッシングを受けても、表立った反論をしないのは、上から降りてくる指示がないからではないでしょうか? 今ではいくら上を仰いでも、主義主張も啓蒙も薫陶も降りては来ません。昔の教えをひたすら握りしめ、内輪の不満を抑え込み、「不遇の時代だ」と傷を舐め合うしかないのです。


こんなことを考えてみると、やはり日教組は嫌われるだろうなと思います。いつの時代も変革をしてきたからこそ、伝統がある、と誰かが言っていましたが、かつては改革だ革命だと叫んだ左翼の闘志たちは、今は当時のまま凝り固まり、変革ができずにいます。

働くものが自らの職場に意見をし、環境改善をするのは悪いことではありません。でも、それをするのに左翼思想に染まる必要はないし、民主党の選挙応援をする必要はありません。

私の知る教師一人ひとりは、それぞれにすばらしい人たちばかりです。教師として日々、学ぶところがたくさんあります。
でもそんな彼らが、社会人として自らの組合である日教組についてオープンに話すことをせず、沈黙したまま、長いものに巻かれるように巻かれ、半強制的に組合行事に駆り出されて行くのを見ると悲しくなります。

日教組を憎んで、教師を憎まず。

みなさま、どうかそのスタンスで。

2012年2月16日木曜日

結婚しない女性教師がなぜこんなに多いのか?

自分の周りを見回してみると、なんと独身の先生が多いことか。
それも女性が。

最初はてっきり家庭を持っているとばかり思っていた人が、実は独身だった、というパターンを次から次へと聞くわ聞くわで、びっくりしました。

お話をしていても、特に結婚に問題があるような人たちとは思えません。だから、きっと教師という職業に問題があるのか、学校という職場に問題があるかのどちらかなのです。

ことわりをいれておきますと、これは小学校での話です。中学校や高校では少し違うのかもしれません。

ちなみに私の周りには独身男性教師は、若手以外にはいません。つまり、男性にとっては、職業としても職場としても結婚に関して言うならば、問題はさほどないと考えられるのです。

では、女性教師にとって小学校にある障壁とはいったいなんだろうかということを余計なお世話を百も承知で考えてみます。

まず、男性教師が圧倒的に少ないということが挙げられます。男性教師の多くの伴侶が女性教師であるのは自他ともに認めるところであるから、男性教師を増やせば今の状態は多少は緩和されると思われます。

しかし、なぜこんなに男性小学校教師が少ないのでしょう?男性が小学校教師を志望しないわけでも、意図的に採用試験から振り落とされているわけでもありません。

ただ、教員採用試験はバカみたいに公平なのです。そう、バカみたいに。

22〜23歳の男女を筆記と面接で試験したら、女性の方がはるかに優秀なのです。それはあらゆる職業の採用担当の方が実感しているはずです。筆記だけならともかく、面接でその差はてき面に出ます。なぜだかは知りませんが、そうなってしまうのです。

しかし、企業ならば、それを考慮して男性を採ります。現時点での能力よりも、これからの伸びしろに期待をするからです。実際、男性は4、5年もすると女性に追いつきます。(まあ、これは私の勝手な意見ですが。)

しかし、公的な教員採用試験では、すべてが公平です。男性の成長の遅さは考慮されないのです。潜在能力ではなく、現在能力で測られるのです。

その結果、必要十分な数の男女が試験を受ければ、女性ばかりが採用され、小学校現場は女性教師ばかりということになります。

中学校や高校の先生方、いかがでしょう?
同じ現象が起こってますか?
それとも、そもそも女学生は小学校ほどには中学校や高校を志望しないため、バランスが取れているのでしょうか?

次に、結婚する必要がない、ということを考えてみます。

確かに、給料は男性と全く同じです。しかも、公務員ですから出世してもしなくても、給料は上がっていきます。一生一担任でありつづければ、責任は重くならずに、ただ給料だけが900万くらいまで上がり続けるわけです。

これは魅力でしょう。
働く世の女性たちがキャリアを手に入れようと必死で責任をどんどん背負って出世しようとしているのに比べれば、かなり恵まれていると言えるかもしれません。が、これは教師にかぎらず、公務員全般に言えることです。

しかし、役職が変わらないということは責任も変わりませんが、子どもと一緒に走ったり跳んだりしなければならないこともまた、変わりません。すべてがすべて、楽なわけではありません。

ともあれ、経済的にそして、生活パターンとして、小学校教師は女性一人で生きて行くのにまったく支障がなく、とかく現実的な女性が将来を見越しても、安心して身を投じられる仕事なのでしょう。

また、同じような境遇の独身の同僚がたくさんいれば(実際にたくさんいるのです)、話し相手にも旅行のつれにも困りません。


では、最後に「結婚できない」「結婚したくない」ということについて考えてみます。

もし、女性小学校教師が「結婚できない」のだとしたら、先に述べた通り、職場の男性が少なすぎるのはもちろんですが、「待ち」や「受け」のタイプが多いのではと考えられます。

彼女たちは幼少の頃より、待ち受ける能力は高いのでしょう。どんな変な教師が担任になろうと、どんな奇天烈な友人がいようと、その環境を受け入れて、けれど流されず、その中でそこそこうまくやってきたからこそ、教員免許を取得し、採用試験にも受かり、今、教師なわけです。

待ち受けて、その中でうまくはやれるのです。その中で。

しかし、その外に向かって動き出す能力には欠けているのではないでしょうか?

中の環境が整わない場合、待ち受けるだけではどうにもなりません。学校現場に適齢期の男性教師がいなかったら、そこまでなのでしょう。

では、「結婚したくない」としたら、その理由は何か?

それはきっと、子どもの嫌な部分や家庭の嫌な部分を見すぎたのです。家庭を持つことに対する夢がなくなってしまったに違いありません。


長々と書きましたが、まずもって、男性教師の採用を増やしましょう。たとえ、男子学生が女子学生に比べて見劣りしたとしても、それは長い教師生活でのわずか4、5年のことなのです。

教師が結婚もせず、子どもがいないと何か問題が起こったときに親たちから言われて一番辛いことは、
「先生は子どもがいないから、わからないんですよ」
という一言です。
若ければまだ甘んじて受けることができます。しかし歳を取るに連れ、いくら受け入れる能力の高い教師でも、受け入れ難くなってくるでしょう。

もちろん、親たちからしてみても、教師が若さ溢れる時期を過ぎれば、担任が家庭では「親」であってほしいと思うのは納得できる話です。
もちろん、名教師として名を残した人に独身が多いのも確かですが、女性教師には名教師になるよりも、幸せな家庭を望む人が多いような気がします。

つまり、男性教師を増やすことが女性教師にとっても幸いなことであり、彼女たちの親としての成長は、そのまま教師の成長となり、日本の教育力の成長となるのです。

世の男性の皆さん、いくらあなたが少々変わっていようと、女性教師の受け入れ能力はかなり高いです。
結婚相手として、一考ください。