2016年11月5日土曜日

善意がブラックのはじまりか?

電通の新入社員の方が自ら命を断った事件をきっかけに、今、また長時間労働をめぐってたくさんの意見が聞かれるようになりました。

教師でも、少し前に中学校教諭の方が

「夜10時に電話をかけてきて、先生がいないと怒り出す保護者」

についてツイートし、教師のブラックぶりも明らかとなり、中学校の部活動については首相もコメントせざるを得なくなりました。

「なぜ教師は残業代がないのか?」

「教師はなぜ心を病むのか?」

でも再三再四書いてきましたが、教師の(教師以外のも)ブラックな働きぶりがどうしてこんなに蔓延しているのかを少し考えてみようと思います。

電通の方の事件は、かつて私も電通と仕事をする機会もあった(ちょっとだけ噛んだ?)ので、気になる事件でした。

電話をしたことも数回ですし、訪問したことも数回なので一般的にどうとは言えないかもしれませんが、電通の方はとにかく忙しそうでした。

いくつも案件を抱え、いくつもケータイを持ち、いつでも仕事をしていました。

それでも、わたしが会った人たちは、イキイキというか、ギラギラというか、派手な広告業界を楽しんでいるように見えました。

いえ、電通からアゴで使われるような自分たちからはそう見えていただけなのかも知れません。

そう、電通の方がいつでも仕事をしているということは、電通から仕事を請け負う者たちもまた同じように働いているのです。

いえ、ときにそれ以上に。

私は入院する同僚の代わりに、ほんの1、2週間だけの仕事でしたが、夜10時の電話なんてザラでした。

日付が変わってもまだ、電話がかかってきます。

「明日の朝イチまでに、データのこことここ直してくれる?」

…と。

私はとりあえず、受けるしかありません。

「…わかりました…」

しかし、少し抵抗してみます。

「…10時までには、メールで送ります。」

会社には、まだ数人の営業が残っていました。しかし、データを変更できるようなスタッフやオペレーターはもういませんでした。

だから、それこそ明日の朝9時にかれらに修正を依頼して、10時までに電通に送るしかなかったのです。


「10時か…修正ちょっとじゃん。すぐ直るよね。」

自分ができるなら、そんな言葉で困りません。でも、わたしはただの営業で、そんなスキルはありませんでした。

「はぁ…、でも、もうスタッフが今日はいませんので…」

困り果てたような声を無理に出さなくても、出ていたはずです。

「じゃあ、10時でいいよ。こういうときのために待たせとかなきゃ、営業なら」

と、むっとされながら言われて電話が切れて、ほっとしました。

もう、10年以上前のことですが、今回の事件で、わずかの間、電通と仕事をした日々の記憶が蘇ってきました。

電通の方も、得意先との納期の間で苦しんでいたのかもしれません。

「おれはまだまだこれから仕事があるのに、お前はもう帰るんだろ」

と、私に対して思っていたのかもしれません。

しかし、その電通の方も、私も、共通していたのは、

無理をして仕事を取ってきている

ということでした。

広告主は電通から高い請求書がくると分かっていても、0時をすぎても妥協せずに修正し、突き詰める姿勢に広告費を払っているのかもしれません。

また、電通は巨額のテレビCMに主眼をおいていて、キャンペーンにまつわる枝葉の仕事は、私の勤めていたような中小の会社に仕事を丸投げしていました。

しかし、私にとっては、小さくない仕事でしたので、やはりわたしも、無理をして対応するのです。

しかし、無理のほとんどは、

こうしたら喜ばれるかもしれない。

顧客満足につながるかもしれない。

…という、善意が発祥です。

しかし、やる方にとっては善意でも、受ける方にとっては、そうではありません。

「へぇ、そんなに速くできるんだ」

「そんなに遅くまで対応してくれるんだ」

「そんなことまで、頼めるんだ」

…に、なってしまいます。


つまり、最初の一回は善意に感動してくれても、2回目からはそれが普通になるのです。

電通も、わたしも、きっとそんな無理をして仕事をとっていたのです。


さて、思い出話はここらで終えて、わたしの現在の仕事に、話を戻します。


現在は小学校教諭です。

教師もまた、良かれと思ってやった善意の行動がいつしか当たり前となり、苦しんでいます。

