2015年1月30日金曜日

スモールステップとは結局、何をすることなのか?

最近の自分の投稿を振り返ってみると、あまり勉強を教えるという仕事について書いていないことに気がついたので、今回は、使い古された言葉ではありますが、スモールステップについて考えてみようと思います。

スモールステップとは、ずいぶん昔から言われていることですが、要するにいきなり頂上を目指さずに、まずは一合目にたどり着くことを目標にしましょう、という考え方で、「小さな階段」「低い階段」を意味しています。

挫折や無力感、放棄や間違った習得を防ぐために有効だと言われています。

プログラム学習から始まったとか、ディズニーの研修で取り入れられているとか、特別支援教育の基本だとか、教育現場にいれば必ず耳にする言葉でしょう。

教師も一年に一度、4月の最初に「学級経営方針」なるものを書くのですが、そのときにこの「スモールステップ」という言葉を使う教師は多いです。

小さな成功体験を数多く積ませたい。
自信をつけさせたい。
「できた」という喜びを味わってほしい。

そんな意図で、スモールステップという言葉は使われているのです。

しかし、です。
いったい何をすれば、スモールステップだと言えるのでしょう?

最近の算数の教科書を見たことがあるでしょうか?

算数の教科書は、スモールステップの連続で作られています。教師が考える余地がないくらいに、一つの考え方を教えることが小刻みに刻まれているのです。

概数の教科書を見てみましょう。

まずは、「184は100と200のどちらに近いか?」というようなことから入ります。

次に、四捨五入を習います。

そして、184を十の位までの概数にせよ、という問題の解き方を習います。

教科書は、概数を教えるのに、それだけ例題をあらかじめ刻んでいます。そう、つまり
教科書の作りがもう既にスモールステップになっているのです。

であるならば、「教師はスモールステップを意識せよ」というとき、結局何をすれば良いかというと、愚直に教科書通りに教えること以外にありません。

時間がないからと、行事が立て込んでいるからと急いでやるなよ、飛ばすなよ、ということです。

なんだ、大層なカタカナ用語を使っておきながら、中身はそれか、とがっかりする前に知ってほしいことがあります。

それは、教えることはスモールステップの半分でしかない、ということです。

スモールステップの残り半分は教えることではありません。

それは、評価することです。

私は常々、小学校のスモールステップは教える方はスモールステップでも、評価がスモールステップになっていないと感じています。

もちろん、私の周りだけかもしれませんし、広く日本には教えることも評価することもスモールステップを実現できている先生や学校もあるかもしれません。

教えることも小刻みならば、評価することも、つまりテストも小刻みにならなければ、スモールステップはやりっぱなしになってしまいます。

テストを細かくやれば、子どもたちが躓いた箇所がピンポイントで分かるのに、教師は多くの場合、子どもたちの躓きに気づいていないことが多いような気がします。(自戒を含めて)

毎時間ノートを集めてチェックする。
授業の初めは小テストを行う。

それができれば理想です。
でも、なかなかできません。
授業中も見て回りますが、完璧にはできません。

恥ずかしながらながら、ノートを集めてもチェックできずに子どもたちに返したり、機械的に丸を付けただけだったり、ということが私は少なくありません。

日々の小テストとノートチェック。

これができれば、小学校のスモールステップは、ほぼ完全な形になるはずです。

小テストをできるだけ作っているつもりなのですが、まだまだ少ないと感じています。

ノートに問題を解くより、小さくともテストという形をとった一枚の紙に解くほうが子どもたちのやる気は上がります。本気度は変わります。だから、私は小テストって大事だなぁとやるたびに思います。

そして、
「小テストは悪くても通知票に関係ないから、リラックスして解いてごらん」
などと、付け加えて、緊張ではなく集中を促したいとも思っています。
「テスト」と聞くだけでイヤになる子も多いですから。

ま、言うだけは立派かもしれませんが、こんなことが私はなかなかできていないのです。

思っているだけで。

目下のところ、スモールステップって何をするのか?と言えば、小テストをできるだけたくさんやること!と言ってもいいとさえ私は思っています。

明日は、ちょっと久々に朝、学校に着いたら、小テストを作ることにします。言うことだけは一人前、なんて言われないために。

2015年1月22日木曜日

若者はなぜ選挙に行かないのか?


