2013年5月9日木曜日

道徳の教科化は自殺を防げるか?

自民党案として、道徳を教科へ格上げし、教科書を作り、教師も研修を受けて教えるようにする、というニュースが流れました。

道徳意識の希薄化と同時に、道徳教育の大切さが近年盛んに叫ばれています。

凶悪事件のたびに。
ゆとり教育批判のたびに。
不祥事が起こるたびに。
尖閣・竹島問題のたびに。
自殺のニュースのたびに。

道徳とはそんな問題のあれやこれやを一気に解決できる救世主なのでしょうか。

今、小学校で道徳がどのように行われているかと言えば、まあ、私の行っている道徳の範囲内の話ですが、週に一回、市で定められた教科書を読み、内容について子どもたちに問いかけ、時に思うところを書かせるーそんな授業をしています。
教科書の内容のほとんどは「思いやり」と「自信」を題材にしています。他者の気持ちにどこまで迫れるか、自分のことをいかに好きになれるか、そんな題材で現在の教科書は作られています。それぞれの自治体が地元の教材を載せて作ったものです。

「こうあるべきだ」
「こうあらねばならない」

という「道」が分かりやすく示されているわけではありません。もちろん、「〜することが大切だ」とはっきり書いてあることもありますが、ほとんどは
「あなたはどう考えますか?」
「あなたはどうしようと思いますか?」
と、子どもたちに問い返す内容になっています。

子どもたちはそりゃ答えます。
「いじめは絶対にしちゃいけないと思う」と。
「困ってる人を見たら助けたい」と。
「どんな国の人とも仲良くしなくちゃダメだと思う」と。
「自分たちの命は一人ひとりがかけがえのないものだ」と。

子どもたちは知っているのです。
教師が求める姿を。
親が求める姿を。
世の中が自分に期待している姿を。
道徳的とはどういうことかを。



しかし、です。
その「姿」でいられる子は多くはありません。

子どもたちは気づきません。
ふざけてからかい始めた遊びのような振る舞いがいつの間にかいじめになっていることに。

子どもたちは気づきません。
たとえ困っている人がいても、遊びに夢中になっていると。

子どもたちは気づきません。
となりの国と仲良くするより何より、となりの席の子と仲良くしなければならないことに。

子どもたちは気づきません。
自分を大切にすることとは、お互いを大切にするということだと。

いえ、子どもだけではありません。私たち大人だってそうかもしれません。

道徳の課題はここにあります。
我々は、道徳を理解するには十分に優秀なのですが、道徳を行動するには不十分な生き物なのです。

もちろん、道徳だけではありません。
説明を聞いて「なるほどなるほど」と思ったとしても、いざやってみるとできないことはたくさんあります。算数はそれが顕著です。

しかし、道徳はもっと顕著です。
分かっていてもできないことが多すぎる、それが道徳です。

差別なんて、
イジメなんて、
罵詈雑言なんて、
見て見ぬ振りなんて、
独り占めなんて、
戦争なんて、
ない方がいいに決まっているのです。そんなこと教科書で教えられなくたって、大人も子どももみんな分かっています。
でも、なくならないのです。なくせないのです。気がつくとふっとそれらに加担さえしてしまっているのです。

隣人への思いやりも、
自分への自信も、
相手への敬意も、
家族への愛情も、
日本への愛国心も、
持っていた方がいいに決まっているのです。そんなこと教科書で教えられなくたってなくたって、大人も子どももみんな分かっています。
でも、確認しようがないのです。持っているか持っていないかが見えないからです。しかも自分の持っているものが果たしてそれで十分なのかどうか、だれかと比べようもないのです。

果たしてそんな難しい科目を教科にして、教師は子供たちを評価できるでしょうか?
「わかっている」で評価するのでしょうか?
それとも「できる」で評価するのでしょうか?

子どもが「思いやり」を持っているかどうかは分かりにくいし、「思いやり」を行動で示せる子は極めて少ないのです。

道徳の教科書を作るのはけっこうです。偉大な先人たちのエピソードを集めるのもけっこうです。それで心を打たれる子もきっといるでしょう。

しかし、行動を鍛えるには行動するしかありません。できるようになるにはやってみるしかありません。
たくさんのケーススタディを経験するしかないように思われるのです。

昔ヤンチャしていた人が、今では驚くくらい人格者であるのは、よく聞く話です。ヤンチャしていたときに、たくさんのケーススタディをこなしていたからではないでしょうか?

誰かを悲しませる。
自分が悲しむ。
誰かを傷つける。
自分が傷つく。
モノを壊す。
心を壊す。
そんな行動や、それらから立ち直る過程やフォローする過程で、たくさんのケーススタディをこなしたのです。

やってはいけないと「わかっている」ことをあえてやるのがヤンチャだとすれば、ヤンチャとは行動することなのです。

そこから膨大なエネルギーを使って立ち直った人たちは、逆にやったほうがいいと「わかっている」ことをやるのは、難しくないのかもしれません。そう、やったほうがいいとわかっていることとは、つまり、「思いやり」なのです。

「わかっている」ことを行動で示す。

良い方向ならばそれは思いやりであり、悪い方向ならばそれはヤンチャです。

じゃあ、子どもが全員一時期は非行に走ればいいのかというとそんなことを言うつもりはありません。

小さな頃から思いやりあふれる人を私も何人も知っています。彼ら彼女たちは常に行動できる人でした。私がやった方がいいと思うときにはもうすでに一歩を踏み出しているような人たちでした。

彼らもヤンチャした人たちと同様に、ケーススタディを踏んでいるのです。持ち前の行動力や好奇心を存分に発揮して。きっと、迷惑がられたり疎まれることもたくさんあったはずですが。

サボタージュの非行は簡単です。授業をサボればいい。教科書を出さなければいい。宿題をしなければいい。
〜しなければいい。

同じく、サボタージュの善行も簡単です。迷惑をかけなければいい。和を乱さなければいい。余計なことを言わなければいい。
〜しなければいい。

それは道徳ではないはずです。
行動しなければいけません。

そのケーススタディをどう設計するのか、安倍総理、考えていますか?自民党のみなさん、考えていますか?

行動することを恐れない。
行動することを厭わない。
行動することを評価する。
行動することを楽しむ。

それが、今の日本に必要な道徳教育だと私は思うのです。
行動が孤独を消し、悩みを消し、無力感を消し、そして年間3万人もの自殺を消すと信じています。

ま、自分はこんなブログで理屈をこねているだけなのですが・・・