きっと、夜10時電話をかけてきて、教師不在で怒り出す保護者の方は、それ以前に10時に電話をかけて、対応してもらったことがあったのです。

きっと対応した教師は、

「これ、一回だけだぞ、こんなことするのは」

と、思いながら、したに違いありません。

しかし、保護者としては

「前はしてくれたのに、なんで今回はだめなんだ‼」

「前の担任はいつ電話しても出てくれたのに、なんで今の担任はいないんだ!」

となるのでしょう。

想像に難くない話です。

きっと、前に夜遅くの電話であっても対応した教師は、よかれと思ってやったのです。速く対応してあげた方が、子どもも親御さんも安心するだろうな、と思ってやったのです。

電話だけではありません。

家庭訪問も、学級通信も、担任がよかれと思ってするすべての善意は、いつしか当たり前になるのです。

「前の先生は一日休んだだけでも、電話してくれたのに…」

「⭕⭕先生は、何かあったら、お家に来てくれたのに…」

「前の先生は毎週のように学級通信を書いてくれたのに、今の先生は全然書いてくれない…」

と、なるのです。


今の教師に、勤務時間内に、放課後の会議や打ち合わせと、日々の添削に加えて、

気になる子の家を家庭訪問し、

休んだ子の家に電話をかけ、

学級通信を書く

などという時間はありません。


ということは、すべて勤務時間を超過して行う善意です。

やらなければならない仕事ではありません。

誤解を恐れずに言うのならば、趣味です。


もし、教師に請求書を書くことが許されるなら、授業料は請求することができたとしても、電話や家庭訪問や学級通信は請求書には書くことができません。

なぜならば、誰からも依頼されてはいないし、注文を受けてはいないからです。

「こうした方がいいだろうな」

という、教師の自己判断でやっているからです。

しかし、世の中に出回る教師のHow to本には、学級をうまく回すために、保護者ウケを良くするために、楽しいクラスを作るために、そんな善意の行為を推奨するものがたくさんあります。

そして、現場でも、研修でも、そんなことがよく聞かれます。

そりゃ、やった方がいいことっていうのは、数限りなくあります。

しかし、それは、

自分が楽しんでやれるならば、

という条件がつきます。

趣味だからです。

依頼も発注も受けてはいないからです。

請求もしないからです。

それらに振り回されて、追われて、時間を奪われて…という気持ちが湧いてきたら、自分で増やした仕事を勝手に義務化して苦しんでいることになります。

楽しんでやっているならば、苦しくありません。いくら、超過勤務をしたとしても。

かつての電通との仕事も同じです。

言われたこと以上のことをして、

「早く対応してくれて、助かったありがとう!次もまた頼むよ!」

なんて、言われて、嬉しくて、顧客満足ってこういうことか〜頑張ってよかったなぁ、なんて思えるうちは、いいのです。


顧客の注文が細かく具体的であっても、自分で考えるうちに、

「こういう仕様でもいいかもな」

「こんなバージョンもありだな」

と考えるのが楽しければ、時間をかけて2案3案と準備するのは苦ではありません。得意先からの評価も上がるかもしれません。


無理を言われて対応したことなら、請求できるかもしれません。

(現実は厳しいでしょう。「おたくはソレ請求すんの?ヨソはしないよ」なんて言われてね…)


しかし、頼まれたこと以上のことはそもそも請求できません。

それは営業努力であって、つまりは自分のためであって、誤解を恐れずに言うならば、趣味だからです。


わたしは、こういう趣味的な仕事をやめちまえ、と言いたいのではありません。


楽しんでやれるうちは、どんどんやるべきです。夜遅くまで取り組んでも、家に持ち帰っても、苦しくないでしょう。だって、楽しいんですから。


しかし、いくら楽しい趣味的な仕事でも、限度があります。睡眠時間を削り始めたら、だんだん楽しくなくなります。体がこころに影響するからです。

そして、なにより、やはり、

次から相手もまわりもそれを当たり前だと思うからです。


善意で行ったことは、いつしか当たり前となり、楽しくもなくなり、私たちをブラックな働き方へと引きずりこむのです。


では、どうすればいいのでしょう?