投票率が戦後最低の衆議院議員総選挙が終わりました。フタを開けなくても分かっていたとおり、自民党公明党圧勝です。

ただし、有権者の半分しか投票しない選挙で圧勝なんていう言葉を使うのは変な気がします。

要するに、今回の選挙は固定票勝負でした。経団連やら保守やら愛国やら憂国やらの自民党支持団体と、自称信者1000万人の新興宗教と国交省企業JTBグループという公明党支持団体が、上からの言いつけをきちんと守って投票しました、というだけの選挙です。

固定票のない、分厚い支持団体のない民主や維新は話になりませんでした。

というわけで、やっぱりなぜ人は選挙に行かないのか、という問題に辿り着くのです。

どうせ行っても変わらない、なんて知ったかぶりをしてしまうのはなぜでしょう。

投票しなかった残り半分の人が共産党に投票したら、日本はまるで別の国になるというのに。

ま、それと似たようなことは前々回の民主圧勝選挙で起こったのだけれど、余計に日本は混乱していい思い出がありません。

「人」とひとくくりにしてはいけないのかもしれません。

選挙に行かないのはどうやら若者たちであることがはっきりしています。

テレビの街頭インタビューで若者が答えています。

「選挙にはいきません。友だちも行かないし」
「よくわからないんで、行かないです。」
「行っても大して変わると思えないんで」

これだけ聞くと、日本の若者はなんて無気力無関心なんだ!と世界は愕然とするかもしれません。

しかし、若者は無気力だ!無関心だ!と簡単に切って捨てるわけにはいかない理由が私にはあります。

小学校教師として。
人が多数決を初めて体験する小学校で働く大人として。
人は小学校卒業後8年で選挙権を持つからこそ、若者の投票率の低さは小学校教師にとって人ごとではないのです。

彼ら若者がが自分の意思表示の方法として、権利主張の一手段として、選挙に行くのは遠慮と抵抗があるのではないかと私は考えています。

今の子どもたちは、自分のやりたいこと、したいことに関しては主張をします。ときにぶつかります。

「次の学級会の時間には何がしたいですか?」と聞けば、

ドッジボールがしたい。
ドッヂビーがしたい。
オニごっこしたい。

やりたいことは、どんどん出ます。すると誰かが言います。
「多数決で決めよう!」
「さんせいでーす!」

もちろん、主張をしない子もたくさんいます。しかし、みんな多数決には参加します。それを投票率というならば、投票率はほぼ100%です。

しかし、です。

「クラスの中で何か困っていることはありませんか?」と聞くと、

とたんに、しーーんとなります。

誰かがぼそっと言います。
「いやなことはあるけど、困っているわけじゃない」

また誰かも言います。
「困っているっていうか、できていないことはある」

こっちとしては聞いてみるわけです。
「いやなことってどんなこと?」

すると、多くの場合こんな答えが返ってきます。
「Aさんがからかってくることとか」

「とか?」(私)

「いやなことを言ってくる」

もう一人にも聞いてみます。
「できていないことって?」(私)

「男子がそうじの時間に遊んでることとか」

「とか?」(私)

「みんなが廊下を走っていることとか」

「とか?」(私)

「わすれものが多いこと」

子どもたちはそんな答え方をします。で、結局のところ、「困っているの?」と聞くと、「別に困ってない」と言います。

「でも、いやなことはあるんだよね?できてないことはあるんだよね?どうしたらいい?」と聞いてみると、

「Aさんがやめてくれればそれでいい」
「男子がそうじをちゃんとすればいい」
「廊下を走る人が歩けばいい」
と当たり前ですが、こんな答えが返ってきます。

彼らは暗に言っているのです。
「別にみんなで話すことじゃない。その人がちゃんとすればいいだけの話でしょ。」

いやなことやできていないことをクラス全員で話し合うことを好きな子どもなんていません。

誰だって思い返せば、学級会の話し合いなんてキライだったはずです。

なぜか?

