2015年7月8日水曜日

授業参観はハレの日か?

私の勤める小学校ではこの前、今年2回目の授業参観が終わりました。

※すみません。書いている途中でサボりました。2回目の授業参観はとっくの前に終わっています。もう、夏休みがやってきます。更新が遅くてすみません※

授業参観は、私も子どもたちも普段よりはどうしても力が入りますから、ときに積極的になり、ときに空回りをします。

思う以上の授業ができるときもあれば、思うようにはいかないときもあります。

が、そのうまくいったり、いかなかったりが普段の授業なので、「いつも通り」を見せる授業参観としては、それでもいいのかもしれません。

問題は、授業参観はどこまで「いつも通り」なのか?

ということです。

教師のみなさん、いかがです?

私の場合、授業参観は、いつも通りでもあり、いつもと違うとも言えます。

それを

「服装」
「教室環境」
「名前の呼び方」
「発表」
「仕込み」

の5つの点で整理してみようと思います。半分は自分のために。もう半分は、同じ教職を選んだ人たちの参考のため、そして、わが子の授業時間での様子が気になる親御さんたちのために。

「服装」

タイトルでも書いたように、授業参観はもうハレの場ではありません。保護者のみなさんもジーパンにTシャツで来られます。ツーピースにパールのネックレスの時代はとっくに終わっていると言っていいでしょう。

もちろん、子どもたちも同様です。授業参観だからと普段はジャージにTシャツの男の子が、チノパンにシャツを着てくる…なんて姿もかつてはあったと聞いていますが、今はありません。

女の子も同様です。
音楽会などの大きな発表の場をのぞけば、男子も女子も「いつも通り」です。

しかし、服装からして「いつも通り」ではない人たちがいます。

そう、教師です。

ひょっとしたら、教師の服装もいつも通りでやろう、という学校もあるかもしれませんし、私はいつも通りだ、という先生も数多くいらっしゃるでしょう。

しかし、多くの教師は普段はジャージなのに授業参観ではスーツを着たり、普段はジーパンにTシャツでも、授業参観にはスカートとシャツを着る、ということをしています。
私の知る限り。

子どもたちは言います。
「先生、きれいな格好してきた〜」
「お母さんたちが来るからってカッコつけてる〜」

授業参観が始まる前には子どもたちのそんなツッコミを浴びることになります。

それを楽しめる子どもたちは、授業参観には普段よりもテンションが上がって、たくさん手を上げたり、手を上げるなんてまどろっこしいことすらままならず、いきなり答えを叫んだりします。

一方、教師がスーツを着ることで、構えてしまう子どもたちもいると思います。もちろんスーツだけのせいではありません。後ろには普段はいない親たちが並んでいるのですから。

教室の前も後ろも「いつも通り」ではありません。

そのくせにスーツを着込んだ教師が

「みんな、いつも通りでいいからね」

なんて言ったりするのです。

そんな子どもたちは、授業参観では手を挙げなくなってしまいます。

普段通りを見せるのが授業参観の理想ではあるけれど、教師が普段通りではないのですから、そもそもそんな理想が間違っていることになります。

いつもと違う状況で張り切る子どもたち、固まってしまう子どもたち、そして変わらない子どもたち、子どもはいろいろです。

「教室環境」

さすがに教室はいつもと同じだろう、と思われる人も多いかと思いますが、やはり授業参観の日は少し違うのです。
「普段は来ない人たちが来る」というだけで、知らず知らず、「普段通り」が変わってしまいます。

まず、掃除。

家だってお客さんが来るときには、いつもよりきれいに掃除するものだと思いますが、学校も似たようなものです。
もちろん、子どもたちの掃除の時間が増えたり長くなったりはしませんので、いつもよりきれいに掃除するのは、教師です。

そして教頭先生や校長先生もいつもよりウロウロウロウロして、汚れているところ、散らかっているところを探しては指摘したりするのです。

また、ベテランの先生も、授業参観で授業のことで頭いっぱいになった若い先生が気が付かないところをフォローします。

雑巾かけに雑巾をきれいに干し直したり、乱れたほうきを整えたり、フックから落ちてしまった子どもたちの手さげかばんなどを、そっと直したりしています。

というわけで、ふだんよりは教室廊下はきれいですし、片付いているのが授業参観です。

そして、掲示物。

授業参観に合わせて作品や新聞を作ったり、習字を書いたりはしませんが、作りっぱなし、書きっぱなっしになっていたものを慌てて教師が掲示するのが、参観日前日や前々日です。

普段から、子どもたちが作るたびに掲示すればいいのですが、壁の上やワイヤーに掲示するとなるとついつい後回しになってしまうものです。

でも、参観日にきたお母さん、お父さんたちは、授業をずっと聞いていることは少なく、自分の子どもが書いた絵が他の子と比べてどうなのか、よく名前を聞くクラスメイトはどんな絵を書いているのか、なども気にされているように思います。

また、授業参観では伝えきれない活動は、この機会に掲示物として少しでも伝えられればいいなと私も思っています。

というわけで、参観日の前々日くらいから、事務室の備品置き場から、画びょうがなくなりがちになります。もちろん、事務員にとってはそんなことは想定の範囲内ですが。

「名前の呼び方」

いつ頃だったか、男女の区別が差別に繋がるとかかんとか、そんな風潮のおかげで男の子も女の子も「〜さん」と呼ぶようになっています。

私は新任の頃はそれが奇妙で奇妙で「〜くん」「〜さん」と呼んでいた時期もあるんですが、慣れとは恐ろしいもので、今は何とも思いません。

「〜さん」と呼んでいます。

普段も、授業参観も。
ま、きつく注意するときは呼び捨てしたりしますが、普段から授業中も休み時間も私は名字で「〜さん」と呼んでいます。
教師によってはこれはいろいろで、下の名前を呼んであげたいと思う教師、一人ひとりにニックネームを付けて呼んであげたい教師…

