2015年10月26日月曜日

教師はなぜ異動するのか?

実は私は、今年から新しい学校に勤めています。半年前の年度末、人事異動があったわけです。ようやく気分も落ち着いてきたので、異動について書いてみます。

みなさんも思い返せば、新しい先生が来たり、自分がお世話になった先生が去っていったり、そんな先生が学校を変わる場面を少しくらいは覚えているはずです。

私の勤める自治体では、教師の異動は基本的にその自治体内=管内を出ることはありません。
自分が望めば別です。

また、都道府県や政令指定都市レベルで異動しようと思えば、面接などの試験を受け直す必要もあります。

しかし、特別な異動願いを出さないかぎりは、自治体内での異動となります。

私の自治体では、だいたいですが5年〜10年くらいで教師は学校を変わります。

隣の学校に移ることもあれば、遠くの学校に行く場合もあります。自治体によって様々なようですが、

・学校を指名して希望できる自治体

・地域の希望は出せる自治体

・異動命令を受けるだけの自治体

など、ところ変われば事情が変わります。

ちなみに、私の場合は、「地域を希望する」でした。

私は電車通勤が希望でしたので、沿線を希望し今の学校へ移りました。希望は通ったと言えば通ったのですが、駅から歩くには遠いため、駅に自転車を置いています。

最初、年度末に自分の転任先聞いた時、そこには知り合いがいませんでしたし、良くない噂も耳にしましたので、不安が重なりましたが、よくよく考えれば新任のときにはそもそも何も知らなかったわけで、「なんとかなるか」と、思い直すことにしました。

しかし、ここでもし、自分の転任先がどうしても受け入れられない場合は、教育委員会へ赴いて申し立てをすることもできるとか…
(また組合に所属する教師は組合を通して変更希望を出すこともできるとかできないとか…)

というわけで、申し立ても何もせず、「置かれた場所で咲きなさい」のごとく、今の学校へ移ってまいりました。

知り合いがいないことも、風の噂で聞いたことも全くの杞憂で、慣れないながらもなんとかやっています。

(ブログの更新が遅いのも、こんな適応期間だからと思っていただければ…)

しかし、同じ市内とはいえ、学校が違えばやり方が違う、ということがたくさんあって、自分が慣れていないものですから、ついつい

「なんでこんな面倒なことをするのか」
「前任校のやり方の方がいいなあ」

なんて、文句ばかりが浮かんでくるこの半年でした。

ここで、ハッと気づいたわけです。
なんで教師は異動するのか?ということを。

ずっと、疑問がありました。
子どもにも、親御さんたちにも評判がよく、また教師の中でも信頼を集める先生が移動してしまうことは、学校にとっては損失であろうし、行政としてもロスが大きいにでは?と。

(私は親御さんから電話やアンケートで苦情をいただくことも多々あり、決して惜しまれるような教師ではありません)

新年度に転任した教師が元の学校へ挨拶に来る機会があるのですが、そのときに本来は参加できないはずの親御さんたちが来られて、学校の玄関や駐車場でお世話になった先生に挨拶をしている場面を何度も見てきました。

(自分もいつかはそんな教師になりたいものです)

しかし、教師がある程度の一定期間をもって、市内や区内の学校をぐるぐる異動することは、公教育としては大きなメリットがあります。

それは、学校の質を平均化する、ということです。

人事異動の度に、教師はその学校で学んだノウハウをもって次の学校に移ります。それが双方向に、いや網目状に行われます。

毎年人事異動があることで、あらゆる学校がノウハウを輸出する一方で、多数のノウハウを輸入することになります。

これは、ひとつの学校が突出する足かせにもなるでしょうが、ひとつの学校が取り残されることも防ぎます。

住民のみなさまに等しく公共サービスを提供するシステムとしてはよく出来ていると言えるかもしれません。

しかし、です。

その弊害もまた教師を苦しめます。

学校とは毎年同じような行事を多少の改善を加えながら、毎年同じようにやることを期待されていますから、もしメンバーがあまり変わらなければ、暗黙の了解でどんどん進めることができるかもしれません。

しかし、毎年メンバーの3分の1が入れ替わるとしたら、毎年同じ説明をして、全員が理解する必要があります。

これが職員会議を長くしています。

また、教師がころころ入れ替わること、ひとつのプロジェクトが進みにくいのは否めません。担当が変われば、やり方も変わります。これはもっとも、学校だけでなく、公共サービス一般に言えることかもしれません。

さらに、業務引き続きの多さも年度末や新学期を忙しくさせ、引き継ぎ資料がまるで毎年の地層のように積み重なります。

新しい担当者は、果たしてそれをどう使うのやら、また捨ててもいいのやらわからずに、持ち続けるのです。

そしてまた、自分が資料の地層をさらに分厚くして次の人へ渡すことになります。

・・・と、いけませんいけません。つい、文句ばかりが口を出ます。

経験を積んで異動することは良いことです。自分は柔軟になりますし、別の視点を持つことにもなります。

なれない日々ですが、楽しく頑張ります!