と、ずっと思っていたら、一つの答えを宇多田ヒカルさんが出してくれました。

そう、復帰アルバムFantomeです。


CD不況はわたしが改めて言うまでもなく、CDは握手券をつけるだの、選挙券をつけるだの、グッズをつけるだの、表紙のバージョンが違うだの、特典で売るのが当たり前になりました。


似ていませんか?

私たちの善意の趣味的な仕事に。


特典もつけ始めると、次はそれが当たり前となり、それ以上を求められます。

「もらえてラッキー」とは、今の消費者はもう思わないんじゃないでしょうか。

そんな折、なんの特典もないCDが発売され、第一位を続けています。

宇多田ヒカルさんです。

わたしは音楽にいいとか悪いとか言えるほど聴いてはいませんが、評価は高く絶賛されているようです。

宇多田さんが何を教えてくれたのかというと、

本業に集中しろ

ということなのではないでしょうか。


シンガーソングライターは、販促や特典ではなく、曲作りに。

広告代理店は、深夜対応ではなく、マーケティングとアイデアに。

教師は、学級通信や家庭訪問ではなく、授業に。


こんなことをすると喜ばれる

という付加価値ではなく、

自分の本分で喜ばれる

という何も付加しなくても価値のある本業を。

目指そうでは、ありませんか。

2016年10月28日金曜日

給食はトンデモメニューなのか?

一ヶ月ほど前のことだったでしょうか、友人がこんな記事をフォローしました。

「学校給食の不都合な真実〜子どもたちはこんなものを食べさせられている!〜」

(だいたいですよ。こんな感じのタイトルだったと記憶しています。細かなところの違いはお許しを。)

どうしても、教師としては反応してしまったわけです。

常日頃、給食のへんなところは気にしていましたので。


その記事は、京都の有名な料理人の方が書いていて、

・地域に根ざした出汁の導入

・生魚の導入(冷凍でなく)

を文科省や全国学校給食連合会に提案しても、門前払いにあったことが書かれていました。

確かになあ…ありえるなあ、と思いながら読ませていただきました。

しかし、学校給食の名誉のために言うならば、私の勤める小学校では、うどんがメニューのときには、10時にもなると学校中がかつおだしのにおいでいっぱいになり、教師も子どもたちも「今日は、うどんだー!」とウキウキします。

また、ハヤシライスがメニューのときは、朝から甘くて香ばしい匂いが立ち込めます。

これは、100キロあまりの玉ねぎを炒めているからです。

カレーのときは言うまでもありません。カレーなんて、喫茶店みたいに業務用缶詰でしょ、と思っていませんか?
(そうじゃない喫茶店主の方、ごめんなさい)

私の学校では、バターで小麦粉を炒めることからカレーを作ってくださっています。漂うかおりのよだれを誘うことと言ったら!

家庭でそんなカレーを食べられる子どもは少ないでしょう。

京都の有名な料理人の方、こんなふうに学校給食も素敵なところはあるのです。

しかし、です。

素敵なメニューもあれば、やはりトンデモメニューもあるのは事実です。

指摘されていましたが、たしかにごはんに牛乳はおかしいです。合いません。

しかし、やはり私もカルシウムの摂取と日本の酪農のことを考えれば、全国1000万人ほどの子どもたちが毎日牛乳を飲むことに賛成です。

しかし、トンデモメニューの中心は牛乳ではなく、パンです。

涼しい顔をして、給食メニューに居座っていますが、パンこそが悪の中枢だと私は睨んでいます。

京都の料理人の方は、冷凍食品に注目し、そこにぶら下がる業者の多さに問題点があると糾弾していました。彗眼に頭が下がります。

しかし、パンはもっとヘンです。

牛乳
パン
具だくさんスープ
ハンバーグ

というメニューなら、構いません。パンはそんなスープやシチューといっしょに出せばいいのです。

しかし、パンはもっと居座っています。

牛乳
パン
きつねうどん
鶏肉とキュウリのサラダ

とか

牛乳
パン
焼きそば
きんぴらゴボウ

とか。

パンが麺類といっしょに出ます。

パン、いらないでしょ?
炭水化物そんなにいらないでしょ?

100歩譲って、まだごはんなら、世の中にも、うどん定食なるものは存在するでしょう。

しかし、うどんや焼きそばと、パンって!

