2011年12月22日木曜日

「教師は体力仕事」とはどういう意味か?

教師は聖職者か、労働者か?

なんて論争は私にとってはどうでもいいので、ちょっと仕事の内容について考えてみます。

教師は体力が勝負!なんてよく言われましたが、そもそもどんな職業だって体が資本であることには変わりがありません。

しかし、その「体力が勝負」ということの意味を私は当初、履き違えていました。
私はてっきり、子供たちと一緒に休み時間に走り回ったり、体育で手本を見せたりすることを想像していました。それくらいなら、自信はあったのです。体力の衰えを感じたことはありませんでしたし、少し前に日本三大尾根の一つと言われる剱岳の早月尾根を制していたからです。

しかし、小学校現場に入ってみて思い知らされました。
体力とは、運動能力ではなく、本当に「体力」だと。

子供たちは時間に縛られています。時計を見なくたって、チャイムや音楽が鳴り、嫌でも時間というものを思い知らされます。好きなときにお茶を飲むことも、外の空気を吸うこともできず、また、たとえ授業の内容を理解し切れなくても、授業は終わります。
教育現場は内容ではなく、完全に時間を軸に動いています。だから、子供たちはそれに自分自身をフィットさせなければなりません。それが、時間を守り、ルールを守ることの勉強であり、きっと将来、納期を守るという仕事の基本に繋がることなのです。

その絶対ともいうべき時間の縛りはもちろん、教師にも及ぶのです。普通の会社員のように好きなときにトイレに行くことはできません。のどが乾いたからといって、気分転換したいからといって、タバコを吸うことはおろか、コーヒーを飲むこともできません。

始業のチャイムが鳴ったら最後、子どもたちを下校させるまで仕事を中断することはできません。

授業が始まれば、終わるまでは休憩もトイレも基本的には許されていません。立って授業をする以外の選択肢はありません。(まあ、たまには座って読み聞かせをしたり、テストをさせている時間は座りますが)

そう、立っているのです。説明をするにせよ、教えて回るにせよ、立っています。この「立っている体力」がまずは教師に必要とされる体力です。

次に要求される体力は、「こなす体力」です。「教師の仕事」には残業があっても、「先生の仕事」には残業がありません。

子供たちは、基本には時間が来たら帰ります。遅れている子が残ってやることはありますが、教師がこなせなかったことで子供たちを残すわけにはいきません。

たとえ、教科書を教え切ることができなくても、決められた時間をこえて子供たちを教室に残して教えることはできないのです。

だから、こなす必要があります。決められたことを決められた時間内でこなすには体力がいります。

休むことなく動き続けなければならない時もあります。騒いだりダレたりしてしまう子供たちに、時に檄をとばし、特になだめすかして、こなす体力がいります。後回しはできません。後がないからです。

先生の仕事には、基本的に「待ち」の時間はありません。クライアントの返答待ちとか、決定待ちなどというものはありません。もちろん、子供たちが問題を解いたり、テストをしている間は確かに待っています。
しかし、やるべきことがないわけではありません。途中で手を挙げて質問する子や手を挙げないまでも問題につまずいている子がいれば、声を掛け、手助けをします。常に立ち、常に歩き、常に動き、子供たちと自分たちのやるべきことを時間内にこなすのです。

これはサラリーマン時代とは明らかに違う忙しさでした。残業や会議、クライアント待ち、の忙しさとはまったく違います。教師は3時に子供が帰ったら仕事が終われて楽でいいね、なんて誰が言ったのか知りませんが、楽ではありません。もちろん、子供が帰っても仕事はまだまだ続きます。

この、時間枠に極度に閉じ込められた忙しさは、体力がないとやってられません。運動能力ではありません。体力です。

いわば、体の使い方の能力です。筋力や持久力ではなく、体の使い方です。

ベテランは、さすがベテランであるということを私はそんなところに感じます。

どんな職業でもそうなのもしれません。体の使い方や、力の抜きどころというものは若者はベテランには勝てません。

これを新人としては張り付いてでもして学びたいわけですが、採用されると新人はたったひとりで教室に放り込まれるわけです。
そして、若さに任せて、なんとか時間軸と戦いながら、少しずつ教師の体力を身につけていくのです。


最初の一年は、無駄に動いて無駄に疲れて無駄に批判された…

私の実感です。
なんとか、ならんもんですかねぇ…


2011年12月14日水曜日

なぜ教師はWordで表を作るのか?

