電通の新入社員の方が自ら命を断った事件をきっかけに、今、また長時間労働をめぐってたくさんの意見が聞かれるようになりました。
教師でも、少し前に中学校教諭の方が
「夜10時に電話をかけてきて、先生がいないと怒り出す保護者」
についてツイートし、教師のブラックぶりも明らかとなり、中学校の部活動については首相もコメントせざるを得なくなりました。
「なぜ教師は残業代がないのか?」
「教師はなぜ心を病むのか?」
でも再三再四書いてきましたが、教師の(教師以外のも)ブラックな働きぶりがどうしてこんなに蔓延しているのかを少し考えてみようと思います。
電通の方の事件は、かつて私も電通と仕事をする機会もあった(ちょっとだけ噛んだ?)ので、気になる事件でした。
電話をしたことも数回ですし、訪問したことも数回なので一般的にどうとは言えないかもしれませんが、電通の方はとにかく忙しそうでした。
いくつも案件を抱え、いくつもケータイを持ち、いつでも仕事をしていました。
それでも、わたしが会った人たちは、イキイキというか、ギラギラというか、派手な広告業界を楽しんでいるように見えました。
いえ、電通からアゴで使われるような自分たちからはそう見えていただけなのかも知れません。
そう、電通の方がいつでも仕事をしているということは、電通から仕事を請け負う者たちもまた同じように働いているのです。
いえ、ときにそれ以上に。
私は入院する同僚の代わりに、ほんの1、2週間だけの仕事でしたが、夜10時の電話なんてザラでした。
日付が変わってもまだ、電話がかかってきます。
「明日の朝イチまでに、データのこことここ直してくれる?」
…と。
私はとりあえず、受けるしかありません。
「…わかりました…」
しかし、少し抵抗してみます。
「…10時までには、メールで送ります。」
会社には、まだ数人の営業が残っていました。しかし、データを変更できるようなスタッフやオペレーターはもういませんでした。
だから、それこそ明日の朝9時にかれらに修正を依頼して、10時までに電通に送るしかなかったのです。
「10時か…修正ちょっとじゃん。すぐ直るよね。」
自分ができるなら、そんな言葉で困りません。でも、わたしはただの営業で、そんなスキルはありませんでした。
「はぁ…、でも、もうスタッフが今日はいませんので…」
困り果てたような声を無理に出さなくても、出ていたはずです。
「じゃあ、10時でいいよ。こういうときのために待たせとかなきゃ、営業なら」
と、むっとされながら言われて電話が切れて、ほっとしました。
もう、10年以上前のことですが、今回の事件で、わずかの間、電通と仕事をした日々の記憶が蘇ってきました。
電通の方も、得意先との納期の間で苦しんでいたのかもしれません。
「おれはまだまだこれから仕事があるのに、お前はもう帰るんだろ」
と、私に対して思っていたのかもしれません。
しかし、その電通の方も、私も、共通していたのは、
無理をして仕事を取ってきている
ということでした。
広告主は電通から高い請求書がくると分かっていても、0時をすぎても妥協せずに修正し、突き詰める姿勢に広告費を払っているのかもしれません。
また、電通は巨額のテレビCMに主眼をおいていて、キャンペーンにまつわる枝葉の仕事は、私の勤めていたような中小の会社に仕事を丸投げしていました。
しかし、私にとっては、小さくない仕事でしたので、やはりわたしも、無理をして対応するのです。
しかし、無理のほとんどは、
こうしたら喜ばれるかもしれない。
顧客満足につながるかもしれない。
…という、善意が発祥です。
しかし、やる方にとっては善意でも、受ける方にとっては、そうではありません。
「へぇ、そんなに速くできるんだ」
「そんなに遅くまで対応してくれるんだ」
「そんなことまで、頼めるんだ」
…に、なってしまいます。
つまり、最初の一回は善意に感動してくれても、2回目からはそれが普通になるのです。
電通も、わたしも、きっとそんな無理をして仕事をとっていたのです。
さて、思い出話はここらで終えて、わたしの現在の仕事に、話を戻します。
現在は小学校教諭です。
教師もまた、良かれと思ってやった善意の行動がいつしか当たり前となり、苦しんでいます。
きっと、夜10時電話をかけてきて、教師不在で怒り出す保護者の方は、それ以前に10時に電話をかけて、対応してもらったことがあったのです。
きっと対応した教師は、
「これ、一回だけだぞ、こんなことするのは」
と、思いながら、したに違いありません。
しかし、保護者としては
「前はしてくれたのに、なんで今回はだめなんだ‼」
「前の担任はいつ電話しても出てくれたのに、なんで今の担任はいないんだ!」
となるのでしょう。
想像に難くない話です。
きっと、前に夜遅くの電話であっても対応した教師は、よかれと思ってやったのです。速く対応してあげた方が、子どもも親御さんも安心するだろうな、と思ってやったのです。
