2014年11月7日金曜日

一学級は何人であるべきか?

お先日のニュースでは文科省と財務省のバトルが報道されていました。

小学一年生の35人学級を維持するには、教師確保に年間84億円かかり、35人学級にしても40人学級時代といじめ発生率は変わらないことを根拠に、35人学級を打ち切りたい財務省。

1クラスの人数は少ないほど教育効果は高いと教育関係者は誰もが認めるとし、いじめ発生率の微増は教師の意識の高まりに他ならないと主張して教員増を求める文科省。

たった5人枠でなんでそんなにモメるんだ?

と思う人も多いかもしれません。

自分のクラスが34人だろうと、38人だろうと、そんなに何も変わらなかった、と昔を思う人もたくさんいるでしょう。

しかし、この5人枠は大きな違いを産みます。

自分の学校の話をします。

1学年、だいたい140〜150人くらいの学校に勤めています。

つまり、小学校6学年あれば、全部で900人くらいの子どもがいます。

もし、35人学級だったら。

1クラスを35人以下に抑えるためには、140人を

28人✕5クラス

に分けます。というわけで、たいてい一年生は5クラスです。

では、35人学級が適用されない6年生になると、同じ150人でも

35人✕4クラス

となります。

1クラスあたりの子どもの数の差は5人よりも大きくなります。

たかが7人ではありません。
7人違えば、忙しさは全然違います。

毎日の宿題の丸付けから、テストの採点、ノートのチェック、成績表の作成といった子ども一人ひとりに対する仕事はもちろん時間を取られます。

私は最も少ない時で28人、最も多い時で38人を経験していますが、10人違えばまるで違う職業のように感じられるくらいです。

28人が余裕があって、ヒマでラクだと言っているわけではありません。今の日本にヒマでラクな仕事などないでしょう。

28人のときは、「あの子、分かってないな」とか、「あの子、なんか変だな」ということに気づきやすかったように思います。しかし、毎年、子どもも学年も違うので、きちんと比較できるわけではありません。

ノートや宿題は明らかに丁寧にチェックしていましたが。

35人学級を導入してから、いじめの発生率が微増しているのは、教師の意識の高まりだと下村大臣は言いましたが、私は少し違うと思います。

変わったのは「いじめの定義が認知されたこと」です。

「いじめとは、いじめられた方がそれをいじめと捉えたら、いじめである」という定義が完全に学校現場や家庭に根付いたのがここ最近です。私の感覚で言うと、ここ4〜5年といったところでしょうか。

ぞれまでは、いじめられる方にも原因がある、なんて理屈こそ既に聞かれなくなっていたものの、学校現場は「いじめ」の三文字を使うことにひどく怯え、「いやがらせ」だの「つらい思い」だの似たような曖昧な表現で回避していたように思います。

また、大津の事件依頼、文科省や教育委員会の取り組みも変わりました。

年に1回、いじめアンケートなるものを実施します。「いやな思いをしてませんか?」「そんな友だちを知りませんか?」と子どもたちに聞くアンケートです。そりゃ、報告に上がるいじめ件数は増えて当たり前です。文科省の主張はもっともです。
35人学級と同列で論じる話ではありません。

そして、学年ごとに振り分けられる仕事も教師が5人いれば5分割ですが、4人ならば4分割です。
クラス担任としての仕事以外の学年としての仕事の総量を100とするならば、それが20になるか25になるかは大きな差です。

また全学年で35人学級が実現できれば、学校全体で教師は最大6人増えるかもしれません。

これは、事務仕事や報告書作成においては、確実に一人あたりの負荷を小さくしてくれます。
トラブルが起きた時の対応の速さも細かさも違ってくるでしょう。

私の学校で言えば、教師が約50人いますが、もし55人になれば「あの担当はもう一人いるな」という所がいくつかあるので、大助かりです。生徒指導とか、体育とか、情報とかね。

ただし。
ただし、です。

財務省の言うとおり、予算がないならば、人員は増やせません。教師は公務員ですから、赤字を垂れ流して教師を増やすことに世論が両手を上げて賛成することはないでしょう。

教師は言います。

教育は、国の根幹だ。
子どもは国の宝だ。
国づくりは人づくりだ。

早い話が、

ビルより教育だ。
戦車より教育だ。
道路より教育だ。

というわけです。

教育にケチる国に将来はない、とでも言わんばかりに。
でも、財務省は厳密に言えば、教育にケチっているわけではありません。教育にかかる人件費をケチっているのです。教科書や黒板や机をケチっているわけではありません。

人を削るより、

無駄な工事を減らせ!
無駄な事業を減らせ!