誰かが「さらし者」にされるからです。

さっきの話題で言うと、「Aさんがいやなことを言う」ということにみんなが注目してしまうと、「ほかにありませんか?」と聞くたびに、次から次へとAさんを非難する言葉が並んでしまいます。誰だって、完璧な人間はいませんから。

「そのことを言うなら、あのこともあてはまるかな」
「何か言わなきゃいけないなら、あのことを言おう」
という心理も手伝って、あら探しのようになるでしょう。言いたくないけれど、言わなきゃいけないような空気になるのです。集団心理は恐ろしいです。

こうなったときの空気は本当にイヤです。

Aさんにも悪いところはあるかもしれませんが、みんなでAさんをいじめているかのような空気になります。

私は小学校のときのそんな学級会が本当に、本当にイヤでした。

もちろん、今はそうなる前に私は止めますし、今の日本にそんな学級会をしている教師はいないと思います。

いずれにせよ、多くの子どもたちは「こまっている人」にもなりたくないし、どちらかと言えば「誰かを注意する人」にもなりたくないのです。

子どもたちの考える「困っている人」とは、高齢者であり、障害をかかえた人であり、また仲間はずれにされた人であり、いじめられている人です。

小学校では一年生のときから、老人ホームへ訪問したり、地域の独居老人へ手紙を書いたり、特別支援学校と交流したり、いじめや仲間はずれを扱った道徳教材を繰り返し勉強したり、たくさんの「困っている人」について学習します。

でも、それは多くの子どもたちにとって、自分ではありません。

困っているだれか、です。

自分は困っている人に、なりたくないのです。憐れみを向けられる人になりたくないのです。かわいそうと思われる人になんて、なりたくないのです。
「困っていること」を声高に主張なんてしたくないのです。自分よりも困っている人はたくさんいるし、困っている人になんてなりたくないからです。

子どもたちは、「困っている人」について学習すればするほど、そんな思いを強くしているのかもしれません。

今の政治は、危機感を煽ります。

日本にはこの道しかない!
安倍政権の暴走を止めろ!
戦争をする国にしてはならない!
生活が苦しい!
アベノミクスの影響が中小にはない!

そんな危機感を煽るような言葉と、きっと若者は距離を置きたいのではないですか?
近づきたくないんじゃないですか?
矢継ぎ早にお互いを批判するような政治論争に耳を塞ぎたいんじゃないですか?

だって、かつて嫌いだった学級会みたいじゃないですか。「やりたいこと」「楽しいこと」なんて一つも出てこないじゃないですか。

メディアは困っている人ばかり探し出して、政治のダメな点ばかりを言うじゃないですか。政治がいかにケアできていないかをフォーカスするじゃないですか。集中砲火するじゃないですか。

若者たちはきっと、テレビでそんな「困っている人」を見るたびに、自分はああはなりたくない、と思っているのです。

「自分はなんとか勝ち組にならないまでも、負け組にはなるまい」
「安定した収入を得よう」
と、思っているのかもしれませんし、ひょっとしたら、

「選挙?行かないっす。大して意味あるとも思えないんで」

と、インタビューに笑顔で答える方が楽しそうだと思っているのかもしれません。
そっち側の人間になった方が幸せそうに見えるのかもしれません。「困っている人」から遠ざかることができると思っているのかもしれません。

政治家のみなさん、楽しいことを語りませんか?計画しませんか?提案しませんか?

ヘイトスピーチも、揚げ足取りも、集中砲火も、ヤジも、怒号も、批判も、楽しそうじゃないですよ。

楽しいことを多数決しましょう。そうしないと選挙なんて行きません。

まあ、投票率が上がって組織票率が相対的に下がると困る人はいっぱいいますわな。