2015年10月10日土曜日

教師の宴会はだれが払うのか?

夏休み前に書いたきり、運動会が終わるまでサボっていました。今年はサボりすぎです。
毎日、働いていると、これも書きたいなあ、あれも書きたいなあと思うのですが、思うだけで行動ができません。
そう思っているうちに、思いついたネタが頭をすり抜けていくのです。

今年度も半分終わりました。
後半、頑張ります。


さて、教科書もだんだん下に変わっていくこの頃ですが、気楽に

「教師の宴会」

について書いてみようと思います。

サラリーマンからの中途組の私としては驚くことも多かったので、教師ではないみなさんが読まれたらきっと新鮮に思われるのではないでしょうか。

また教師のみなさんでも、うちの地域は違うよ、なんてことを思いながら読んでくれるかもしれません。


まず、普段の「飲み」について。

これはあまりサラリーマンのときと変わりませんが、教師ならではとして、

「飲むなら自分の学校の校区は避けようか」

ということがあります。

保護者や子ども、教え子たちの目があるところでは落ち着いて飲めないわけですね。繁華街に近い学校はそうも言ってられない面はありますが。

私も何度か飲んでいる店で保護者や子どもに会ったことがありますが(最近は居酒屋で家族の夕飯をすることが増えているんですかね?)、みなさん知らぬ顔をしてくださったり、目配せ程度でそっとしておいてくださます。ありがとうございます。

もちろん、地域が違えば校区内で保護者の方々と仲良く飲んでいる先生もいらっしゃると思います。

「昔はお父さんお母さんとよく飲みに行ったもんよ」

なんて、もう引退されたある先生から聞かされたもんですが、現在では私の周りでそんなことをされている先生は知りません。

よっぽど信頼関係を築かれているのではないでしょうか。

思えばサラリーマンのときは、会社のそばでばかり飲んでいました。わざわざ離れて飲むなんてことはありません。
ただ、得意先のそばに出かけて行って飲むなんてこともありませんでしたから、やはり仕事のお付き合いとお酒は分けていると言えるのかもしれませんが。


さて、そんな校区を避けて羽を伸ばす教師ですが、公務員だからなのか、役職がないからなのか、「おごる」文化があまりありません。
(私の周りだけですか?)


サラリーマンの頃は、私も駆け出しだったため、部長や課長はもちろん、係長やさほど歳の変わらない主任にまでよくおごってもらいました。

私は誘われて飲みに行くわけですが、イヤな付き合いでもないし、仕事の説教も演説もありません。

それでも若輩だった私は上司や先輩と飲みに行って自分が払った記憶がほとんどありません。
もちろん、会社によるのかもしれませんが。

一方で教師はというと、いつも割り勘です。

20代と50代が同じ場にいてもだいたい割り勘です。中には

「おれが一万円出すから、あとは君たちで割って」

なんていう方もいらっしゃいますが、たいていはみんな同じように頭割りします。

ただ年齢に関係なく、教頭校長になると多めに出してくれます。
(公務員は年功序列のため、役職手当なんて微々たるもので年配のヒラ教師の方が給料が多いなんてことはザラです)

私は教育現場に入ったときは、もうそれなりの年齢でしたが、新人の先生たちと飲みに行っておごろうとしても

「いやいや、そんなわけにはいきません!」

と何度も断られました。

今ではすっかり自分がおごろうなんて意識はすっ飛んでしまいました。自分が若い頃はたくさんおごってもらったのに、ひどい人間です。

教師は20代だろうが、60代だろうが、担任を持てばする仕事は同じですから、他の職業よりは平等意識が強いのかもしれません。


最後に、宴会について書いておきます。

働いていると色々な宴会があります。

忘年会や新年会はもちろん、決起集会やなんとか大会など、職員総出で出席する宴会です。

今、教師としても、昔、サラリーマンとしてもたくさん経験してきました。

サラリーマン時代ならば、ホテルでやるにせよ、居酒屋でやるにせよ、費用は会社持ちでした。
きっと、福利厚生費かなんか落ちているのでしょう。いわゆる経費です。

それが決起集会だろうが、忘年会だろうが、社員の持ち出しはないはずです。


じゃあ、教師の場合はどうなのでしょう?

教師の忘年会の経費は、教育委員会が払うのでしょうか?
各自治体が払うのでしょうか?
それとも各学校にはそんな予算が計上されているのでしょうか?