とも、教師は言います。

しかし誰にとっても無駄な事業なんてあるんでしょうか?
そこでなにかの仕事が生まれ、誰かの収入に繋がっているのに。

だから、逆に言われているのです。

一人で子ども40人くらい面倒みろよ、と。
経費圧縮に一番効果があるのは、人件費なんだと。
人を増やすより先に1人ひとりの守備範囲を広げろよ、と。
お前らの人件費のために借金を背負うのは目の前の教え子だぞ、と。

手厳しい…

みなさんは、財務省と文科省の言い合いをどう見ていますか?

どっちの言い分が時代に合っているのでしょう?

私は1クラスあたりの児童数は、40人までなら何人でもいいです。でも40を超えると、机が教室に入りません。物理的には入りますが、暮らせません。なので、35人学級にこだわりません。

おいおい、さっきと言ってることが違うじゃないか。

と、思った方。
続きがあるのです。

小学校が35人学級にこだわると、人件費だけでなく、ハードにも莫大な費用が必要です。

教室です。

今、住宅地の小学校では校庭を潰してプレハブを建てています。児童数が増え、また各自治体が独自に少人数クラスを目指しているからです。

これは子どもを不幸にします。
何せ児童数は多いのに、運動場が狭くなるのですから。

だから、35人学級にこだわってクラスの数を増やしてはいけません。1クラス40人でもいいのです。
プレハブは、財政にも子どもにも不幸でしかありません。

しかし、教師は学年に

クラス数+1

配置しましょう。

クラスを増やさず、教師を増やすのです。

なんだ、結局、教師を増やせと言うのか、と思われるかもしれません。

しかし、このクラス担任ではない+1の教師がいれば、現場は全く違うでしょう。

問題行動の対応が授業を潰さず、自習にせずにできます。

担任が出張しても、困りません。

授業についていけない子どものフォローができます。

昼間に保護者対応ができます。

授業中に宿題チェックができます。

担任でないからこそ、子どものためにできることが山ほどあります。

35人学級にしてクラス担任をふやしていてはできないことが、40人学級にして+1でできるのです。

しかも、プレハブを減らせます。
人件費はかかりますが、総経費は35人学級より安上がりです。

どうです?文科省のみなさん。
どうです?財務省のみなさん。

ぜひ、検討していただきたいのですが、このブログまで辿りついてくれますかね…

2014年10月17日金曜日

なぜ教師には残業代がないのか?

どうやら、日本の教師は忙しすぎるようで、中学校の先生に至っては部活動という特殊な仕事のために、勤務時間が超過し過ぎていると、ニュースになりました。

ちなみに部活動で休日出勤したときの手当は一日でも数百円です。

基本的に教師には残業代がありません。私立のことは分かりませんが、公立ではありません。

勤務時間を超えて働く教師がほとんどのはずなのに、残業代はないのです。

なぜか?

公務員だから?
教職は聖職だから?
全員に残業代を払うと税金がいくらあっても足りないから?

