2013年12月28日土曜日

教師はなぜ自宅から年賀状を送らないのか?

今年も年賀状の季節が来ました。
クラスの子どもたちのためにせっせと書いている先生方もきっとたくさんおられることでしょう。

私も通知表と事務処理が終わるこの年末ギリギリから、子どもたちへの年賀状を書き始めます。

別に書かなくてもいいのですが、普段、頻繁に学級通信を出したり、きめ細やかな対応ができていない身としては、年賀状くらいは出してお茶を濁そうというわけです。

「明けましておめでとうございます」と書いてもいいのですが、私はいつも学級通信の一つとして新年の挨拶は抜いています。別に信念があるわけではなく、ただ、なんとなくです。
「宿題は順調ですか?」というような感じで。


しかし、困ることがひとつあります。差出人住所です。

年賀状を書くことが習慣になっている子や書くことを楽しみにしている子は聞いてきます。

「先生、年賀状出すから、住所教えて」

しかし、私は教えることができません。昨今の個人情報保護法の問題や教師と保護者とのトラブル増加を受けて、私の勤務する教育委員会から「自宅住所は子どもや保護者に教えない」という指導があったからです。

つまり、私は、
差出人住所は学校にすべきか?
それとも自宅にすべきか?

と悩むまでもなく、差出人住所を学校にしなければならないのです。

「先生に出す時は、学校に送ってくれたらいいよ」
と答えるしかないのです。

・・・しかない、というくらいですから、本当は自宅住所で出したいのです。なぜなら、子どもたちは、「学校に出してね」と私が言ったら、決まったように残念な顔をするからです。

たった一枚の紙がであっても、自分の手で書いたものがお正月に遠くにいる相手の手に渡る。
子どもたちは、それを楽しみ、またそれに魅力を感じているようで、宛先が学校ではそんな年賀状の魅力が なくなってしまうように思うのかもしれません。

先生のお家に送りたい、年賀状を書くことを楽しみにしている子はそう思っている子が多いです。

思えば、教師と子どもの関係は不思議です。
子どもは教師にとって、教育という行政サービスの受け手であっても、客ではありません。塾や習い事の先生とは違います。

完全に仕事同士の付き合いであるならば、仕事場同士で年賀状をやりとりすればいいのです。会社勤めをされている方はきっとそうでしょう。

しかし、教師は仕事ですが、子供の個人情報をかなり知っています。住所や電話番号はもちろん、家族構成や親の勤務先まで。

一方で、子どもたちや親たちは、教師の個人情報を名前以外は知らないのです。

教師と子どもの関係は情報だけを見てもこんなに変わっています。

客でもなければ、友だちでもない、親でもなければ、近所づきあいでもない。
その関係は教師と教え子と言うしか言いようがないのです。

かつては、教師も子どもたちに住所や電話番号を教えていました。私も昔、先生に年賀状を出しましたし、今でも出し続けています。

それは、先生が住所を教えてくれたからです。
住所を教えてもらったからといって、いきなりみんなで先生の家に押しかけるようなことはしませんでしたし、親たちもクレームを言いに行ったりもしませんでした。

どうやら、今は、そうではないらしいのです。教師が個人情報を子どもに教えるということは、そういう危険をはらむ世の中であるらしいのです。

したがって、現代の、この情報公開の不均等が如実に表れるのが、この年賀状の季節なのです。

私は年賀状くらい、個人でやりとりしたいと思っています。年賀状は本来、私信であるからです。

せっかく私に年賀状を書こうと思ってくれる生徒の年賀状なのですから、学校ではなくて、自宅でもらいたいなあと思います。

どっちでもいいじゃないかと言う人もいるでしょう。

でも、かつて好きな先生に年賀状を送り、今でも20年以上に渡って年賀状を送り続けている私としては、学校以外に先生と繋がる方法があることが嬉しかったですし、先生が家で読んでくれたんだと思うと書いてよかったなあと思っていたような気がします。

先生に出す年賀状は、子どもにとって、初めて目上の大人に出す年賀状です。
であるならば、ちゃんと受け取りたいと私は思うのです。学校あての住所ではなく、自宅の住所で。

私宛で。

つまらないことかもしれませんが、毎年気になります。



2013年11月6日水曜日

教師はなぜ余裕がないのか?