否、教師が払うのです。

教師はそのために各学校で毎月2〜3千円を積み立てています。
それを忘年会や送別会の費用として使うのです。その会ごとに費用を集める場合もありますが、ホテルや会場を借りてするような会は、その積み立て金から払います。

忘年会の費用を自分で払うのか!

と最初はびっくりしましたが、思えば当たり前のことで、そんなお金が税金から支払われるわけはありません。
私は知りませんが、きっとあらゆる公務員がそうなのではないでしょうか。


最近、公務員の共済がなくなり、社会保険と一本化されました。一つ公務員の利権が減ったのです。

共済の優遇ぶりは、メディアでも度々報道されてきました。一本化は致し方ないことかもしれません。

しかし、教師には接待交際費も福利厚生費もありません。福利厚生は互助会という財団法人や社団法人が担っていますが、所詮は積み立てた自分のお金ですし、さすがに飲み代までをカバーしていません。

接待交際費も福利厚生費もないならば、共済などの多少の利得はお許し願えれば助かりますが、公に奉仕する公務員ならば致し方ありません。


というわけで、年末年始、年度末年度始め、など、教師たちがあちこちで忘年会だの送別会だのをすると思います。もし、お見かけしましたら、

「ああ、彼らは自費で飲んでいるのか」

と温かく見守ってくださいませ。


教職員のみなさま、楽しいお酒を!

2015年7月8日水曜日

授業参観はハレの日か?

私の勤める小学校ではこの前、今年2回目の授業参観が終わりました。

※すみません。書いている途中でサボりました。2回目の授業参観はとっくの前に終わっています。もう、夏休みがやってきます。更新が遅くてすみません※

授業参観は、私も子どもたちも普段よりはどうしても力が入りますから、ときに積極的になり、ときに空回りをします。

思う以上の授業ができるときもあれば、思うようにはいかないときもあります。

が、そのうまくいったり、いかなかったりが普段の授業なので、「いつも通り」を見せる授業参観としては、それでもいいのかもしれません。

問題は、授業参観はどこまで「いつも通り」なのか?

ということです。

教師のみなさん、いかがです?

私の場合、授業参観は、いつも通りでもあり、いつもと違うとも言えます。

それを

「服装」
「教室環境」
「名前の呼び方」
「発表」
「仕込み」

の5つの点で整理してみようと思います。半分は自分のために。もう半分は、同じ教職を選んだ人たちの参考のため、そして、わが子の授業時間での様子が気になる親御さんたちのために。

「服装」

タイトルでも書いたように、授業参観はもうハレの場ではありません。保護者のみなさんもジーパンにTシャツで来られます。ツーピースにパールのネックレスの時代はとっくに終わっていると言っていいでしょう。

もちろん、子どもたちも同様です。授業参観だからと普段はジャージにTシャツの男の子が、チノパンにシャツを着てくる…なんて姿もかつてはあったと聞いていますが、今はありません。

女の子も同様です。
音楽会などの大きな発表の場をのぞけば、男子も女子も「いつも通り」です。

しかし、服装からして「いつも通り」ではない人たちがいます。

そう、教師です。

ひょっとしたら、教師の服装もいつも通りでやろう、という学校もあるかもしれませんし、私はいつも通りだ、という先生も数多くいらっしゃるでしょう。

しかし、多くの教師は普段はジャージなのに授業参観ではスーツを着たり、普段はジーパンにTシャツでも、授業参観にはスカートとシャツを着る、ということをしています。
私の知る限り。

子どもたちは言います。
「先生、きれいな格好してきた〜」
「お母さんたちが来るからってカッコつけてる〜」

授業参観が始まる前には子どもたちのそんなツッコミを浴びることになります。

それを楽しめる子どもたちは、授業参観には普段よりもテンションが上がって、たくさん手を上げたり、手を上げるなんてまどろっこしいことすらままならず、いきなり答えを叫んだりします。

一方、教師がスーツを着ることで、構えてしまう子どもたちもいると思います。もちろんスーツだけのせいではありません。後ろには普段はいない親たちが並んでいるのですから。

教室の前も後ろも「いつも通り」ではありません。

そのくせにスーツを着込んだ教師が

「みんな、いつも通りでいいからね」

なんて言ったりするのです。

そんな子どもたちは、授業参観では手を挙げなくなってしまいます。

普段通りを見せるのが授業参観の理想ではあるけれど、教師が普段通りではないのですから、そもそもそんな理想が間違っていることになります。

いつもと違う状況で張り切る子どもたち、固まってしまう子どもたち、そして変わらない子どもたち、子どもはいろいろです。

「教室環境」

さすがに教室はいつもと同じだろう、と思われる人も多いかと思いますが、やはり授業参観の日は少し違うのです。
「普段は来ない人たちが来る」というだけで、知らず知らず、「普段通り」が変わってしまいます。