色々言われているのですが、最大の理由は、「残業ではない」からです。

ブラック企業だの、ダンダリンだの労働条件に関しては昨今はニュースも話題も多いので、改めていうことではないのですが、残業とは、

・上司や管理職が組織や会社のために必要であると認めた業務であること

・上司や管理職の指示のもとに行う業務であること

…ような仕事のことを言うらしいのです。(細かい言葉遣いは違いますね。でも意味は間違っていないはず)

さて、教師の残業はというと、ほとんどが自分の判断で居残っているのです。上司や管理職の指示ではありません。

だって、まず上司や管理職は教頭と校長しかいないのですから、ヒラ教諭が自分のクラスの仕事のうち、何をどこまで進めているのか、なんて把握しちゃいられません。

授業の準備、ワークシートの作成、漢字練習帳の丸付け、テストの採点、作文の添削、、、など、管理職はノータッチです。

教師が「明日までにやらないとマズイ」と自分で判断すれば、残業するのです。そこには、組織のために必要だとか、上司が認めるとか、そんな手続きはありません。

つまり、自主的にやる仕事のため、残業の範疇には入らないのです。ま、教師たちは残業だと思っていますし、「残業代なんて出ないのにみんな頑張るねぇ」なんてグチりながら、自分たちは残業をしていると思っています。

採点も授業準備もワークシート作成も、ひょっとして仕事をテキパキとこなし、スキマ時間を有効利用することができる人ならば、残ってやる必要がないかもしれません。
残ってやる人は、ただ単にダラダラとやっているだけかもしれません。

なんか、どこかで聞いた話だなと思われた方は、そうです、昨今、ホワイトカラーエグゼンプションで騒がれていることが、なんと、何十年も前から教師には適用されているのです。しかも、年収が300万円くらいだったとしても、です。

労働時間あたりの質を上げろ!

なんて、本当は教師に聞かせなければならないのかもしれません。
教師は日頃、費用というものを意識することがほとんどありません。コスト意識は低いです。自分の年収が、仮に500万だとしても、保険や環境設備維持を含めれば、その人にその倍の1000万くらいかかる、ということを知らない教師は少なくありません。

しかし、教師に残業代がない本当に大きな理由は、実は、自分で判断して残って仕事をするから、ではありません。もっと、決定的な理由があります。

それは、教師は自分たちで仕事を増減できる、ということです。

日々の仕事における決定機関は、同じ学年や教科ごとに編成された学年会議や教科会議と呼ばれる5〜6人の打ち合わせです。
また、それとは別に行事や全校に関わる問題を扱う部会があります。基本的には、各学年から1〜2名ずつ出席して、職員会議の議案を事前検討する、といった役割を負っています。

それより、大きなものは職員会議です。

それら、大小の会議は、ヒラ教諭によって構成されています。そして、最高決定機関である職員会議は、基本的に全員が出席して意見を言う非効率なまでに民主的な会議です。

何を言いたいのか、もうお分かりだと思いますが、教職という仕事は、私の知る限り、教師が仕事を減らそうと思えば、減らすことができるシステムをとっているのです。
提案するのも、決定するのも自分たちなのですから。

例を挙げます。

昨今、全国の小学校には、業者テストというものが広まりつつあります。学力調査ではありません。

学校のテストのことです。

小学校のテストといえば、先生たちが作るものでした。手書きにしろ、タイプライターにしろ、またパソコンにしろ、先生たちが手作りしていました。もちろん、今も手作りしている先生方や学校も数多くあることでしょう。

テストを見れば
「ああ、これは○○先生が作ったな」
と子どもたちでさえ、分かることも多かったと思います。

しかし、今は、教材会社の作るテストを購入し、子どもたちを評価する学校も増えてきています。

一年分のテストを前もって購入するのです。そして時期が来れば、それを一枚ずつ子どもたちに取り組ませるのです。

なぜ、そんな業者テストが広まりつつあるのでしょう?

理由1
学力調査を念頭においているから。

業者テストは、教科書はもちろん、毎年の学力調査の出題傾向を分析して作られています。教師がする分析よりもはるかに精度が高いと言わざるを得ません。学力調査で好成績を収めるには、効果があるとしている学校もあるでしょう。

理由2
教え漏れ、を防ぐため。

教師は教科書を最低基準として教えることが求められています。しかし、人間ですから、教え漏れが発生することがあります。そんなときは、後に教え直すとしても、テストからは除外しておこうか、となりがちです。その点、業者テストを事前にチェックしておけば、教師は教え漏れを防ぐことでき、テスト問題の質を全国レベルで揃えることができます。