教育現場に入ってびっくりしたことがあります。

一つは、教師という生き物は恐ろしくパソコンが使えないということ。

もう一つは、パソコンが使える教師のWord能力が恐ろしく高いということです。

パソコンが使えない/使わない教師のコピー機の使用能力もかなりなものです。「そんな使い方するの?」と驚いたことも多々あります。しかし、何よりもびっくりしたのは、いわゆる「パソコンなら任しとけ」的な教師たちのWord能力の異様な高さです。

Officeを使うときには、きっとよく使うソフトというものがあるはずです。

pptをよく使う人、xslをよく使う人、そしてWordをよく使う人、自然と使いやすいソフトが決まってくるものだと思います。どのソフトを使ったとしても、同じような出来上がりの文書はできるからです。

しかし、Wordで表を作る人がいることにびっくりしました。どう考えても、100マス計算のようなただの格子状のフォーマットを作るのならExcelが楽でしょう。Wordで罫線を引きまくって出来ないことはないでしょうが、改行ひとつでレイアウトが狂うので私はとてもやる気になりません…が、教師の多くは、やるのです。

しかも、それが早いし、私が使ったことのないアイコンやプロパティを駆使するので、最初は画面を楽しく覗かせてもらいました。

また、会計をするにもやはりWordを使います。それはさすがに感心はせずに、なんて無駄な…と思いました。だって金額を打ち込んでも、合計も差額も出ず、手元の電卓を叩いているのですから。(今ではExcelでやっている教師も増えています。)

例を挙げればキリがありませんが、気になるのはどうしてこんなことになっているのか、ということです。

一昔前、教師も地方公務員の一種であり、各自治体が一太郎を導入し、その研修を繰り返したということは知っています。今でも「Wordは使にくい!一太郎がいい!」とこだわるベテランも多いです。
憶測ですが、その一太郎の研修をやりすぎたのがその一因なのではないかと私は思っています。一太郎でこれもできる、あれもできるとやっているうちに、すべてをワープロソフトでする文化が育ち、Wordが隆盛になっても続いているのではないでしょうか?

ただ、不思議なのは、大学を出てくる若い人たちもその傾向があるということです。Wordにこだわっているかのように、Wordを使います。
教育大学では、Wordばかりを使うように指導でもしているのでしょうか?

私に「Excel教えてください」と言う若い教師は少なくありません。もちろん、文系である以上、表計算をする機会は少ないのかもしれませんが、現在、学生である間になんの統計もグラフも作らないことがあるのでしょうか?

あるのかもしれません。
あっても、Excelを使わないのかもしれません。
レポートがWordならば、すべてをWordで終わらすのかもしれません。

Wordがいけないことはありません。しかし、Wordの制約の中で書面を考えるのは褒められたことではありません。これしかできないからと、ワークシートやプリントをWordの制約に当てはめることは子どものためにもなりません。

だからこそ、私はpptを勧めています。レイアウトは自由だし、写真やオブジェクトは行に左右されません。紙に書くのと同じような感覚で書類を作ることができます。

教師の中にはpptはプレゼン用だからと決めつけている人が多いように思いますが、印刷物を作る上でもかなり使い勝手がいいのはまちがいありません。

でもExcelにしろ、pptにしろ、新しいことを始めるとなると、「じゃあ、研修してよ」と口にするのもまた教師の常です。

いやいや、子どもに「みずから学べ」と言うんでしょ?
自主性が大事だと教えるんでしょ?

じゃあ、大人もやりましょうよ。ね?

2011年12月10日土曜日

なぜ教育学部でないと小学校教員免許が取れないのか?