学校給食では、麺類はごはんではなく、パンといっしょに出される地域が多いのです。

なぜか?

これには、京都の料理人の方が冷凍食品に対して糾弾したような、構造があると私は睨んでいます。

これは、大げさに言うならば、小麦粉の消費や、パン製造業者(組合?)の利権が絡んだ、文科省、農水省の闇です、きっと。

日本は、大量の小麦粉を輸入しています。これは、国内産小麦の生産を阻害するほどの量と価格での輸入です。

なぜそれほどの量を輸入するかと言えば、自動車をはじめとする輸出品を支えるために、貿易の均衡を保つために小麦や大豆を輸入しなければならないからです。

輸入した小麦粉はちゃんと使い道があるんですよ、という理屈を通すための一つの手段が、週に3回の給食パンなのです。

全国の小中学生が週に3回のパンを食べると、一年間に何トンの小麦粉が消費できるかは知りませんが、その規模の大きさはぶら下がるに値する大きな利権を生んでいるはずです。

パンの回数は絶対です。
動きません。

この硬直ぶりは、毎日給食を食べていると分かります。なにか、アンタッチャブルな力を感じます。

給食とパン業者と小麦粉の輸入業者と、食料自給率を低く抑えたい農水省の強い力です、きっと。


ちなみに、食料自給率の低さは度々報じられていますが、「食料自給率のウソ」はあちこちで言われているとおり、日本は、カロリーベースの食料自給率を採用しています。

ほとんどの国はトン(重さ)ベースです。

日本は、野菜をたくさん作る国なので、野菜はカロリーがないので、作っても食料自給率はほとんど上がりません。

こんにゃく芋や白菜なんて、いくら作っても食料自給率に全く貢献しません。

農家の方を馬鹿にしたようなそんな食料自給率ってありますか?

ちなみに日本だってトンベースを採用すれば、食料自給率は70パーセントくらいになるそうです。

すごいじゃないですか!
農業立国できているじゃないですか!

しかし、農水省はあえて、カロリーベースを貫きます。

なぜか?

農業は危機に貧している‼
農家は苦しい‼
国産が食べられなくなるかも!!?

と、煽ることで、予算を分捕りたいからです。そこにぶら下がる今話題の全農も同じです。

国産小麦は、少しずつ耳にするようになりましたが、まだまだ少ないです。そんな大々的には生産できないようになっているに違いありません。

せっかくカロリーベースで抑えている食料自給率が上がってしまうからです。

というわけで、子どもたちは、食料自給率を低く抑える手伝いをしているようなものです。

私としては、なんとか給食を週に5回とも白米にしたいところです。

何十年も改良されてもいない、輸出の対価で仕方なく輸入した小麦粉を使った、パサパサのパンなんてなくなればいいのです。

うどんとバン

誰が考えても、おかしいでしょ?
(小麦粉with小麦粉だし…)

2016年7月7日木曜日

なぜ組立体操をやめられないのか?

組立体操、特にピラミッドに対しての各自治体に対応策が発表されましたが、そろそろ組立体操の季節がやってきます。

子どもたちの季節は、運動会の秋です。

しかし、教師にとっては組立体操の季節は夏。そう、夏休みです。

2学期からの指導に向けて、この夏休みにプログラムを作リます。

組立体操はしない

そんな宣言をする自治体が相次ぐ中、どことは申しませんが、私の勤める日本の端の人口数十万都市では、組立体操続行です。

その理由としては、

○我が市は、もともと人塔とピラミッドには高さ制限がある。
(えっ、そうなの? 知らなかった)

○我が市には、長年積み上げてきた指導ノウハウがある。
(うそ…伝わってませんけど…)

○我が市は、近隣校で共通演目を設定し、協議・検討している。
(してたっけ…?)

…らしいです。

しかし、ですよ。

私の知る限り、小学校および中学校で市内で組立体操によるケガ人が出なかった年はありません。

つまり、組立体操が原因のケガが毎年起こります。擦り傷や打撲などの軽傷ではありません。(擦り傷や打撲にも重傷はあるでしょうが)

骨折するくらいのケガです。

さすがに命の危険があったという話は聞きませんが、骨折する痛さや、本番に出られない辛さを感じている子どもが、市内にも毎年いるということになります。

教師の感覚は、

「何十校もあれば、一人くらいはそういうことが起こるかもな」

といったところでしょうか。

みなさんも、そう思いますか?