まず、掃除。

家だってお客さんが来るときには、いつもよりきれいに掃除するものだと思いますが、学校も似たようなものです。
もちろん、子どもたちの掃除の時間が増えたり長くなったりはしませんので、いつもよりきれいに掃除するのは、教師です。

そして教頭先生や校長先生もいつもよりウロウロウロウロして、汚れているところ、散らかっているところを探しては指摘したりするのです。

また、ベテランの先生も、授業参観で授業のことで頭いっぱいになった若い先生が気が付かないところをフォローします。

雑巾かけに雑巾をきれいに干し直したり、乱れたほうきを整えたり、フックから落ちてしまった子どもたちの手さげかばんなどを、そっと直したりしています。

というわけで、ふだんよりは教室廊下はきれいですし、片付いているのが授業参観です。

そして、掲示物。

授業参観に合わせて作品や新聞を作ったり、習字を書いたりはしませんが、作りっぱなし、書きっぱなっしになっていたものを慌てて教師が掲示するのが、参観日前日や前々日です。

普段から、子どもたちが作るたびに掲示すればいいのですが、壁の上やワイヤーに掲示するとなるとついつい後回しになってしまうものです。

でも、参観日にきたお母さん、お父さんたちは、授業をずっと聞いていることは少なく、自分の子どもが書いた絵が他の子と比べてどうなのか、よく名前を聞くクラスメイトはどんな絵を書いているのか、なども気にされているように思います。

また、授業参観では伝えきれない活動は、この機会に掲示物として少しでも伝えられればいいなと私も思っています。

というわけで、参観日の前々日くらいから、事務室の備品置き場から、画びょうがなくなりがちになります。もちろん、事務員にとってはそんなことは想定の範囲内ですが。

「名前の呼び方」

いつ頃だったか、男女の区別が差別に繋がるとかかんとか、そんな風潮のおかげで男の子も女の子も「〜さん」と呼ぶようになっています。

私は新任の頃はそれが奇妙で奇妙で「〜くん」「〜さん」と呼んでいた時期もあるんですが、慣れとは恐ろしいもので、今は何とも思いません。

「〜さん」と呼んでいます。

普段も、授業参観も。
ま、きつく注意するときは呼び捨てしたりしますが、普段から授業中も休み時間も私は名字で「〜さん」と呼んでいます。
教師によってはこれはいろいろで、下の名前を呼んであげたいと思う教師、一人ひとりにニックネームを付けて呼んであげたい教師…

教師によって違います。何が一番いいのかは分かりません。
私は経験上、子どもたちとは程よい距離があった方がいいタイプの人間だと思っていますので、名字で「〜さん」です。
ひょっとしたら、名前で読んでほしいと思っている子どもたちもいるかもしれません。

というわけなので、私は授業参観になっても名前の呼び方は変わりませんが、普段、下の名前を呼び捨てにしていたり、ニックネームで読んでいる教師は、丁寧に呼ぶ場合もあるかもしれません。
しかし、そんな教師も多くの場合、授業中と休み時間の呼び方を変えているのではないでしょうか。

呼び方の違いが子どもたちに授業中と休み時間のけじめを付けさせるサインとなることもあるでしょう。

参観日だけ丁寧に呼ぶ、なんて教師はたぶん少なくなっているのではないでしょうか。
もっとも昔を思えば、私はそんな先生に担任してもらったこともあり、「先生、今日は丁寧すぎて気持ち悪いなあ」なんて思いながらも、それが授業参観なんだと感じていたフシがあります。

みなさんはいかがでしょう?

「発表」

親御さんたちは、きっと我が子が発表する姿を見たいはずです。すべての問題に元気よく手を挙げなくても、いっかいくらいでいいから…なんて話も聞いたりします。

懇談会で、相談を受けることがあります。

「あの子、いつもは手を挙げて発表してるんですか?」

なんて。

「いつもはもっと手を挙げますよ」
「いや、あのまんまです。あんまり挙げないですね」
と答えたりしています。

ただ、です。

教師は授業参観にたくさん発表の機会があるような授業を選んでいます。

算数ならば、たくさんの復習問題をしたり、例題を解いたり。

国語なら、言葉探しをしたり、体験を尋ねたり。

子どもたちが、自信を持って次々と答えられるように授業を工夫したり、またそういう単元を選びます。

私の経験で言えば、登場人物の気持ちを尋ねたり、作者の最も言いたいことを考えたり、という面白いけれど、様々な答えが考えられるような学習は授業参観には向きません。

もちろん、そんな問題の方がスイッチが入って、説明しまくる子どもたちもいます。
一方で、何を答えたらいいのか悩んだり、間違いを恐れたりするあまりに、全く手を挙げなくなってしまう子どもたちもいます。