教師は・・・なんて偉そうに一般化せず、自分は・・・と言った方がいいのかもしれません。
ま、私は日々、余裕がないわけです。明日のことに追われて、ではなく、まず今日のことに追われています。

 恥ずかしながら、いえ、申し訳ないことに、次の授業は何をやるんだっけ?と休み時間に教科書を初めて見ることもあります。全くもってそんな授業を受ける子どもたちがかわいそうになります。
 しかし、ほんのちょっとの時間でいいから前日にでもパラパラと教科書くらいお茶でも飲みながら見れたらいいのですが、いざ帰ってみると疲れ果てて、教科書を開くことすらできずに次の日が来ます。
教師失格だと言われれば返す言葉がありません。

毎日が万事そんな調子なので、余裕があるとは言えない状況なのです。ならば私が特別に要領が悪いか、サボっているか、それともそもそもの仕事量が多いかのいずれかになります。

ただ仕事量が多いなんてことをいう前に、量ではなくてタイミングで苦労することがあるのです。

それは予定にない仕事です。

どんな業種でもそうだろうとおもいますが、いくら仕事量が多くとも全体を見渡すことができれば、着地点が決まっていれば、予定を立てることができます。人に振ることだってできます。

しかし突発的に起こる仕事は、予定も助けもありません。たいていそんな仕事は緊急性が高いのです。

そう、トラブルです。

トラブルは速やかに解決しなければなりません。他の仕事をうっちゃってでも。

サラリーマン時代も何度もありました。そんな時は、社内外のスタッフや協力会社に頭を下げ、赤字を被り、なんとか最低限の信用だけはなくすまいと駆けずり回ったものです。

では、今はどうしているかというと、教師が直面するトラブルと言えば、多くが子ども同士の人間関係のもつれ、保護者との見解の相違やコミュニケーション不足による苦情です。

これは担任自身が対応するしかありません。

よほどのことがない限り、会議と名のつくものには出席しなければならないのですが、この子ども同士のトラブルや保護者とのもつれに関しては最優先に対応してもよいことになっています。

しかし、対応には時間も手間もかかるため、本来予定していた仕事はすべて後回しになります。ただでさえ余裕がないとあたふたしている時に限って、トラブルは起こります。
いえ、あたふたしているからこそ、トラブルの芽に気が付かないのかもしれません。もし、休み時間に宿題の丸つけをせずに子どもと一緒に遊んでいれば、朝に職員室で印刷機を回さずに、教室で子どもたちを迎えていれば、気づけたことなのかもしれません。

だからこそ、「やっぱり普段から余裕がないとね」なんて教師同士で話をするのですが、なかなか余裕なんて生まれません。

というわけで、普段からあたふたしている上にトラブルが重なってくるために教師は余裕がないのです。


まあ、サラリーマン時代も似たようなものだったかもしれません。トラブルはいつだって「今、来るか!?」ってタイミングでやってきていたような気がします。

そう、思えば昔の上司が言っていました。

「いつもキャパの8割で動いとけ。じゃないと、いざという時に動けん。大事な仕事を取りにいけないし、クレームにだって対応できん」

そうでした、部長。
あの頃から私はその8割ができずに、バタバタしていました。そして残念ながら、今も成長がありません。

教師も自分のキャパシティの8割で働くことができれば、きっとトラブルが起きたときにも冷静に、そして落ち着いて対応できるような気がします。

じゃ、どうすれば8割で働くことができるのでしょう?