電話だけではありません。
家庭訪問も、学級通信も、担任がよかれと思ってするすべての善意は、いつしか当たり前になるのです。
「前の先生は一日休んだだけでも、電話してくれたのに…」
「⭕⭕先生は、何かあったら、お家に来てくれたのに…」
「前の先生は毎週のように学級通信を書いてくれたのに、今の先生は全然書いてくれない…」
と、なるのです。
今の教師に、勤務時間内に、放課後の会議や打ち合わせと、日々の添削に加えて、
気になる子の家を家庭訪問し、
休んだ子の家に電話をかけ、
学級通信を書く
などという時間はありません。
ということは、すべて勤務時間を超過して行う善意です。
やらなければならない仕事ではありません。
誤解を恐れずに言うのならば、趣味です。
もし、教師に請求書を書くことが許されるなら、授業料は請求することができたとしても、電話や家庭訪問や学級通信は請求書には書くことができません。
なぜならば、誰からも依頼されてはいないし、注文を受けてはいないからです。
「こうした方がいいだろうな」
という、教師の自己判断でやっているからです。
しかし、世の中に出回る教師のHow to本には、学級をうまく回すために、保護者ウケを良くするために、楽しいクラスを作るために、そんな善意の行為を推奨するものがたくさんあります。
そして、現場でも、研修でも、そんなことがよく聞かれます。
そりゃ、やった方がいいことっていうのは、数限りなくあります。
しかし、それは、
自分が楽しんでやれるならば、
という条件がつきます。
趣味だからです。
依頼も発注も受けてはいないからです。
請求もしないからです。
それらに振り回されて、追われて、時間を奪われて…という気持ちが湧いてきたら、自分で増やした仕事を勝手に義務化して苦しんでいることになります。
楽しんでやっているならば、苦しくありません。いくら、超過勤務をしたとしても。
かつての電通との仕事も同じです。
言われたこと以上のことをして、
「早く対応してくれて、助かったありがとう!次もまた頼むよ!」
なんて、言われて、嬉しくて、顧客満足ってこういうことか〜頑張ってよかったなぁ、なんて思えるうちは、いいのです。
顧客の注文が細かく具体的であっても、自分で考えるうちに、
「こういう仕様でもいいかもな」
「こんなバージョンもありだな」
と考えるのが楽しければ、時間をかけて2案3案と準備するのは苦ではありません。得意先からの評価も上がるかもしれません。
無理を言われて対応したことなら、請求できるかもしれません。
(現実は厳しいでしょう。「おたくはソレ請求すんの?ヨソはしないよ」なんて言われてね…)
しかし、頼まれたこと以上のことはそもそも請求できません。
それは営業努力であって、つまりは自分のためであって、誤解を恐れずに言うならば、趣味だからです。
わたしは、こういう趣味的な仕事をやめちまえ、と言いたいのではありません。
楽しんでやれるうちは、どんどんやるべきです。夜遅くまで取り組んでも、家に持ち帰っても、苦しくないでしょう。だって、楽しいんですから。
しかし、いくら楽しい趣味的な仕事でも、限度があります。睡眠時間を削り始めたら、だんだん楽しくなくなります。体がこころに影響するからです。
そして、なにより、やはり、
次から相手もまわりもそれを当たり前だと思うからです。
善意で行ったことは、いつしか当たり前となり、楽しくもなくなり、私たちをブラックな働き方へと引きずりこむのです。
では、どうすればいいのでしょう?
と、ずっと思っていたら、一つの答えを宇多田ヒカルさんが出してくれました。
そう、復帰アルバムFantomeです。
CD不況はわたしが改めて言うまでもなく、CDは握手券をつけるだの、選挙券をつけるだの、グッズをつけるだの、表紙のバージョンが違うだの、特典で売るのが当たり前になりました。
似ていませんか?
私たちの善意の趣味的な仕事に。
特典もつけ始めると、次はそれが当たり前となり、それ以上を求められます。
「もらえてラッキー」とは、今の消費者はもう思わないんじゃないでしょうか。
そんな折、なんの特典もないCDが発売され、第一位を続けています。
宇多田ヒカルさんです。
わたしは音楽にいいとか悪いとか言えるほど聴いてはいませんが、評価は高く絶賛されているようです。
宇多田さんが何を教えてくれたのかというと、
本業に集中しろ
ということなのではないでしょうか。
シンガーソングライターは、販促や特典ではなく、曲作りに。
広告代理店は、深夜対応ではなく、マーケティングとアイデアに。
教師は、学級通信や家庭訪問ではなく、授業に。
こんなことをすると喜ばれる
という付加価値ではなく、
自分の本分で喜ばれる
という何も付加しなくても価値のある本業を。
目指そうでは、ありませんか。