多くの子が手を挙げられるように、また、一問一答だけではなく、様々な意見交流もできるように、教師は授業参観の45分の組み立てにはいつも頭を悩ませています。

とはいえ、なかなかプラン通りにはいかないのが授業参観で、子どもたち以上に教師は緊張しています。
子どもたちの手がたくさん挙がればほっとし、手が全く挙がらないときには焦ります。

親御さんたちは我が子を見に来ていることは百も承知です。でも、自分が見られているような気がして仕方ありません。
私は自意識が高いんでしょうか。

「仕込み」

これは、授業参観のために、事前に練習するか?ということです。

前の日に似たような問題を解いたり、似たような文章を読んだりするかというと、私の場合はほとんどしません。

でも、授業の流し方はそれまでにパターン化しておこうと努力しています。

算数で言えば、

まず、前の日の復習。
次に、今日の問題。
そして、練習。

常に、これです。
変化がないので子どもたちは面白くないかもしれません。

でも、授業参観だろうと、これをやるので、なかなか手を挙げて発表する自信のない子も、「前の日の復習」には手を挙げてくれるんじゃないかと思っています。(そうならないときもありますが)

また、授業参観が、発表の場となることがあります。

作文や、音読、グループ発表など。

この時はもちろん練習します。しかし、授業参観のためではなく、発表会のため、です。

ま、とはいえ、その発表会が通常の授業なのか、参観日なのか、は子どもたちだけではなく、教師にとっても大きな違いなので、指導への熱の入り方はどうしても変わるかもしれません。

ただ、何でもそうですが、練習しすぎたり、こなれすぎたりすると、見ている方は面白くありません。

「よく練習したなあ」「よく頑張ってるなあ」とは思っていただけるかもしれませんが、ライブ感がなくなってしまうのです。

多少、まごついたり、もたついたりして当たり前です。それまで一切なくなってしまうと、いくら発表会や参観日だろうと、やっている方も見ている方も、流すだけになってしまうように思います。

練習しすぎず、仕込みすぎず、でもつかませておく。

それが難しいところだと思っています。

さて、だらだら書きましたが、私自身、自分の授業参観をふり返って整理することができました。

授業参観は今もハレの日なのです。
その日のために、教師も子どもたちも何かの努力をしています。

普段通りを心掛けたり、普段以上を目指すハレの日です。

そう、練習通りに力を尽くすスポーツの祭典にように。

書いてみて分かりましたが、私の課題は「教室環境」ですね。

掃除、掲示物、そして自分の机の整理整頓!

これができてなくては、子どもたちの通知表の

「身の回りの整理整頓ができる」

を評価する資格がありません。

次の参観日までには、机を片付けます!

いや…普段から片付けねば…

2015年4月11日土曜日

教師に一番必要な道具とは?

新学期が始まりました。
私も新たな学年で、新たな子どもたちと出会い、新たな学級で新たな一年をスタートしました。教師になって、何回目かの春ですが、この季節はいつも緊張します。ふだんひどい肩こりがなお一層ひどくなります。

さて、ここ最近はなんだか教育にまつわる問題点ばかりを書いていたような気がするので、今回は気楽なことについて書いてみようと思います。

それは、道具です。

プロは道具にこだわる、とよく聞きます。
イメージしやすいところを言えば、

美容師さんならハサミ、
大工さんならカンナ、
デザイナーさんならペン、
営業マンならスケジュール帳、

といったところでしょうか。
私のイメージはあまりにステレオタイプかもしれません。お許しを。

では、教師の道具で「これ!」というものは一体なんなのでしょう?


私が思うに、教師が自分で用意する必要のある一番の道具は、

ストップウォッチ

です。

赤ペンではありません。
たしかに赤ペンにこだわる教師もたくさんいらっしゃると思います。
万年筆だったり、ソフトペンだったり、こだわりのペンで
採点されたら、子どもたちもうれしいかもしれません。


でも、ペンはこだわりがなければ、学校の事務室で用意してくれているものを使えば事足ります。
ストップウォッチは、そうはいきません。

学校には体育で使ったり、体力テストで使うためにいくつかのストップウォッチがあります。しかし、各教室にはありませんし、ましてや教師一人一人にストップウォッチは支給されることはありません。(少なくとも私の務める自治体では)

だから、自分で用意する必要があるのです。

そして、ストップウォッチは、「不意に」必要になるものなのです。
常に必要なものではないかもしれません。
でも、ふとしたときに必要になるのです。


例えば、

100マス計算をさせるとき。
100マスでなくても、「この問題を3分でやって」と言うとき。
ドッジボールをするとき。(時間をはかってやるので)
「隣同士、1分相談!」と言うとき。

これらは毎日のようにあるシーンです。とにかく、小学校教師は子どもたちに時間の区切りを常に意識させています。


年に何回かある場合を考えれば、

運動会のダンス演技の入場から退場までの時間を計るとき。
休んでいた子が50m走を計ってと体育の最後にいきなり言ってきたとき。
校外学習で駅まで歩く時間を計るとき。

