2014年3月21日金曜日

教師はなぜ足並みを揃えたがるのか?

今年の三学期は目の回るような忙しさでゆっくりとブログを書く気になれませんでした。

しかし、こんな貧相なブログでも毎日いくつかのアクセスをいただいています。ありがとうございます。
なんとか、年度末までに更新したいと思い、「足並みを揃える」について考えてみます。


先日、私の勤務する小学校でこんなことがありました。


とあるクラスが表彰を受けたのです。
自分たちで育てた野菜の成長を追い、また日本の農業の問題を大判のレポートにまとめたことで。

よくある話です。

いろいろな企業や団体、役所が小学校にいろいろなコンテストの案内を送ってきます。そのコンテストも、どこかの農協かNPOが主催していました。

もちろん、応募したのはそのクラスではなく、学年の他のクラスもです。ただし、入賞したのがそのクラスただ一つだったのです。

それは仕方ありません。

私はそう思いました。
しかし、そうは思わない先生たちもいました。

「なぜ、クラス単位で応募したのか?学校単位で応募すればこんなことにはならなかったんじゃないか?」
「ページ数や出来栄えを差が出ないようにある程度、揃えたのか?」

そんな意見が聞こえてきました。

頑張ったクラスを褒めるより先に、まるで表彰を受けたことが面倒臭いことであるかのようでした。

言い分は分からないでもありません。

学年全体で取り組んだものなのに、クラスごとで応募すれば差が出てしまい、子どもたちの士気に大きく影響するからです。表彰されたクラスとされなかったクラスでは、自信の持ち様がそれ以後も変わってくるでしょう。

しかし、それがクラスというものだと言えば、それまでのことです。表彰されてもされなくても、それはクラスの根幹に関わることではありません。

教師が恐れるのは本当は子どもたちの士気なんぞではないのです。

それは、もちろん、自分たちの指導力です。

外部のコンテストやコンクールほど指導力の差が分かりやすいものはありません。

作文や絵画、そしてクラス全体で取り組む調べ学習や発表、運動などは、てきめんに指導力の差が出ます。集団の力ならば子どもの能力に差などほとんどありません。あるのは、指導力の差です。

スポーツクラブや各種教室を考えれば、あたりまえのことかもしれません。

しかし、公教育で、同じ学校内で、そんな指導力の差が現前することはしばしば問題となります。

指導力の差は、子どもの教師を見る目の差であり、保護者が教師を見る目の差であるからです。
普段は、指導力の差は分かりにくいものです。
「あの先生はいい」とか「あの先生はダメ」だとか、それは合う合わないの問題でもあり、好き嫌いの範疇でもあるからです。
また、子ども同士の組み合わせによってもクラスの雰囲気は大きく変わるので、一概に教師の差と言えない場合がほとんどです。

しかし、コンテストやコンクールは、その普段は見えにくい教師の差を分かりやすく浮かび上がらせてしまうのです。
もちろん、表彰されたクラスの教師に指導力があるとは必ずしも言えないでしょう。しかし、子どもや保護者たちは、教師の差をどうしても意識してしまうようです。

それが、一部の教師たちへの批判につながらぬように、教師は一丸となって足並みを揃えるのです。

コンテストやコンクールへの応募はもちろん、絵の書き方や作文の指導の仕方まで。
「差が出ては子どもたちが悲しい思いをする」という大義名分で。
実際は教師の差が出ては、教師が辛いので。

私の勤務する学校では毎年の秋の作品展で、絵画や立体作品を展示する時には、名札にクラスを書かないのは当たり前、クラスごとにまとめた展示もしません。
パッと見ただけではクラスごとの作品の差が分からないようになっているのです。

恥ずかしながら、私などの指導がいいかげんな教師はそれでずいぶん助けられています。

保護者からは、我が子の作品を見つけにくいと毎年のようにご意見をいたただきますが、きっと今後もこんな展示が変わることはないでしょう。


保護者に望むことは、分かりやすい差だけを見ないでください、ということです。

保護者の目を気にする教師は、そんな対外的な発表の場や作品に注力するあまり、子どもを押さえつけたり、型にはめようとすることになりがちです。そんなクラスはまとまっているように見えますし、目立った問題はあまり起きません。
しかし、子どもたちは大人の顔色を窺った行動ばかりをするようになったり、「いい子ちゃん」の姿のみを見せるようになったりします。つまり、子どもたちが抱える鬱屈は強くなり、影での教師批判や後々の教師批判は一層強く出ることにつながります。

ですから、保護者の方にはぜひ、教師の分かりやすい差ではなく、
「我が子が笑顔で学校に行っているか」
「家に帰ってきて『疲れた』ではなく、『楽しかった』と言うか」
を気にしてほしいのです。

たとえ、学級通信の発行が少なくても、クラスが表彰されなくても、我が子が「行ってきます!」と元気に学校へ行き、「楽しかった!」と帰ってくるのなら、きっとその先生は素晴らしい先生です。
当たり前のことと思われる方もいるかもしれませんが、一番大事なことです。

いくら毎日のように学級通信が出ても、クラスが表彰をされても、作品展が素晴らしくても、我が子が朝に「学校に行くのやだな」と呟いたり、「つかれた」と言うことが多いなら、じっくりと子どもの話を聞いてあげるべきだと思います。

話が少し逸れました。
教師はそれぞれ「こんなクラスにしたい!」という思いがあります。しかし「足並みを揃える」ためにやめなければならないことや、反対にやらなければならないことがあります。
保護者の目を気にするからです。分かりやすい差が出るのを気にするからです。

でも、各教師の思いを大切にした方が、熱も入るし、面白くもなると私は思います。教師の指導力の差ではなく、指導の差を保護者だけではなく、社会も受け入れてくれたら学校はもっと楽しいものになるんじゃないかと思います。

もちろん、教師たち自身の嫉妬ややっかみの方が障壁になっているのかもしれませんが。