教師によって違います。何が一番いいのかは分かりません。
私は経験上、子どもたちとは程よい距離があった方がいいタイプの人間だと思っていますので、名字で「〜さん」です。
ひょっとしたら、名前で読んでほしいと思っている子どもたちもいるかもしれません。

というわけなので、私は授業参観になっても名前の呼び方は変わりませんが、普段、下の名前を呼び捨てにしていたり、ニックネームで読んでいる教師は、丁寧に呼ぶ場合もあるかもしれません。
しかし、そんな教師も多くの場合、授業中と休み時間の呼び方を変えているのではないでしょうか。

呼び方の違いが子どもたちに授業中と休み時間のけじめを付けさせるサインとなることもあるでしょう。

参観日だけ丁寧に呼ぶ、なんて教師はたぶん少なくなっているのではないでしょうか。
もっとも昔を思えば、私はそんな先生に担任してもらったこともあり、「先生、今日は丁寧すぎて気持ち悪いなあ」なんて思いながらも、それが授業参観なんだと感じていたフシがあります。

みなさんはいかがでしょう?

「発表」

親御さんたちは、きっと我が子が発表する姿を見たいはずです。すべての問題に元気よく手を挙げなくても、いっかいくらいでいいから…なんて話も聞いたりします。

懇談会で、相談を受けることがあります。

「あの子、いつもは手を挙げて発表してるんですか?」

なんて。

「いつもはもっと手を挙げますよ」
「いや、あのまんまです。あんまり挙げないですね」
と答えたりしています。

ただ、です。

教師は授業参観にたくさん発表の機会があるような授業を選んでいます。

算数ならば、たくさんの復習問題をしたり、例題を解いたり。

国語なら、言葉探しをしたり、体験を尋ねたり。

子どもたちが、自信を持って次々と答えられるように授業を工夫したり、またそういう単元を選びます。

私の経験で言えば、登場人物の気持ちを尋ねたり、作者の最も言いたいことを考えたり、という面白いけれど、様々な答えが考えられるような学習は授業参観には向きません。

もちろん、そんな問題の方がスイッチが入って、説明しまくる子どもたちもいます。
一方で、何を答えたらいいのか悩んだり、間違いを恐れたりするあまりに、全く手を挙げなくなってしまう子どもたちもいます。

多くの子が手を挙げられるように、また、一問一答だけではなく、様々な意見交流もできるように、教師は授業参観の45分の組み立てにはいつも頭を悩ませています。

とはいえ、なかなかプラン通りにはいかないのが授業参観で、子どもたち以上に教師は緊張しています。
子どもたちの手がたくさん挙がればほっとし、手が全く挙がらないときには焦ります。

親御さんたちは我が子を見に来ていることは百も承知です。でも、自分が見られているような気がして仕方ありません。
私は自意識が高いんでしょうか。

「仕込み」

これは、授業参観のために、事前に練習するか?ということです。

前の日に似たような問題を解いたり、似たような文章を読んだりするかというと、私の場合はほとんどしません。

でも、授業の流し方はそれまでにパターン化しておこうと努力しています。

算数で言えば、

まず、前の日の復習。
次に、今日の問題。
そして、練習。

常に、これです。
変化がないので子どもたちは面白くないかもしれません。

でも、授業参観だろうと、これをやるので、なかなか手を挙げて発表する自信のない子も、「前の日の復習」には手を挙げてくれるんじゃないかと思っています。(そうならないときもありますが)

また、授業参観が、発表の場となることがあります。

作文や、音読、グループ発表など。

この時はもちろん練習します。しかし、授業参観のためではなく、発表会のため、です。

ま、とはいえ、その発表会が通常の授業なのか、参観日なのか、は子どもたちだけではなく、教師にとっても大きな違いなので、指導への熱の入り方はどうしても変わるかもしれません。

ただ、何でもそうですが、練習しすぎたり、こなれすぎたりすると、見ている方は面白くありません。

「よく練習したなあ」「よく頑張ってるなあ」とは思っていただけるかもしれませんが、ライブ感がなくなってしまうのです。

多少、まごついたり、もたついたりして当たり前です。それまで一切なくなってしまうと、いくら発表会や参観日だろうと、やっている方も見ている方も、流すだけになってしまうように思います。

練習しすぎず、仕込みすぎず、でもつかませておく。

それが難しいところだと思っています。

さて、だらだら書きましたが、私自身、自分の授業参観をふり返って整理することができました。

授業参観は今もハレの日なのです。
その日のために、教師も子どもたちも何かの努力をしています。

普段通りを心掛けたり、普段以上を目指すハレの日です。

そう、練習通りに力を尽くすスポーツの祭典にように。

書いてみて分かりましたが、私の課題は「教室環境」ですね。

掃除、掲示物、そして自分の机の整理整頓!

これができてなくては、子どもたちの通知表の

「身の回りの整理整頓ができる」

を評価する資格がありません。

次の参観日までには、机を片付けます!

いや…普段から片付けねば…