教員免許というものは、とりあえず取っておくものだ。

大学時代、私の周りの友人たちはそう言っていました。なにせ、受けなければいけない一般教養の講義を普通に取れば、あとはほぼ教育実習だけで教員免許が取れるからです。

それは取らない手はないと、俺は高校英語だ、中学社会だと、免許を取る者たちがたくさんいました。そして、教育実習に行った話をよく聞かされたものです。

教員になる気も、免許に興味もなかった私は、そんな彼らの話を右から左へ聞き流していました。

ところが、彼らが「どうせなら小学校(の免許)も欲しかったなあ。俺たちは文学部だからしかたないけどさ」と漏らすのを聞いて、妙に気になって聞き返してしまいました。

そのとき初めて、小学校教員免許は教育学部や教育大学でないと、取れないことを知ったのです。

思えばおかしな話です。

なぜ小学校教員免許だけがこんな扱いなのでしょう。人材を広く集めることが学校現場には必要であることが、こんなに言われているのに。

それはつまり、大学受験時に小学校教師になろうと思っていなければ、小学校教師になることができないということです。

教師は狭い世界だから。

と自他ともに言うそんな風潮の根っこはこの辺りにあるのかもしれません。

適格/不適格を問うのは、採用試験であり、免許ではないはずです。小学校教員免許は教育大学や教育学部の利権と化していて、外部の参入を妨げているとやっかみを言われても仕方ありません。

私の周りでも、教育大学や教育学部以外出身の教師は数えるほどしかいません。彼らはどうやって小学校教員免許を取得したのかというと、わずかな大学がやっている通信教育での取得がほとんどです。

通信教育や短期大学でも取得できる免許がなぜ4年制大学で取得できないのか、甚だ疑問です。すぐにでも、免許制度を改革し、多くの大学や学部から、小学校教師を募集してほしいものです。

ちなみに文学部を出た私はというと、文科省がこっそりとやっている、教員資格認定試験を受けました。これは3次までの試験をパスすれば学歴に関係なく、小学校教員2種免許(短大卒相当)が取れます。合格率は受験者数ベースで10%ほどですが、とりあえず受けとけ的な人も多いため、きちんと勉強すれば受かるはずです。

ただ、3回のテストでさえ与えることのできる免許が、どうして4年制大学で取れないんでしょうねえ…



2011年12月8日木曜日

通知表は手書きであるべきか?

近年、通知表が全国的にどんどん電子化され、プリントアウトした活字になってきています。
もちろん、5とか◎とかの評定だけではなく、担任の先生が書いてくれるコメントもです。
我が身を振り返ってみれば、先生がいったい自分について何を書いてくれるのか、それを楽しみにしていたような気もします。ただ、昔のことなのではっきりとは覚えていません。

その通知表を教師が作成する際の作業が、要するに手書きではなく、パソコンに移行しているのです。

思えば、当たり前の話です。
テストの点数だって、普段のちょっとした評価点だって数字である以上は、合計するにしろ、平均を出すにしろ、エクセルで管理をした方が便利です。情報化が世間と比べて10年遅れていると言われている学校現場でもさすがにそれくらいのことをしている教師はいます。とはいえ、私の周りの小学校教師の多くは、紙に記録し、電卓をたたいています。

少しずつでもエクセルが普及しているのであれば、当然、コメントだって同じファイルの別シートで管理した方が便利であるのは明白であって、手書きをするコメントの下書きを書くのなら、当然のようにエクセルで下書きをすることになります。

それならば、そのエクセルでデータとしては出来上がっているものをわざわざ手書きで清書することに疑問を抱き、レイアウトを整えてそのままプリントアウトしようとするのは何も突飛なことではなく、ごくごく普通のことです。

ところが私の学校の話をしますと、これがなかなか進みませんでした。年配教師によるパソコンアレルギーはもちろん、恐ろしく例年通りを好む現場風潮、そして何より「パソコンは味気ない」という感覚があるからです。

確かに手書き文字の力はあるでしょう。肉筆と言うくらいです。その力は広告などでも既成フォントを使わずに手書き文字を使ったり、題字の仕事があることからも分かります。

しかし、見た目でおとるのならば、内容で勝負するべきです。タイプで書きやすくなった分、推敲を重ねればいいでしょう。手書きでは出来なかったことがきっと出来るはずです。そして、何よりも、恐ろしく丁寧に書くことや間違いをこれもまた恐ろしく丁寧に砂消しゴムで消すことから解放される時間の膨大さは計り知れません。
肥大した学校現場の仕事量を考えば、メリットは大きすぎます。

きっと、手書きと決別することで、教師自身はもちろん、学期末に少しでも担任が楽になることで生まれる精神的余裕は、クラスの子供たちにとっても嬉しいことのはずです。

手書きの力を信じるのならば、ふだんのノートや連絡帳にできるだけたくさんコメントを書けばいいのです。

まあ、これがまた難しいのですが…

ともかく、ようやく私の学校では来年度より手書きとサヨナラです。