「教育委員会に言ってやるぞ」
「それって体罰じゃん」
「マスコミに言ってやろうか」
そんなセリフで教師に食ってかかってくる子どもはいつの時代にもいたかもしれません。
教師に怒られて腹がたったとき。
あまりの粗暴さに教師がつい手を出してしまったとき。
教師を舐めてかかっているとき。
子どもたちは、困っている大人を見るのが大好きです。普段は、自分たちに次から次へと「あれやれ、これやれ」と指示を出している教師が、次の言葉を継げなかったり、話題を変えて誤魔化したりすると、もう鬼の首を取ったように大騒ぎです。
「ちゃんと答えてよ、大人なんだから」
「だから大人ってずるいよな」
「自分が言い返せなかったら、いつも『うるさい』『だまれ』って」
別に今に始まったことではないでしょう。私もそんな風におもうことがあったような気がしますし、直接親や教師に言うようなときもあったかもしれません。
しかし、今は状況が違います。何の状況が違うのかというと、教師の権威と社会のセーフティネットの状況です。
教師の権威なんて、もうすっかり地に落ちました。カラ出張にカラ出勤、淫行に飲酒運転など数々の不祥事が繰り返されたことに加え、大学へ入るのも教員免許状を取得するのも難しい時代ではなくなったからです。
そして社会のあらゆるセーフティネットが強化されつつあることも見逃せません。
労働条件、労働環境、生活保護、いじめ防止、DV対策など、数え上げればキリがないほど、社会のセーフティネットは強化されてきました。
これはダメ。
ここまでは○、ここからは×。
これは実は犯罪である。
世の中の人間関係のルールが明確化されたのです。セーフティネットとはそんな安全網だと私は考えています。
グローバル化の結果かもしれませんし、IT化の賜物かもしれません。
良い言い方ではありませんが、「なあなあで済ます」ということが許されない時代になったのです。
経営者と雇用者で考えてみれば、かつての
「悪い、申し訳ないけど、今日はちょっと残業してこの仕事を仕上げてくれ」
というようなことが、通用しにくくなってしまっているのです。
「まあ、社長のいうことならしゃあないな」
と、受け止められていたものが、
「それは業務命令ですか?」
と、返されてしまうようになったのです。
教師が
「バカやろう!廊下に出ろ!」
と、怒ったら、かつては
「すみません、もうしません」
とその場で反省の態度を表していたところを今では、
「僕はバカと言われた。バカは廊下に出させられるんだ」と家に帰って漏らし、体罰の問題へと発展するのです。
義理や情け、しごき、叱咤、そんな行動や関係は、すべて基準や契約や条文といった明瞭なものによって線を引かれるようになったのです。
よって、
「あの先生が廊下に立たせたのなら、仕方ない」ということは存在せず、「どの先生でも廊下にたたせてはいけない」ということになったのです。
先だって体罰の事件がどんどんと明るみに出たとき、「ときに体罰があってもいい」という容認派の人たちがかなりいました。
その人たちは、決して体罰を推奨していたわけではなく、ただ自分が悪いことをしたときに本気で怒ってもらったことのありがたさを覚えているだけだと思うのです。
自分に向かう大人の怒気を。
頬を打たれた手のひらの熱さを。
自分をにらみながらも、うるんでいた瞳を。
覚えているんだと思います。
私もそうです。
自分を本気で起こってくれた先生のことは今でも好きです。顔を真っ赤にして、勢い余ってメガネがずれ落ちるほどの勢いで私を叱ってくれました。
子どもは、よく分かっています。
大人が本気で怒っているか、それとも立場上形式的に怒っているかを。
叱り方にはテクニックがいるそうです。子育て本にも、教師向けのノウハウ本にもそう書いてあります。
しかし、私の浅い教師経験で言わせてもらえば、テクニックより何より、気持ちです。
教師自身が、
「どうでもいいことだけど」
「面倒だな」
「一応、言わなきゃな」
くらいの気持ちで叱る、怒るをしても、子どもには全く染み込んでいきません。
人間は形式には形式で返すものなのです。
「すみませんでした」
「次からはもうしません」
「気をつけます」
そんなセリフが子どもたちからスラスラと出てきます。セリフだけが。まるで、台本を読むかのように。
毎度毎度、全身全霊で叱ったり怒ったりする必要はないと思うのですが、テクニックより何より、「自分はこれだけ怒っている」という気持ちを教師がどれだけ見せられるか、が大事なのではと今の私は考えています。
怒ったあとにヒザに乗せろだとか、叱ったあとに抱きしめろだとか、帰る前に「あなたのことを考えて叱ったんだよ」と言えだとか、そんなもの形だけやっても子どもが鼻白むだけです。
だからと言って、怒っていることを伝えるために殴るわけでもありませんし、蹴り飛ばすわけでもありません。ただ、廊下に引きずり出したり、大声を出して怒ったりはします。
もし、子どもや保護者が訴えれば、きっと私は無傷では済まないはずです。懲戒の範囲を超えて、体罰と認定される行為をしているかもしれません。
他の児童に被害が及ぶ場合、これを許すとクラスの秩序が守れない場合、私は覚悟を決めて、問題行動を止めにかかることにしています。
どんな覚悟かといえば、そう、
「こっちも無傷じゃ済まないかもな」という覚悟です。もちろん、その傷とは流血のことではなく、職のことです。
勢い余って、その子はケガをするかもしれません。私が思い切り握った手首に痕が残るかもしれません。こっちが冷静さを失うかもしれません。
そうなれば、親御さんが学校や教育委員会に訴えることになるかもしれませんし、見ていた子どもたちも私の行動を問題視するかもしれません。
でも、私は「ここは体を張ってでも、全力で怒鳴っても、その子を引きずり回しても、今、止めなければならない、やめさせなければならない」とき、そんな覚悟を持って行動します。
働いていれば、「この判断が間違ってたら、大損害だな。クビかもな」という決断をしなければならないときが誰にだってあるはずです。
ところが、基本的に犯罪を犯さない限り免職のない教師は、仕事を失うかもしれないという状況に免疫がありません。
だからこそ、「教育委員会に訴えるぞ」だの、「マスコミに言うぞ」だの、そんな脅し文句に怯えるのかもしれません。また、子どもたちも調子に乗るのかもしれません。
野球がヘタクソだから殴る。
やる気が見られないから蹴る。
それは厳罰に処すべきです。
しかし、
暴れている子を廊下に引きずりだす。
執拗にいじめ行為をする子を恫喝する。
それは、教師は全力で、本気で、大人を見せるときだと思うのです。
私は萎縮なんて絶対にしたくはありません。たとえ世の中が教師の行動に厳しくなろうが、処罰が厳しくなろうが、ならぬものはならぬと言わなければならないし、子どもたちには働くことはこういうことだという姿を見せねばならないと思うのです。
子どもが思いつくようなからかいや、揚げ足取りになんてびくともせずに。
教師のみなさん、まあ、教師をクビになっても命までは取られません。職だって選り好みしなければ、きっとなんとかなるでしょう。
真面目に授業を受けている子のために、学校が楽しいと言ってくれる子のために、少しでも今より成長しようと努力する子のために、本気で怒るときは本気でいきましょう。
かつて、顔を真っ赤にしながらメガネをふり落としてでも私をしかってくれた先生のように。