部長は言っていました。
「仕事は人に振ればいい」

そして係長は私に言いました。
「あれは部長だからできる技。俺ら下々の者は振る人間がいない」

なるほど。

そうです。担任にも振る人間がいません。子どもたちに任すことができる仕事もありますが(掲示物や掃除など)、基本的にはクラスのことを誰かに振れるはずはありません。

また誰もがクラスや学年の仕事に加え、校務分掌と呼ばれる学校全体の仕事があります。生徒指導担当、体育担当、研究担当、会計担当など、ひとり一つ以上はあるのではないでしょうか。
会議や行事が迫ってこれば、自分の仕事を後回しにして、これをやらねばなりません。もちろん、自分の仕事が片付いていれば、後に回す必要はないのですが。

自分はこんなに仕事があって大変なんです、って言いたいかのように仕事を言い並べてしまいましたが、そうではなく、お気づきかと思いますが、教師の仕事は整理分担されていません。

学級担任は、授業をし、添削をし、学年行事の計画を立て、保護者対応をし、生徒指導担当ならば他のクラスの問題行動にも顔を突っ込み、情報担当ならばシステムの使い方を教師全体に教えなければならないのです。

じゃ、どうすれば余裕が生まれるのか。

まず、校長・教頭以外の管理職を作る必要があるのではないでしょうか。

私の学校で言えば、教務主任や校務主任がいません。(私が小学生だった学校にはいたのですが)

ヒラ教諭の次はいきなり教頭なのです。じゃ、何かあったら逐一教頭に報連相なのかというと、その通りで、教頭も対応はしてくれますが、一人でさばききれるものではありません。(何せ、学級数は約30もありますから)

で、どうなるかというと
「会議でみなさんに聞いたら?」
となるのです。

つまり、管理職が「こうしよう」「それで進めましょう」と言って決断してくれさえすれば、担当が進めることができるものを、管理職がじっくり考えられずいちいち会議にかけていることが多くあるのです。

ヒラ教諭は担当であっても残念ながら決断する権利がありません。「これでいいですか?」と全員に聞かねばならぬのです。職員会議とは、民主的ではあるものの、非常に効率の悪いシステムなのです。

これを教務に関すること(つまり、各教科の授業など子どもへの指導に関すること)はできるだけ教務主任が決断・指示し、校務に関すること(学校の組織としての裏方の仕事や行事に関すること)校務主任が決断・指示すれば、担当ヒラ教諭は会議を待たずに仕事を進めることができ、かつ責任者がはっきりとし、また教頭の負担が減り、職員会議が短くなるのではと思います。

会議とは、本当に皆が知恵を絞って解決をしなければならないことに議題を限定すべきです。

教務主任、校務主任は担任を持たず、社会や理科を少し受け持つ程度で、管理職として働くべきです。
そして、突発的な仕事に対応するのです。管理職であればこそ、経験や年数を重ねているでしょうし、保護者ヘの信頼も厚いでしょう。
必要ならば、保護者と担任の間に入り、冷静な目でトラブルを軟着陸させることができるのではないでしょうか。
担任がないからこそ、定期的に校内を見回り、気になる児童の様子を見ることもできるはずです。


私の勤める地方都市だけでなく、全国的に教科担任制度や特別支援教育の充実を理由に、教師の数を増やそうという動きがあります。

しかし、増やすならまず教務主任や校務主任といった管理職を増やすべきです。

なぜなら、学校現場においては、管理されていないからです。

教師が。

ではありません。

仕事が。

です。

ヒラにはヒラの、管理職には管理職の仕事があってしかるべきです。しかし、それらの仕事が渾然一体となって、皆を巻き込むようにして余裕を奪っていくのが、現在の教育現場です。

存在する意味と、効果と、仕事のある管理職が必要です。

生涯一教師。
現場主義。
偉くになんてなりたくない。

そんな信念で昇進試験を受けない先生が数多くいます。しかし、何十年も担任をしたのであれば、その経験を自分だけのものにせず、組織のために活かさねばなりません。

それが、あたふたする教師を救い、突発的な仕事に青ざめる教師を落ち着かせ、ひいては良い授業を子どもたちに届けることになるはずです。

若い先生がどんどん増えている時代だからこそ、管理職を増やしましょう。仕事を管理して整理しましょう。

経験を積んだ先生、それは今の時代、義務ですよ。今までの恩返しだと思って。


2013年9月29日日曜日

教職はワークシェアできるのか?