理由3
教師は多忙であるから。

教師の忙しさは過去に何度も触れています。
「なぜ教師は心を病むのか」
「教師はなぜ忙しぶるのか」
などを読んでいただければと思います。
つまり、これはアウトソーシングです。テスト一枚作るのに、2時間も3時間もかけ、それをまた他の先生がチェックして、修正し、印刷する、という手間ひまよりも、教師の本分である授業を工夫すべし、というわけです。

そんなわけで、テストを手作りする作業をアウトソーシングするかどうかは、誰がきめるのかというと、管理職ではなく、教師全員で職員会議できめるわけです。

推進派は上記のような理由を並べ立て、反対派も同じくらい理由を言って、最後はたいてい多数決です。

ですから、仕事を減らすのは教師自身なのです。

仕事量を自分で裁量できる人間たちが、さらに自己判断で超過勤務をして、それが果たして残業に該当するでしょうか?

教師が労働基準監督署に駆け込んだら、監督官は調査に入るでしょうか?

無理でしょう。

きっと言うはずです。
自分たちでまず仕事を絞りなさい、と。労働環境を自ら改善するのは労働者の義務です、とかかんとか。

教職員の組合員のみなさま、今のシステムではいくら活動したって、残業代は勝ち取れません。

残業代がほしいなら、多数決ではなく、トップダウンを採用すべきですし、トップダウンが許せないなら、残業代は許されません。

ですから、所属する組合が異なろうが、非組合員だろうが、非常勤だろうが、みんなで知恵を寄せ集めて、仕事を精査して、減らしましょう。

せっかく、私たちには決定できるシステムがあるのですから。

2014年8月27日水曜日

なぜ体育でダンスをするのか?

長い間、書かないままに時間が経ってしまいました。それでも、この三ヶ月の間、たくさんの方々がブログを読んでくださり、コメントをくださり、とても嬉しく思います。

教師の方も、元教師の方も、そうでない方も、教育という仕事を考えている方がこんなにたくさんいるんだと、私自身が励まされています。本当にありがとうございます。

さて、私がサボっている間に、いろいろな事件がありました。私がサボっている間にもあれやこれやと教育や学校にまつわる色んな事件が起こりましたが、2学期が始まろうとしているこの時に考えてみたいのは、「体育とダンス」です。

2学期に運動会があってダンスを教えなきゃっていう先生は多いでしょうから。

先般の指導要領改定により、体育において武道とダンスが必修化されました。小学校においては、表現・ダンスという分野に取り組むことになりました。

しかし、なぜ今さらダンスなのでしょう?

ストリートダンスが流行っているから?
エグザイルが国民的グループと呼ばれるようになったから?
習い事としてダンスが市民権を得たから?
ダンス協会と文科省が手を結んだから?
ダンスのたしなみがないと海外で恥をかくから?

よく分かりません。
しかし、何か新しい指針を打ち出したい文科省と、ダンスをもっと盛り上げたい業界にとっては、お互いの利益にかなった施策であることは間違いなさそうです。

私が思うに、ダンスというものが、特にストリートダンスというものが、ひょっとしたら子どもを明るく前向きに育てるために有効のではないかと、世間が(大人たちが)思い始めたのは、90年代も終わりに差し掛かっていたころだったと思います。

そう、アクターズスクール全盛期。

こう書いている私が頭にあるのは、SPEEDというグループのことです。

バブルがはじけ、不景気という言葉が挨拶であるかのように使われていた空気の中、SPEEDという女子中高生たちは、満開の笑顔と全力のダンスと、どこまでも前向きな歌詞で、大人たちの虚無的な態度と思考を叱りつけたようでした。

当時、不景気とは言いつつも、CD売上は歴代最高を更新しつづけていました。現在とは違い、アイドル不況と呼ばれ、アーティストと名乗る人たちが、ジーンズを履いて個人エピソードを散りばめた小さな愛を歌っていたように思います。多くの日本人は、若者たちは、そんな小さな愛を大切に大切に抱えて背中を丸めていたのかもしれません。

しかし、SPEEDは全力でダンスをしながら息を切らして

太陽浴びて〜全部ぬいじゃえば〜

と歌ったのです。

どこでもいいから就職さえできれば、安定した公務員になれれば、と氷河期と言われた就職戦線を低姿勢でくぐり抜けようともがいていた若者たちは、

大好きな歌とダンスを一生懸命やって夢をかなえました

というメッセージを体全体で表現する彼女たちを、時に眩しがり、時に憧れ、時に妬んだんだろうと思います。

彼女たちがあんなに前向きで明るくてエネルギー全開なのは、ダンスをしているからなのではないか?