それとも、この感覚は世間ズレしていますか?

異物混入を考えてみます。

食品などへの異物混入は、事件のときもありますが、多くが事故です。なんらかの過失があって起こります。

しかし、一つの加工食品から、もし虫が出てくれば、まず、すべての出荷済み商品を回収し、すべての生産ラインを止め、混入経路を特定し、改善策を整備して、検査を経て、再開となるでしょう。

「一つくらい、混入はあるでしょ」

で、済ますことはありません。

長引く問題となっていエアバッグもそうです。一つに欠陥があれば、基本的にはすべてを止めて回収し、改善されなければ、再開はありません。

しかし、組立体操は違います。

毎年のように骨折する児童がいても、その学校で、その自治体で組立体操は続行です。

もちろん、怪我の報告はあります。

いつ、どこで、どのようにして、どんな怪我となったのかは、学校には報告義務があります。教育委員会へも、もちろん、それを見ていなかった家族にも。

ただ、改善策は多くの場合、とられませ

「緊張感を持ってやろう!」

などと、教師がゲキを飛ばすくらいです。

異物混入事件の改善策が工場長のゲキのみだとしたら、お話にもならないでしょう?

教育現場では、お話になっているのです。

もちろん、

○難易度の高い技に挑むとき、見ている教師を増やす。

○適宜、十分な休憩を取る。

○段階的に指導する。

みたいなことは、言うでしょう。

しかし、怪我を防ぐ解決にはなっていませんし、所詮【今一度、再徹底する】という意味であって、怪我の前後でそうかわっているとは思えないものばかりです。

組立体操において、怪我を減らす解決になるのは、

技を減らす

技をやめる

以外にはありません。

子どもの集中力や体調は、測ることができません。

10分休んだから…

昨日早く寝たから…

…じゃあ、絶対にケガをしないかというとそんなことはありません。人間がやることに、絶対はありません。

ケガをなくす(または、全員の命を守る)には、やめるしかないのです。

…なんてことを言うと、反論が来ます。


組立体操以外にもケガはあるじゃないか。

水泳だって事故が多い。でも、続けている。

何をするにしてもケガはゼロにはできない。最大限の努力をするしかない。

保護者や地域の期待はどうする?

事故はレアケースだ。ほとんどの場合は大丈夫なのに、レアケースで全体を変えるのか?

などなど。

ま、組立体操をやりたい人たちはいるのです。見たい人たちもいるのです。

確かに、迫力はあります。6年生や中学3年生のビシッとそろった動きは美しいでしょう。締めの演技にふさわしい風格があります。まして、ピラミッドや人塔のような大技になると言うまでもありません。

また、全員の気持ちが一つにならないと成し遂げられない。上に乗る者は下で支える者を思い、下で支える者は、上に乗る者を思う。そんな学びも大きい。

という教育的な一面を話す先輩にお会いしたこともあります。

でも、今、世の中が問うているのは、

そのために死ぬ人間がいていいのか? 骨折する人間がいていいのか?

…ということです。

義務教育の授業である以上、自主参加ではないのです。任意ではないのです。習い事とは違います。スポーツにケガは付きものだ、が必ずしも当てはまりません。

いいとは言えません。

言えるわけがありません。

でも、何で今になってそんな問題になるのか? 今までは大丈夫だったのだから…

と、急な世論の高まりと各自治体の方針転換に、私の勤める自治体でも戸惑う教師は多いのです。

もちろん、もし、年々ピラミッドが高層化・巨大化していたのなら、改めねばなりません。一番下の子どもには、想像を絶する重さがかかることが報道されていました。

しかし、多くの学校での組立体操は、そこまで高さや大きさを追求してはいなかったはずです。

去年も一昨年も、そして5年前も、10年前も、同じような技に取り組み、その例年通りを続けてきたはずです。

きっと、我が市が言いたいこともそういうことでしょう。

だから、高さや大きさを競ってきたようば学校や地域と一緒にするな!