休みが取れない。
有給が溜まっては消えて行く。
定時に帰れない。

そんな悲鳴が聞こえる日本の職場です。ベルギーではサマーバケーションが二ヶ月あるなんて話を聞くと、ますます泣きたくなります。

もちろん、それは教育現場も同じで、教師は基本的に月曜日から金曜日は休めません。担任の代わりがいないからです。中学や高校のように教科担任が入れ替わり立ち代わり授業をしてくれれば、子どもたちへの影響はあまりないかもしれませんが、小学校では大変です。

小学生は、今日は先生がいないから一日中子どもたちだけで自習なんていうわけにはいきません。
少しでも時間の空く先生をかき集めて、なんとかして朝から帰りまで教室に一人は教師がいるように計画を立てます。
みんな自分のクラスや授業がありますから、これはなかなか難しいことなのです。ときには教頭や校長もかり出されます。

誰かが熱を出したり、体調を崩したことが朝に分かると、子どもがくる前にバタバタとこの作業をします。
困った時はもちろんお互い様なのですが、この様子を見ていると、「そう簡単には休めないなあ」と思わされるのです。

ですから、もし自分が出張で学校を開けるときは、事前にこの作業をすることになります。

図工や音楽などの専科の先生の授業を入れてもらったり、他のクラスと一緒に体育をしてもらったり、まあ、1時間くらいは自習でも仕方ないかと諦めて、となりの教室の先生に「ちょっとのぞいてやってください」と頼んだり。

お互いさまなのですが、気を遣います。
小学校教師に取って空き時間は貴重です。
学校によってまちまちかとは思いますが、私の場合で申しますと、一週間に子どもたちの授業は平均28コマ(1コマ45分)あります。
そのうち、私が授業するのはだいたい25コマです。つまり、3コマは専科の先生が授業をしてくれるので、空いていることになります。

この3コマはとても貴重なのです。テストやノートを丸つけたり、プリントを作ったり、休み時間だけではできないことをやる唯一の時間なのですから。

この3コマが潰れるのは痛いです。教師ならみんなそう思っているはずです。でも、同僚が病気なら仕方ありません。

しかし、有給を取って旅行となるとどうでしょう?
自分の貴重な時間を快く差し出すことができるでしょうか?

いや…嫌がられるだろうな…

と誰しもが思うので、誰も有給なんて取りません。

教師の有給休暇(年休と言います)は、消化されずに溜まり、そしていつの間にか消えて行きます。

病院に行く時や自分の子どもが熱を出した時に刻んで数時間ずつ取るくらいです。

あとは、子どもが学校へ来ない夏休みや冬休みに数日取れることがあります。しかし、そんな時期も代休消化で終わってしまうことが多いのが実状です。

休日出勤の研修会やナントカ大会があれば、代休も溜まります。さすがに代休は消化すべく管理職のチェックがあります。

というわけで、毎年、私は3、4日しか有給を使いません。使えません。


さて、ちょっと前段が長くなりましたが、こんな休めない現実を解消するべく、ワークシェアリングを教育現場で考えてみます。

ワークシェアリングとは言うまでもなく、仕事をシェアするだけではありません。給料もシェアすることになります。つまり、ワークシェアリング導入によってコストが上がらないことを目指さなければなりません。そうでなければ、この財政緊縮の時代にどだい実現不可能な言葉遊びになってしまいます。

まず、教師3人の仕事を4人でやることを考えてみます。

もっとも時間が欲しい子育て世代を想定して、既婚30代で年収500万円をモデルにします。
3人で年収合計は1500万円。これを4人でシェアすると、一人分の年収は375万円。
世帯年収が、100万円以上落ちるのはツライですが、共働きなら暮らしていけない額ではないでしょう。シングルインカムでも、工夫次第でなんとかなるかもしれません。