など、本当にこちらが用意万端でストップウォッチを持ってなさそうなときに、時間を計らなければならない時がやってくるのです。

だから、私は時計をデジタルに変えました。
個人的には針の腕時計が好きなのですが、今はデジタル時計を使っています。

最初はG-SHOCKを試してみましたが、どうもストップウォッチとして使うには、少しボタンが押しにくいことが分かりました。普段は時計として使うのはもちろん、腕にはめたまま計測がしやすく、タイムを保存しておけるものが必要であると分かってきました。

今、現在、私の教師生活で、一番使いやすいと思っているものが、ランニング用の時計です。

ランニング用の時計は、走りながらでもボタンが押しやすいものが多く、かつ、タイムを50件、100件と保存しておけます。もちろん防水、耐気圧なので、プールのときもはめっぱなしで指導も計測もできます。

ただしランニング用の時計のデザインはあまりにスポーティーなので、普段着にもスーツにも合わないですが、そこは仕方ありません。

でも、そんな不格好を差し引いても、常に自分の腕にストップウォッチがあることは何ものにも代え難い便利さがあるのです。
授業中に必要を感じても、職員室や倉庫に取りにはいけませんし、取りにいくのも億劫です。いつもは必要でなくても、いつも身につけていないと必要な時には使えません。


計算や相談でストップウォッチを使うと、子どもたちを、そんなに時間で縛って、プレッシャーをかけているのかとご批判をいただくかも知れませんが、時間の縛りは子どもたちの集中力ややる気を、一段引き上げます。その集中した時の空気はとても気持ちのよいものです。この集中力はなぜか、教室の時計の秒針で計っては発揮されません。目の前で教師がボタンを押す、そのポーズが必要らしいのです。
(自分の指導力のなさを、ストップウォッチで誤摩化しているのかもしれませんが)


というわけで、この春、教師としてスタートを切ったみなさま、時計をランニング用に買い替えましょう。スマートウォッチが話題の昨今ですが、スマートウォッチは電池が不安です。教師の時計は、ランニング用に限ります。軽くて、丈夫で、見やすくて、押しやすくて、そして高くない。

今回はなんだか宣伝みたいになりました。
時計メーカーのみなさま、学校に営業かけたら、きっと売れますよ、ランニングウォッチ。


2015年1月30日金曜日

スモールステップとは結局、何をすることなのか?

最近の自分の投稿を振り返ってみると、あまり勉強を教えるという仕事について書いていないことに気がついたので、今回は、使い古された言葉ではありますが、スモールステップについて考えてみようと思います。

スモールステップとは、ずいぶん昔から言われていることですが、要するにいきなり頂上を目指さずに、まずは一合目にたどり着くことを目標にしましょう、という考え方で、「小さな階段」「低い階段」を意味しています。

挫折や無力感、放棄や間違った習得を防ぐために有効だと言われています。

プログラム学習から始まったとか、ディズニーの研修で取り入れられているとか、特別支援教育の基本だとか、教育現場にいれば必ず耳にする言葉でしょう。

教師も一年に一度、4月の最初に「学級経営方針」なるものを書くのですが、そのときにこの「スモールステップ」という言葉を使う教師は多いです。

小さな成功体験を数多く積ませたい。
自信をつけさせたい。
「できた」という喜びを味わってほしい。

そんな意図で、スモールステップという言葉は使われているのです。

しかし、です。
いったい何をすれば、スモールステップだと言えるのでしょう?

最近の算数の教科書を見たことがあるでしょうか?

算数の教科書は、スモールステップの連続で作られています。教師が考える余地がないくらいに、一つの考え方を教えることが小刻みに刻まれているのです。

概数の教科書を見てみましょう。

まずは、「184は100と200のどちらに近いか?」というようなことから入ります。

次に、四捨五入を習います。

そして、184を十の位までの概数にせよ、という問題の解き方を習います。

教科書は、概数を教えるのに、それだけ例題をあらかじめ刻んでいます。そう、つまり
教科書の作りがもう既にスモールステップになっているのです。

であるならば、「教師はスモールステップを意識せよ」というとき、結局何をすれば良いかというと、愚直に教科書通りに教えること以外にありません。

時間がないからと、行事が立て込んでいるからと急いでやるなよ、飛ばすなよ、ということです。

なんだ、大層なカタカナ用語を使っておきながら、中身はそれか、とがっかりする前に知ってほしいことがあります。

それは、教えることはスモールステップの半分でしかない、ということです。

スモールステップの残り半分は教えることではありません。

それは、評価することです。

私は常々、小学校のスモールステップは教える方はスモールステップでも、評価がスモールステップになっていないと感じています。

もちろん、私の周りだけかもしれませんし、広く日本には教えることも評価することもスモールステップを実現できている先生や学校もあるかもしれません。

教えることも小刻みならば、評価することも、つまりテストも小刻みにならなければ、スモールステップはやりっぱなしになってしまいます。

テストを細かくやれば、子どもたちが躓いた箇所がピンポイントで分かるのに、教師は多くの場合、子どもたちの躓きに気づいていないことが多いような気がします。(自戒を含めて)

