最近の自分の投稿を振り返ってみると、あまり勉強を教えるという仕事について書いていないことに気がついたので、今回は、使い古された言葉ではありますが、スモールステップについて考えてみようと思います。
スモールステップとは、ずいぶん昔から言われていることですが、要するにいきなり頂上を目指さずに、まずは一合目にたどり着くことを目標にしましょう、という考え方で、「小さな階段」「低い階段」を意味しています。
挫折や無力感、放棄や間違った習得を防ぐために有効だと言われています。
プログラム学習から始まったとか、ディズニーの研修で取り入れられているとか、特別支援教育の基本だとか、教育現場にいれば必ず耳にする言葉でしょう。
教師も一年に一度、4月の最初に「学級経営方針」なるものを書くのですが、そのときにこの「スモールステップ」という言葉を使う教師は多いです。
小さな成功体験を数多く積ませたい。
自信をつけさせたい。
「できた」という喜びを味わってほしい。
そんな意図で、スモールステップという言葉は使われているのです。
しかし、です。
いったい何をすれば、スモールステップだと言えるのでしょう?
最近の算数の教科書を見たことがあるでしょうか?
算数の教科書は、スモールステップの連続で作られています。教師が考える余地がないくらいに、一つの考え方を教えることが小刻みに刻まれているのです。
概数の教科書を見てみましょう。
まずは、「184は100と200のどちらに近いか?」というようなことから入ります。
次に、四捨五入を習います。
そして、184を十の位までの概数にせよ、という問題の解き方を習います。
教科書は、概数を教えるのに、それだけ例題をあらかじめ刻んでいます。そう、つまり
教科書の作りがもう既にスモールステップになっているのです。
であるならば、「教師はスモールステップを意識せよ」というとき、結局何をすれば良いかというと、愚直に教科書通りに教えること以外にありません。
時間がないからと、行事が立て込んでいるからと急いでやるなよ、飛ばすなよ、ということです。
なんだ、大層なカタカナ用語を使っておきながら、中身はそれか、とがっかりする前に知ってほしいことがあります。
それは、教えることはスモールステップの半分でしかない、ということです。
スモールステップの残り半分は教えることではありません。
それは、評価することです。
私は常々、小学校のスモールステップは教える方はスモールステップでも、評価がスモールステップになっていないと感じています。
もちろん、私の周りだけかもしれませんし、広く日本には教えることも評価することもスモールステップを実現できている先生や学校もあるかもしれません。
教えることも小刻みならば、評価することも、つまりテストも小刻みにならなければ、スモールステップはやりっぱなしになってしまいます。
テストを細かくやれば、子どもたちが躓いた箇所がピンポイントで分かるのに、教師は多くの場合、子どもたちの躓きに気づいていないことが多いような気がします。(自戒を含めて)
毎時間ノートを集めてチェックする。
授業の初めは小テストを行う。
それができれば理想です。
でも、なかなかできません。
授業中も見て回りますが、完璧にはできません。
恥ずかしながらながら、ノートを集めてもチェックできずに子どもたちに返したり、機械的に丸を付けただけだったり、ということが私は少なくありません。
日々の小テストとノートチェック。
これができれば、小学校のスモールステップは、ほぼ完全な形になるはずです。
小テストをできるだけ作っているつもりなのですが、まだまだ少ないと感じています。
ノートに問題を解くより、小さくともテストという形をとった一枚の紙に解くほうが子どもたちのやる気は上がります。本気度は変わります。だから、私は小テストって大事だなぁとやるたびに思います。
そして、
「小テストは悪くても通知票に関係ないから、リラックスして解いてごらん」
などと、付け加えて、緊張ではなく集中を促したいとも思っています。
「テスト」と聞くだけでイヤになる子も多いですから。
ま、言うだけは立派かもしれませんが、こんなことが私はなかなかできていないのです。
思っているだけで。
目下のところ、スモールステップって何をするのか?と言えば、小テストをできるだけたくさんやること!と言ってもいいとさえ私は思っています。
明日は、ちょっと久々に朝、学校に着いたら、小テストを作ることにします。言うことだけは一人前、なんて言われないために。