では、仕事量はというと、単純に年間240日働いたと仮定して、3人で720日。これを4人でシェアするのですから、一人あたり180日勤務となります。

一ヶ月平均15日、一週間に3日か4日の勤務となります。

または、きちんと一週間に5日間勤務をすれば、年間9ヶ月間の勤務となります。

週休3日か、長期休暇3ヶ月か。

ワークシェアリングによって、こんな働き方が可能になります。父親の育児参加も、社会人の長期ボランティアも、観光のピークシフトも促進されそうです。

しかし、残る問題もあります。3人の仕事を現実的にどうやって4人で分けるか?という問題です。

まず分かりやすくするために、1学年3クラスの学校を想定します。つまり、1年生ならば、1-1、1-2、1-3があるわけです。普通ならば担任をもつ先生は3人です。

しかし、ここに「学年担任」を1人追加します。この教師はいわば、担任が休んだ代わりにすべての学級に入り、授業をします。

例えば週休3日では、
1-1は月曜日は担任が休み。
1-2は火曜日が担任が休み。
1-3は水曜日が担任が休み。
学年担任は木曜日が休み。
金曜日全員出勤して、来週の打ち合わせ。

こうすれば、3人の仕事を4人でシェアすることが可能です。
もちろん、連絡や引き継ぎをうまくしないと子ども同士のトラブルや保護者対応に問題が出る心配もあります。とはいえ、心配ばかりしていても休みは取れないのです。

別パターンを考えてみます。
長期休暇を取る場合です。

まず、3人のクラス担任と学年担任は、4、5月は全員出勤して児童との人間関係を作ります。

そして6、7月は1-1担任が休みます。1-1の1学期の通知表は学年担任が付けることになります。

8月は全員が現状のようにお盆+αの休みを取ります。

1-2の担任が9、10月を休む。
学年担任は11、12月を休む。
1-3の担任は1、2月を休む。

そして3月は全員で締めくくります。

こうすれば、全員が2ヶ月の長期休暇と8月の休みを取れることになって、ほぼ合計3ヶ月の休みになります。続けての3ヶ月は難しいですが。


というように、理論上はいけますが、実際問題、こんなに担任が休んだり、学年担任が出たり入ったりして、子どもが落ち着いて授業を受けられるか、教師も腰を据えて教材を教えられるのか、ということを考えなくてはいけません。

また当たり前ですが、一学年3クラスの学校ばかりではありません。クラスが少なければ、学年をまたいでワークシェアをすることになると思いますが、それが果たして可能かどうかはやってみなければわかりません。

業務をスリム化し、必要以上の報告書や会議を減らし、教師間の意思疎通や意志統一を図れば、難しいことかもしれませんが、導入の価値はあると私は思います。

もちろん、「休む」=「サボリ」、「休む」=「無気力」のようなイメージが子どもや保護者に持たれないようにすることも大切です。
ワークシェアリングをすることにより、また休むことにより、仕事上、教育上のプラス面があることを伝える必要があります。

多くの教師が子どもたちを見ることができるということ。
教師に精神的余裕が生まれるということ。
子どもたちも多くの教師の授業を経験できるということ。
評価が客観的になること。


どんなことにもメリット・デメリットがあります。

精神的疾患により、療養休暇を取らざるをえない年間5000人以上の現役教師。
産休や育児の後に教職復帰をしたいけれど、完全にフルタイムを独身教師たちと同じようには働けないお母さん先生たち。

そんな人たちのために、ワークシェアリングはきっと有効なはずです。
日本の教育現場にとっても、潰れていく人材や隠れた人材を活かすことができるのです。


バリバリ働いてお金を稼ぎたい。
実績を作ってキャリアアップしたい。

そんな思考の人はまず教師にはならないでしょう。民間企業で、外資系で、貪欲に働くはずです。

教師を目指す人のほとんどがどちらかといえば、冒険や賭けよりも安定や堅実を好むタイプなのではないでしょうか。

だとすれば、教師という職業はワークシェアリングをもってして、自分が息切れすることなく、また少子化社会に食いっぱぐれることなく、むしろ輝きを増して一生の業となるのではないでしょうか。

まず、ワークシェアリング導入試験校を設定し、募集をかけてやってみるべきです。

子育て世代の教師。
体力的に辛くなってきた年配教師。
社会に出て5年前後の「見つめ直し」世代教師。

そんな彼らからの希望が多くあると思うのですが…どうでしょう?