ダンスをすることは、自分の気持ちを表現することにつながっているのではないか?

ダンスは子どもの心と体を健全に育てるために役立つのではないか?

きっと、そんなことを考えた役人や先生がいたのではないでしょうか。

まあ、そこからはお役所仕事なので、さまざまな審査会を経て、指導要領改定を経て、10年経って現在があるわけです。

ま、ただの個人的な想像ですが。
しかし、もしSPEEDというグループがいなければ、現在、指導要領にダンスの三文字はないと私は思います。

さて、昔話が過ぎました。

現在の話をします。
ダンスが指導要領に入って、小学校現場で何かが変わったのかというと、ほとんど何も変わりません。
なぜなら、一年に一度、運動会があるからです。

運動会では必ず表現・ダンスの種目があります。夏休みを終えた9月から私の勤める学校では練習が始まります。10時間くらいは練習するでしょうか。カリキュラムに占めるダンスの時間はその運動会用のダンス練習で埋められてしまっているのです。

それ以外にダンスに取り組める授業時間は小学校体育にはありません。器械体操も球技も陸上競技も水泳もやらなければならない体育は常に時間不足です。

体育にダンスを導入して子どもたちを明るく前向きに!と思った方の期待には応えていないかと思います。

リズムに乗ること。
感情を体で表現すること。
友だちと息を合わせること。
心を解放すること。

そんなダンスのおもしろさを順を追って学ぶ余裕なんてありません。
学校現場での表現・ダンスは、子どもたちにとっては「運動会という発表会までになんとか形にしなければならない」と焦る教師たちに追い立てられてダンスを詰め込まれる時間なのです。

暑くて、汗だくで、砂まみれで、先生がやたらとマイクで怒鳴ってた。

そんなことしか記憶に残らない子も多いかもしれません。

なんで、そんなことが起きるのでしょう?

簡単です。
教師が踊れないからです。

若い先生の中には、小さい頃からダンスをやってた、という人も増えつつあるかもしれません。そんな先生は自分で振り付けを考え、子どもたちの前で楽しく踊って教えることが出来るでしょう。

しかし、ほとんどの多くの教師はダンスをほぼ学ばずに教師になっていると思います。
体育が得意であればあるほど、ダンスをしたことがないというのが実際ではないでしょうか。

運動が得意であればあるほど、きっとダンスとは無縁に生きてきたからです。運動が得意であれば、きっと自ずとサッカーか野球かバスケなどの球技に取り組むようになるからです。
ダンスはそんなメジャースポーツから溢れてしまった子どもたちの種目であることが多かったのではないでしょうか。

そしてやってみれば分かるのですが、メジャースポーツが上手いからといってダンスがうまいとは限らないのが面白いところです。
運動が苦手な子がダンスが上手だったりすることも多くあります。きっと、ダンスとは体を動かすということだけが体育であり、リズムに合わせたり、音楽に振り付けを当てはめたり、感情を体で表現したり、といった能力や楽しみ方は体育の範疇から外れているのでしょう。

ダンスは体育というより音楽だ

と、言えるのかもしれません。

というわけで、小学校教師は自分たちで振り付けを作ることができる人間が少ないため運動会が近づくとダンス講習に出かけていき、振り付けを学びに行くのです。
それを必死で覚えて、子どもたちに伝えます。

教師がそんな有り様では子どもたちにダンスを「教える」ということまではなかなかできません。

文科省のねらいが小学校現場に息づくにはまだまだ時間がかかります。子どもたちや教師たちへの影響も考えれば、Eテレのダンス番組(エグザイルが教えています)のような取り組みももっと増える必要があるでしょう。

