教師という仕事が、民間よりもヒマかヒマでないか、ラクなのかラクでないのかは、分かりません。
両方経験した身としては、忙しさの種類が違う、とだけ言っておきます。詳しくは以前にも「教師の夏休みは長すぎるのか?」に書きました。
今回の「忙しぶる」のは、あくまで職場内の相対的な問題のことです。
もちろん、忙しぶるのは何も教師に限ったことではないのかもしれません。
私が以前と務めていた会社でも、抱えている案件は少ないはずなのに、「忙しい」を連発し、これ見よがしにフロアを走り、ややこしい仕事は他人に振り、そしてさっさと帰る・・・そんな人がいました。
きっとみなさんの会社でもいるでしょうし、そんな風に立ち回るのが賢い勤め人の姿なのかもしれません。
しかし、民間ならば本当にその人が仕事をしていれば、業績に表れるし、業績が上がらなくても、訪問件数やプレゼン回数など何らかの足あとが残ります。その足あとは評価へつながるはずです。
「あいつはうまいことラクをしている」だったり、「あいつは頑張ってるのに、貧乏くじばかり引いてる」だったりということにも周りは、上司は気づいているはずです。
また上司はそれに気づき、仕事の割り振りを見直したり、次の異動を考慮したりするでしょう。汚れ仕事を引き受けられる人間に辞められては困るからです。
また逆に皆が楽な仕事ばかりを求めたり、うまく立ち回ることばかりに専心しては組織が倒れてしまうでしょう。
では、教育現場はどうかというと、「忙しぶる連鎖」に縛られている、と言っておきましょう。
忙しい教師というのは確かに存在します。ぶってはいません。本当に忙しいのです。
教頭や生徒指導、体育主任が代表的です。世間のイメージとも合致するのではないでしょうか。
彼らは、会議と報告と事件への対応に追われ、「先生、また出張?」と言われたりするのです。
じゃ、それ以外の教師はというと、別にヒマなわけではありません。それぞれ担任するクラスがあったり、専科の授業があったりするわけです。
しかし、自分以上に忙しい教師が確かにいて、給料は仕事量に関わらず完全なる年功序列であれば、「同じ給料でラクをしてる」と思われては、居心地がいいものではありません。
というわけで、どうするかといえば、「忙しぶる」のです。
報告書を丁寧に書いてみる。
誰かを捕まえて相談に巻き込む。
自分で決めてもいいものを会議にはかってみる。
新たな提案をしてみる。
「私だって仕事はあるんですよ」とアピールをするわけです。
そうして、職員会議は長くなり、教師集団の仕事の総量は増えていくのです。
以前にも書いたかもしれませんが、教師は基本的に仕事を削る、やめる、整理する、ということをしません。
例年のことは例年通りやるのが公務員です。しかし、時代に合わせて仕事は増えます。ならば、時代に合わせていらぬ仕事は削ればいいのです。優先度の低い仕事はやめればいいのです。
しかし、今までずっと続いてきたものをやめる勇気のある教師は少ないのです。
というわけで、学校の仕事というものは増え続ける一方です。
時間に余裕のある教師が、忙しそうな教師に合わせて忙しぶると、結局本当に教師全体が忙しくなってしまいます。
時間に余裕があれば、
「手伝いましょうか?」
と言うべきなのです。
自分に時間があることを認めて、それを恥じずに、やましく思わずに、忙しい人を手伝えばよいのです。
役割によって、仕事量の違いはあって当たり前です。たとえ、給料が同じであっても。
その違いを認めない限り、また一人一役や校務の平均化などといった文句にこだわる限り、「忙しぶる」教師が出てきます。
その「忙しぶり」が本当に忙しい教師をさらに追い詰めるとも考えずに。
「あの人、忙しいふりをしてるよな」
「あの人、仕事を無理にややこしくしてないか?」
ということは、職場にいたら分かるし、管理職も気づきます。
しかし、学校現場は、そんな仕事をややこしくする人や丁寧にやりすぎる人を「熱心だ」と評価するきらいがあります。
つまり、「忙しぶる」ことを助長する風潮があるような気がします。私は。
給料が同じならば、忙しさも同じでなければならない。
そんな負の平等主義が、全員を本当に忙しくさせてきたのが、学校現場です。教師の多くはそんな「忙しぶる連鎖」から逃れられないでいるのです。
ふだん子どもたちへの指導では効率なんて考えずに全力投球する教師にとっては、効率を考えることが、どこか人間味のない冷たい作業のように感じるのでしょうか。
しかし、教師の仕事と公務員の仕事は分けて考えなくては、教師の仕事に差し障りが出てきます。
さあ、先生たち。
公務員の仕事を仕分けしよう。
忙しぶるのをやめて、本当に忙しい先生を手伝おう。
新しいことを始めようと言う前に、古いことを一つ削ろう。
自分と仲間と子供たちのために。