2013年8月19日月曜日

体罰厳罰化で、教師は萎縮するか?

「教育委員会に言ってやるぞ」
「それって体罰じゃん」
「マスコミに言ってやろうか」

そんなセリフで教師に食ってかかってくる子どもはいつの時代にもいたかもしれません。

教師に怒られて腹がたったとき。
あまりの粗暴さに教師がつい手を出してしまったとき。
教師を舐めてかかっているとき。


子どもたちは、困っている大人を見るのが大好きです。普段は、自分たちに次から次へと「あれやれ、これやれ」と指示を出している教師が、次の言葉を継げなかったり、話題を変えて誤魔化したりすると、もう鬼の首を取ったように大騒ぎです。

「ちゃんと答えてよ、大人なんだから」
「だから大人ってずるいよな」
「自分が言い返せなかったら、いつも『うるさい』『だまれ』って」

別に今に始まったことではないでしょう。私もそんな風におもうことがあったような気がしますし、直接親や教師に言うようなときもあったかもしれません。

しかし、今は状況が違います。何の状況が違うのかというと、教師の権威と社会のセーフティネットの状況です。

教師の権威なんて、もうすっかり地に落ちました。カラ出張にカラ出勤、淫行に飲酒運転など数々の不祥事が繰り返されたことに加え、大学へ入るのも教員免許状を取得するのも難しい時代ではなくなったからです。

そして社会のあらゆるセーフティネットが強化されつつあることも見逃せません。

労働条件、労働環境、生活保護、いじめ防止、DV対策など、数え上げればキリがないほど、社会のセーフティネットは強化されてきました。

これはダメ。
ここまでは○、ここからは×。
これは実は犯罪である。

世の中の人間関係のルールが明確化されたのです。セーフティネットとはそんな安全網だと私は考えています。

グローバル化の結果かもしれませんし、IT化の賜物かもしれません。

良い言い方ではありませんが、「なあなあで済ます」ということが許されない時代になったのです。

経営者と雇用者で考えてみれば、かつての
「悪い、申し訳ないけど、今日はちょっと残業してこの仕事を仕上げてくれ」
というようなことが、通用しにくくなってしまっているのです。

「まあ、社長のいうことならしゃあないな」
と、受け止められていたものが、
「それは業務命令ですか?」
と、返されてしまうようになったのです。

教師が
「バカやろう!廊下に出ろ!」
と、怒ったら、かつては
「すみません、もうしません」
とその場で反省の態度を表していたところを今では、
「僕はバカと言われた。バカは廊下に出させられるんだ」と家に帰って漏らし、体罰の問題へと発展するのです。