毎時間ノートを集めてチェックする。
授業の初めは小テストを行う。

それができれば理想です。
でも、なかなかできません。
授業中も見て回りますが、完璧にはできません。

恥ずかしながらながら、ノートを集めてもチェックできずに子どもたちに返したり、機械的に丸を付けただけだったり、ということが私は少なくありません。

日々の小テストとノートチェック。

これができれば、小学校のスモールステップは、ほぼ完全な形になるはずです。

小テストをできるだけ作っているつもりなのですが、まだまだ少ないと感じています。

ノートに問題を解くより、小さくともテストという形をとった一枚の紙に解くほうが子どもたちのやる気は上がります。本気度は変わります。だから、私は小テストって大事だなぁとやるたびに思います。

そして、
「小テストは悪くても通知票に関係ないから、リラックスして解いてごらん」
などと、付け加えて、緊張ではなく集中を促したいとも思っています。
「テスト」と聞くだけでイヤになる子も多いですから。

ま、言うだけは立派かもしれませんが、こんなことが私はなかなかできていないのです。

思っているだけで。

目下のところ、スモールステップって何をするのか?と言えば、小テストをできるだけたくさんやること!と言ってもいいとさえ私は思っています。

明日は、ちょっと久々に朝、学校に着いたら、小テストを作ることにします。言うことだけは一人前、なんて言われないために。

2015年1月22日木曜日

若者はなぜ選挙に行かないのか?


投票率が戦後最低の衆議院議員総選挙が終わりました。フタを開けなくても分かっていたとおり、自民党公明党圧勝です。

ただし、有権者の半分しか投票しない選挙で圧勝なんていう言葉を使うのは変な気がします。

要するに、今回の選挙は固定票勝負でした。経団連やら保守やら愛国やら憂国やらの自民党支持団体と、自称信者1000万人の新興宗教と国交省企業JTBグループという公明党支持団体が、上からの言いつけをきちんと守って投票しました、というだけの選挙です。

固定票のない、分厚い支持団体のない民主や維新は話になりませんでした。

というわけで、やっぱりなぜ人は選挙に行かないのか、という問題に辿り着くのです。

どうせ行っても変わらない、なんて知ったかぶりをしてしまうのはなぜでしょう。

投票しなかった残り半分の人が共産党に投票したら、日本はまるで別の国になるというのに。

ま、それと似たようなことは前々回の民主圧勝選挙で起こったのだけれど、余計に日本は混乱していい思い出がありません。

「人」とひとくくりにしてはいけないのかもしれません。

選挙に行かないのはどうやら若者たちであることがはっきりしています。

テレビの街頭インタビューで若者が答えています。

「選挙にはいきません。友だちも行かないし」
「よくわからないんで、行かないです。」
「行っても大して変わると思えないんで」

これだけ聞くと、日本の若者はなんて無気力無関心なんだ!と世界は愕然とするかもしれません。

しかし、若者は無気力だ!無関心だ!と簡単に切って捨てるわけにはいかない理由が私にはあります。

小学校教師として。
人が多数決を初めて体験する小学校で働く大人として。
人は小学校卒業後8年で選挙権を持つからこそ、若者の投票率の低さは小学校教師にとって人ごとではないのです。

彼ら若者がが自分の意思表示の方法として、権利主張の一手段として、選挙に行くのは遠慮と抵抗があるのではないかと私は考えています。

今の子どもたちは、自分のやりたいこと、したいことに関しては主張をします。ときにぶつかります。

「次の学級会の時間には何がしたいですか?」と聞けば、

ドッジボールがしたい。
ドッヂビーがしたい。
オニごっこしたい。

やりたいことは、どんどん出ます。すると誰かが言います。
「多数決で決めよう!」
「さんせいでーす!」

もちろん、主張をしない子もたくさんいます。しかし、みんな多数決には参加します。それを投票率というならば、投票率はほぼ100%です。

しかし、です。

「クラスの中で何か困っていることはありませんか?」と聞くと、

とたんに、しーーんとなります。

誰かがぼそっと言います。
「いやなことはあるけど、困っているわけじゃない」

また誰かも言います。
「困っているっていうか、できていないことはある」

こっちとしては聞いてみるわけです。
「いやなことってどんなこと?」

すると、多くの場合こんな答えが返ってきます。
「Aさんがからかってくることとか」

「とか?」(私)