最後に少しダンス業界に触れておきます。

長い間、ダンスでは食えないと言われてきました。ストリートダンスに打ち込んでもその先がないのです。
ダンスを踊って食べていけるだけの給料をもらっている人はきっと日本に10人もいないのではないでしょうか。

多くの人がダンス教室を開いたり、主宰したり、別の仕事を持っているはずです。

それでも、その人たちはダンサーとしてはトップクラスです。

ほとんどのダンス講師は、若者たちであり、フリーターです。ダンス講師としての給料は日々の教室に集まった生徒数による歩合制であり、少なく、そして安定しません。

メインのアルバイトは別に持っているはずです。

一生懸命ダンスに取り組んでも、野球選手やサッカー選手のように稼げる未来は今の日本にはありません。
ダンス人口が増え、それが日本の価値あるエンターテイメントのひとつとならない限り、ダンス業界の未来はありません。

ですから、学習指導要領にダンスが組み込まれることによって、ダンサーたちが小中学校に赴いたり、先生たち向けの講習を開いたり、そして何より学校でかじったダンスをもっとやってみたいとダンススクールのドアをたたく子が増えてくれればとダンス業界は期待をしているでしょう。

ダンサーの暮らしなんて私もほとんど知らないのですが、昔、私もメジャースポーツから逃げたことがあって、ひょんなことからダンスに熱中する人たちと仲良くなったことがあるのです。

彼らは一様にスポ根がきらいで、集団スポーツが苦手で、でも、何かにひたむきに打ち込むエネルギーを持っていました。

ジャズダンスに打ち込むある人は、それがバイトであると分かっていながらもディズニーランドのダンサーを目指していました。

ヒップホップダンスに打ち込むある人はアルバイトでアメリカダンス留学の費用を貯めつつ、ダンスの大会で上位入賞を目指していました。

もう昔のことです。
でも安室奈美恵やSPEED、ZOOがすでに世に出ていた時代です。ダンスはほんの一握りのダンサーや芸能人を除いて職業にはなっていなかったことでしょう。

ダンスに打ち込みたい少年少女もきっと親や周囲の反対があったかもしれません。

しかし、SPEEDの登場や、数々のダンスグループの活躍、そして何よりエグザイルの長期的な成功があり、それに憧れるダンス人口やイベントが増加して、「ダンスでメシが食える」ことが夢でなくなりつつあります。

ダンスにも全国高校大会があり、体育にダンスが組み込まれたこともあり、ダンスのスポーツとしての認知も広まっています。近い将来、メジャースポーツになるかもしれません。

というわけで、9月になれば、運動会に向けてダンス指導が始まります。ダンスの上手い子たちには、「先生、ヘンだよ」とからかわれながら、必死でやります。

でも、最初にも書きましたが、ふだん体育の苦手な子たちの中に、素晴らしいダンサーが毎年います。今からそれが楽しみでなりません。

体育にダンスが入ったことで、体育を好きになる子が増えるのなら、指導要領改定も一つの意味はあったでしょう。

ま、こっち(教師)は大変ですが…

2014年5月19日月曜日

校長に人事権はあるのか?

先日から新聞を賑わせている学校現場の人事について考えてみます。

事件の発端は大阪市でした。
本来ならば管理職である校長が決定するところの学校組織の人員配置を、職員の多数決や投票で決めていたことが明るみに出て、橋下市長が「教育現場の常識は狂っている」と発言しました。

すると、その問題は大阪市にとどまらず、大阪府も、そして神戸市も似たような現状であることが分かりました。

つまり、それらの自治体の校長は「誰をどこに配置する」という権限がないにもかかわらず、問題が起きた時の責任は背負うというポジションにあることが分かったのです。

また、そんな状況に異議を唱えた民間出身校長が退職に追い込まれていたことも分かりました。

学校現場を知らない人たちは驚いたかもしれません。

なんだ校長ってそんなに力がないのか、と。

結論から言うと、ありません。

学校長の裁量を整理します。

まず、どれくらいの裁量があるかというとマクドナルドの店長くらいです。

人事権のほとんどは本部社員が握っているのと同じように、人事権のほとんどは教育委員会が持っています。

誰をどこに異動させるか、を校長が決定することはできません。最終決定は教育委員会です。校長はその判断材料を上へあげるに過ぎません。

なーんだ、学校長は名ばかり管理職か。

その通りなのです。
学校長とは、学校の長であり、その学校は自治体にいくつもあります。学校長の権限は学校の中に限られています。誰某を、どこに異動する、なんてことを決定することができないことになります。