義理や情け、しごき、叱咤、そんな行動や関係は、すべて基準や契約や条文といった明瞭なものによって線を引かれるようになったのです。

よって、
「あの先生が廊下に立たせたのなら、仕方ない」ということは存在せず、「どの先生でも廊下にたたせてはいけない」ということになったのです。

先だって体罰の事件がどんどんと明るみに出たとき、「ときに体罰があってもいい」という容認派の人たちがかなりいました。

その人たちは、決して体罰を推奨していたわけではなく、ただ自分が悪いことをしたときに本気で怒ってもらったことのありがたさを覚えているだけだと思うのです。

自分に向かう大人の怒気を。
頬を打たれた手のひらの熱さを。
自分をにらみながらも、うるんでいた瞳を。

覚えているんだと思います。


私もそうです。
自分を本気で起こってくれた先生のことは今でも好きです。顔を真っ赤にして、勢い余ってメガネがずれ落ちるほどの勢いで私を叱ってくれました。

子どもは、よく分かっています。
大人が本気で怒っているか、それとも立場上形式的に怒っているかを。

叱り方にはテクニックがいるそうです。子育て本にも、教師向けのノウハウ本にもそう書いてあります。

しかし、私の浅い教師経験で言わせてもらえば、テクニックより何より、気持ちです。
教師自身が、
「どうでもいいことだけど」
「面倒だな」
「一応、言わなきゃな」
くらいの気持ちで叱る、怒るをしても、子どもには全く染み込んでいきません。

人間は形式には形式で返すものなのです。

「すみませんでした」
「次からはもうしません」
「気をつけます」
そんなセリフが子どもたちからスラスラと出てきます。セリフだけが。まるで、台本を読むかのように。

毎度毎度、全身全霊で叱ったり怒ったりする必要はないと思うのですが、テクニックより何より、「自分はこれだけ怒っている」という気持ちを教師がどれだけ見せられるか、が大事なのではと今の私は考えています。

怒ったあとにヒザに乗せろだとか、叱ったあとに抱きしめろだとか、帰る前に「あなたのことを考えて叱ったんだよ」と言えだとか、そんなもの形だけやっても子どもが鼻白むだけです。


だからと言って、怒っていることを伝えるために殴るわけでもありませんし、蹴り飛ばすわけでもありません。ただ、廊下に引きずり出したり、大声を出して怒ったりはします。

もし、子どもや保護者が訴えれば、きっと私は無傷では済まないはずです。懲戒の範囲を超えて、体罰と認定される行為をしているかもしれません。

他の児童に被害が及ぶ場合、これを許すとクラスの秩序が守れない場合、私は覚悟を決めて、問題行動を止めにかかることにしています。

どんな覚悟かといえば、そう、
「こっちも無傷じゃ済まないかもな」という覚悟です。もちろん、その傷とは流血のことではなく、職のことです。

勢い余って、その子はケガをするかもしれません。私が思い切り握った手首に痕が残るかもしれません。こっちが冷静さを失うかもしれません。
そうなれば、親御さんが学校や教育委員会に訴えることになるかもしれませんし、見ていた子どもたちも私の行動を問題視するかもしれません。

でも、私は「ここは体を張ってでも、全力で怒鳴っても、その子を引きずり回しても、今、止めなければならない、やめさせなければならない」とき、そんな覚悟を持って行動します。

働いていれば、「この判断が間違ってたら、大損害だな。クビかもな」という決断をしなければならないときが誰にだってあるはずです。

ところが、基本的に犯罪を犯さない限り免職のない教師は、仕事を失うかもしれないという状況に免疫がありません。
だからこそ、「教育委員会に訴えるぞ」だの、「マスコミに言うぞ」だの、そんな脅し文句に怯えるのかもしれません。また、子どもたちも調子に乗るのかもしれません。

野球がヘタクソだから殴る。
やる気が見られないから蹴る。
それは厳罰に処すべきです。

しかし、
暴れている子を廊下に引きずりだす。
執拗にいじめ行為をする子を恫喝する。
それは、教師は全力で、本気で、大人を見せるときだと思うのです。

私は萎縮なんて絶対にしたくはありません。たとえ世の中が教師の行動に厳しくなろうが、処罰が厳しくなろうが、ならぬものはならぬと言わなければならないし、子どもたちには働くことはこういうことだという姿を見せねばならないと思うのです。

子どもが思いつくようなからかいや、揚げ足取りになんてびくともせずに。


教師のみなさん、まあ、教師をクビになっても命までは取られません。職だって選り好みしなければ、きっとなんとかなるでしょう。

真面目に授業を受けている子のために、学校が楽しいと言ってくれる子のために、少しでも今より成長しようと努力する子のために、本気で怒るときは本気でいきましょう。

かつて、顔を真っ赤にしながらメガネをふり落としてでも私をしかってくれた先生のように。