「いやなことを言ってくる」

もう一人にも聞いてみます。
「できていないことって?」(私)

「男子がそうじの時間に遊んでることとか」

「とか?」(私)

「みんなが廊下を走っていることとか」

「とか?」(私)

「わすれものが多いこと」

子どもたちはそんな答え方をします。で、結局のところ、「困っているの?」と聞くと、「別に困ってない」と言います。

「でも、いやなことはあるんだよね?できてないことはあるんだよね?どうしたらいい?」と聞いてみると、

「Aさんがやめてくれればそれでいい」
「男子がそうじをちゃんとすればいい」
「廊下を走る人が歩けばいい」
と当たり前ですが、こんな答えが返ってきます。

彼らは暗に言っているのです。
「別にみんなで話すことじゃない。その人がちゃんとすればいいだけの話でしょ。」

いやなことやできていないことをクラス全員で話し合うことを好きな子どもなんていません。

誰だって思い返せば、学級会の話し合いなんてキライだったはずです。

なぜか?

誰かが「さらし者」にされるからです。

さっきの話題で言うと、「Aさんがいやなことを言う」ということにみんなが注目してしまうと、「ほかにありませんか?」と聞くたびに、次から次へとAさんを非難する言葉が並んでしまいます。誰だって、完璧な人間はいませんから。

「そのことを言うなら、あのこともあてはまるかな」
「何か言わなきゃいけないなら、あのことを言おう」
という心理も手伝って、あら探しのようになるでしょう。言いたくないけれど、言わなきゃいけないような空気になるのです。集団心理は恐ろしいです。

こうなったときの空気は本当にイヤです。

Aさんにも悪いところはあるかもしれませんが、みんなでAさんをいじめているかのような空気になります。

私は小学校のときのそんな学級会が本当に、本当にイヤでした。

もちろん、今はそうなる前に私は止めますし、今の日本にそんな学級会をしている教師はいないと思います。

いずれにせよ、多くの子どもたちは「こまっている人」にもなりたくないし、どちらかと言えば「誰かを注意する人」にもなりたくないのです。

子どもたちの考える「困っている人」とは、高齢者であり、障害をかかえた人であり、また仲間はずれにされた人であり、いじめられている人です。

小学校では一年生のときから、老人ホームへ訪問したり、地域の独居老人へ手紙を書いたり、特別支援学校と交流したり、いじめや仲間はずれを扱った道徳教材を繰り返し勉強したり、たくさんの「困っている人」について学習します。

でも、それは多くの子どもたちにとって、自分ではありません。

困っているだれか、です。

自分は困っている人に、なりたくないのです。憐れみを向けられる人になりたくないのです。かわいそうと思われる人になんて、なりたくないのです。
「困っていること」を声高に主張なんてしたくないのです。自分よりも困っている人はたくさんいるし、困っている人になんてなりたくないからです。

子どもたちは、「困っている人」について学習すればするほど、そんな思いを強くしているのかもしれません。

今の政治は、危機感を煽ります。

日本にはこの道しかない!
安倍政権の暴走を止めろ!
戦争をする国にしてはならない!
生活が苦しい!
アベノミクスの影響が中小にはない!

そんな危機感を煽るような言葉と、きっと若者は距離を置きたいのではないですか?
近づきたくないんじゃないですか?
矢継ぎ早にお互いを批判するような政治論争に耳を塞ぎたいんじゃないですか?

だって、かつて嫌いだった学級会みたいじゃないですか。「やりたいこと」「楽しいこと」なんて一つも出てこないじゃないですか。

メディアは困っている人ばかり探し出して、政治のダメな点ばかりを言うじゃないですか。政治がいかにケアできていないかをフォーカスするじゃないですか。集中砲火するじゃないですか。

若者たちはきっと、テレビでそんな「困っている人」を見るたびに、自分はああはなりたくない、と思っているのです。

「自分はなんとか勝ち組にならないまでも、負け組にはなるまい」
「安定した収入を得よう」
と、思っているのかもしれませんし、ひょっとしたら、

「選挙?行かないっす。大して意味あるとも思えないんで」

と、インタビューに笑顔で答える方が楽しそうだと思っているのかもしれません。
そっち側の人間になった方が幸せそうに見えるのかもしれません。「困っている人」から遠ざかることができると思っているのかもしれません。

政治家のみなさん、楽しいことを語りませんか?計画しませんか?提案しませんか?

ヘイトスピーチも、揚げ足取りも、集中砲火も、ヤジも、怒号も、批判も、楽しそうじゃないですよ。

楽しいことを多数決しましょう。そうしないと選挙なんて行きません。

まあ、投票率が上がって組織票率が相対的に下がると困る人はいっぱいいますわな。