では、その学校内ではどうでしょう。

法律の定めるところによれば、学校長は学校内の人事を司ることになっています。
学校内の人事とは、どの先生を何年生にするとか、どの先生を何の担当にする、とかそんなことです。
マクドナルドの店長がバイトのシフトを組むようなものです。

しかし、現状は自治体や地域によってさまざまです。

校長が自身の責任でもって、トップダウン的に人事を決めることが当たり前の地域。

校長が最終的にgoは出すものの、人事をほとんどが組合や教員からの選抜組織が決める地域。

たたき台を校長が作り、組合や教員の代表者とで練り直す地域。

千の地域があれば、千のやり方で校内人事を決めているはずです。

トップダウン=独裁と考える教師は少なくありません。組合の強い地域はなおさらだと思います。

校長が考えたことを即実行に移すことを強権的かつ民主的でないとし、校長が教師たちに案の是非を問わなければ何もできない地域もあるでしょう。

また、教師からの選抜メンバーで校内人事を決められる状況を、組合が勝ち取った権利であると自負している地域もまだまだ残っていると聞きます。

「教育現場の常識は狂っている」と市長に言わしめた状況は、大阪や神戸に限った話ではないはずです。

果たして、橋下大阪市長や下村文科大臣の発言でこの校内人事問題はどうなるでしょうか?
どうもならないでしょうか?

今から、5、6年前のことでしょうか、どこの自治体だったのかは忘れてしまいましたが、
「我々の仲間が教頭に!」
と書かれた組合新聞が公になって問題になったこともあったように記憶しています。
その自治体では、教頭試験を組合が牛耳っているかのようでしたが、報道以降は変化があったのでしょうか。

この大阪や神戸のやり方の問題点は、任命責任です。
任命責任は、校長にあります。
つまり、人員配置が原因の問題が起きた場合、責任を取るのは校長なのです。
しかし、校長が形式上任命するだけで、実際の人事を少人数の選抜組織や投票のようなもので決めているのならば、責任だけを取らされる校長は理不尽でしょう。

また、人事に不満がある場合にでも、不満を感じた教師は不満を持って行く場がないのではないでしょうか。

校長に訴えても、校長が決めたわけではないし、選抜組織は「我々の代表」であるのならば、訴える先がありません。

責任の所在があいまいなのです。

私の意見を言うのならば、組合は人事に口を出すべきではありません。
個人の希望は伝えたとしても、誰某をどこに配置するかという問題は、管理職が全体を鑑みて決めるべきです。

組合は、教師たちは、人事ではなく、職場環境の改善をひたすら具申し、かつ自分たちもそのために動くべきです。

そこまでするからこそ、校長の任命責任を問うことが可能になります。

管理職である校長と、担任や専科を受け持つ一教師が同じ分野や同じ視点で仕事を見ることは無駄です。
それぞれの役割を意識し、それぞれの立場で、学校全体のベストを目指す必要があります。

その上で、活発な意見交換(「ちょっと立ち話」が私は好きです)ができればいいのにな、と思っています。

労使協調、と声高にいう割には、組合新聞にはまだ
「たたかう」
「闘争」
「勝ち取る」
など、まだ恐ろしい言葉が並んでいるように思います。
敵意むき出しです。

一方で、自治体が鳴り物入りで送り込んだ民間出身校長が不祥事を起こす、というニュースもそろそろ飽きてきたくらいに見聞きするようになりました。

外圧で変化を起こすよりも、自らより良い方向へ行きたいものです。

お互い大人じゃないですか。