我々は、堅実にやってきたんだ。

と、言いたいのでしょう。

それで、けが人がいなければいいのですが、毎年いるのです。

やめろ、と言われれば、やめざるをえないはずです。

まだそれが我が市では、大きな声にはなっていないだけです。

しかし、やめたら、何をすればいいのか?

それが、教師は考えられません。

思考停止しています。

組立体操の大団円以外で終わる運動会を見たことがないからです。想像ができません。運動会は、組立体操を中心に回っていると言ってもいいくらいです。メインイベントです。

小学校では、六年生はプログラムの一番最後に、一番長い時間を使って、演技をします。見ている子どもたちや家族の前で。

そのメインイベントがなくなる運動会を教師は思い描けないのです。

組立体操をやめた自治体は、何をするのでしょう?

ソーラン?
よさこい?
エイサー?
ヒップホップ?
ジャズダンス?

それとも、他に手があるのでしょうか?

1年生から6年生まで、6段階にそれぞれ差をつけた演目を用意するのは簡単ではありません。

以前も書きましたが、ただでさえ、教師はダンスが踊れないのです。教員向けの運動会専用ダンス振り付け講習に、大挙して押しかけるくらいですから。

きっと組立体操中止を決めた自治体では、教師たちが知恵を絞り合って、演目を考える夏になるのでしょう。
(もう、決まっているのでしょうか)

ピラミッドや大技のない、組立体操をするのか、

他の学年と同じようにダンスをするのか、

もしくはダンスや組立体操のような演技種目は全てなくなり、リレーや競技中心の運動会となるのか、

教師たちの悩みどころです。


組立体操で、ケガをする子どもたちが一人でも減りますように。命を落とす子どもが一人もいませんように。

2016年3月24日木曜日

スクールカウンセラーは救世主か?

教師は激務である

という論調もひととおり落ち着いて来たように思います。もちろん、教師が暇になったわけでも、抜本的解決がなされたわけでもありません。

ただ、メディアも世間もそして教師自身も、教師の働き方が合理的ではなく、そして現代的ではないと認識し終えたのだと思います。

私の学校だけでの話ではないと思うのですが、ここ2,3年でのスクールカウンセラー(SC)の仕事量が跳ね上がっています。

少し前までは、教師たちがSCへの依頼の仕方が分かっていなかったのもあるでしょうが、SCの先生の面談予約が取れない、なんてことは聞いたことがありませんでした。

SCの先生は、臨床心理士であり、発達に遅れがあったり、学校に馴染めない児童や保護者の相談に応じ、教師との橋渡しをするのが主な仕事だと思うのですが、週に1,2回学校へ来て、各教室を見回り、たまに面談をし…ということをしてくださっています。

が、去年くらいから、その面談予約が取りにくくなってきたのです。

私の学校では1ヶ月待ちなんてザラです。ひどいときは、3ヶ月待ちです。

別段、ひどいというのは混み具合のひどさであって、子どもの様子や教師の悩み具合の話ではありません。

もちろん、週に1,2日しか機会はありませんし、焦ってこなすようには面談できませんので、時間はかかるのですが、それにしても、そんなに面談件数が増えてきている、ということは、いったい何が起きていると考えればいいのでしょう?

教師のみなさん、いかがでしょう?

同じような状況ではありませんか?

一つは、SCという制度が学校へ馴染み始めたと言えるのかもしれません。導入当初は、いったいSCに何を頼めばいいのか?と戸惑い、遠巻きに見ていた教師たちが、SCの先生方が子どもの話も、親の話も丁寧に聞くことで、次第に子どもたちが落ち着いていく、というケースを何度も目にしたからではないでしょうか。

SCの先生たちのカウンセリングは、教師ではなかなかできないレベルのものだと教師たちが分かってきたのだと思います。

「この子の対応が難しい」

と感じ、かつ、保護者から

「先生、どうしましょう?」

と相談があれば、SCのカウンセリングを勧めるという流れが出来てきたのでしょう。

いくら教師が困っていたとしても、保護者が困っていない場合に

「カウンセリング受けられては?」

と切り出すことは、難しいですが、本当に対応が難しい場合は、校長や教頭、保健室の力を借りてでも、SCへつなごうと努めるようになりつつあります。

逆に言うのならば、SCの仕事量が増えた理由は、

教師が安易に丸投げする

からかもしれません。

教師は多忙です。

放課後の忙しさについては以前にも書きましたが、個別に指導しなければならないことや、保護者を呼んで話をしなければならないことが突発的に起きれば、なおさらです。

友人関係でトラブルが絶えない児童がいて、保護者も困っているようなら、SCの面談予約をとりあえず取り付け、対応を任せるということがあり得ると思います。

それで一応、学校としては対処しているという体裁も整います。

もちろん、教師には手に余る昨今の学校の状況を鑑みて、SCの制度ができたのですから、SCの先生には教師を助けていただきたいです。

しかし、何でもかんでもSCへ、ということになってきたのではないかと心配もするわけです。私としては。

そして、教師がSCを頼るのと同様に、保護者のみなさんもSCを頼ります。

これは、教師の質の低下、と関係があります。

教師のレベルが実際に下がっているかどうかは分かりません。それは、ここではおいておきます。

世間が考える教師の質

が低下しているのです。

小学校教員免許など、国公立や名門私大でなくても取れます。短大だって取れます。学生時代に取れるのに取らなかった人たちが親になっています。

お父さんはもちろんですが、お母さんもフルタイムで働くのが当たり前になると、教師の出すプリントや学級通信に載る文章のレベルやパソコンスキルを、自分の仕事と比べてしまいます。

もちろん、教師の質と免許はさほど関係ないでしょう。パソコンスキルなんて、なおさらです。英語力もしかり。

しかし、民間で働くお父さんお母さんは、嫌でもパソコンスキルや英語力を磨かねばならない時代なのです。そして、それを身に着けています。

そりゃ気になるでしょう。

学級通信のレイアウトやワードアートの使い方が。読みにくい改行位置が。

子どもから伝え聞く英語の時間での先生の英語力が。

教師の指導力には直接、関係ないことでも、比べやすいところを人は自分と比べます。

(もちろん、パソコンスキルも英語力も教師だってあった方がいいでしょうが)

すると、昨今のお父さんお母さんにとって、教師のレベルは下なのです。教師の質は低下していると「思われている」のです。

ならば、小学校教師のいうことにもはや説得力はありません。「教師」という肩書では、説得力がないのです。

子どもの不安に気づく。

トラブルを未然に防ぐ声掛けをする。

「できた」の自信を付けさせる。

…などの、指導力は見えにくいのです。

パソコンスキルや英語力なんかより、小学校では、はるかに大切な教師の質ですが。

見えやすいスキルが質となって、保護者の目に映っているのです。

つまり、教師じゃ話にならない…

…じゃ、臨床心理士なら…

という時代が来たということです。

臨床心理士であるSCは、話すことに説得力があり、保護者にとってその話は聞く価値があるのです。そのアドバイスは、教師のそれより力があるのです。

もちろん、実際にSCの力は大きく、教師を助けてくれています。何もSCはその資格によるイメージだけの力ではありません。

しかし、そのイメージの力は大きく、多くの保護者は、教師の話などそっちのけになる場合も少なくありません。

…ならば、教師も困ったときの神頼みかのように、案件を丸投げするようになったのではないかと思います。

SCの先生方、

これからしばらくはお力を借りることが多くなると思います。

「それくらい、担任で対応してよ」

と思われるケースが多いと思いますが、それでも可能な限り教師と保護者を、そして何より子どもたちを助けてやってください。

保護者の中には(ひょっとしたら教師の中にも)、カウンセラーに相談したら、今の問題のあれこれを一発解決できる素晴らしい方法が見つかると過剰な期待を持っている場合もあるかもしれません。

また、時間や手間をかけたのに、お礼の一つどころか、恨み節しか残してもらえない場合もあるかもしれません。

それでも、私の数少ない経験ですが、SCの先生に相談することにより、日に日に顔が明るくなった子どもや、子どもを一歩引いて温かく見守ろうと努め始めた保護者の方を何人か知っています。

SCというシステムが今の子どもたちを救うベストの方法かどうかは分かりません。しかし、対処療法的であったとしても、現在はSCの力に頼って学校は回っています。

学校と保護者、そして子どもの真ん中に立って、すべての話を聞き、コミュニケーションを取る大変なお仕事かと思いますが、頼りにしている教師がたくさんいます。

よろしくお願いします。

私は…丸投げにならないようにします!