2012年3月25日日曜日

教育を受けるのか、教材を消費するのか?

行政サービスという言葉がいつからできたのかは知りませんが、今ではすっかり違和感がなくなりました。
最寄りの役所に行っても、「窓口サービス課」なんて表示があったりします。

サービスには必ず消費者という受け手がいます。消費者のことを考えてなされる行為のすべてをサービスと言います。
であるのならば、行政サービスの受けては、その自治体で暮らす人々です。行政サービスに教育も含まれるのであるならば、教育というサービスを受け取るのは、児童ということになります


いつの時代も「官は民を見習え」との声があると思いますが、消費者マーケティングというものがもてはやされてからは、一層拍車がかかるようになりました。おかげで、今や行政の行うすべての事業はサービスです。

教育も例外ではありません。

子供たちは、教育を消費しているのです。

今の子供たちの多くは(こんな言い方ができるほど私の教師歴は長くはありませんが)、新しいものにしか取り組みません。取り組めません。

例を挙げて考えてみます。
今も昔も小学生が使う教材に「ドリル」というものがあります。漢字ドリルや計算ドリルがそうです。ドリルがなぜドリルという名前を冠しているのかと言えば、「繰り返し取り組み、螺旋状に上達していく」という目的があるからでしょう。

繰り返し取り組むものなのです。一度やればそれでいいというものではありません。
しかし、子どもたちの多くは、お手本をもとに繰り返し漢字を書くことや、何度も計算問題を解くことを極度に嫌がります。
「もうやったじゃないか」
「前にやったのに」
というわけです。

もちろん、繰り返し取り組むことは決して楽なことではありません。文句を言わずに取り組む子どもたちにとっても楽しいものではないでしょう。しかし、それでもその繰り返しの中に楽しみを見出したり、辛さやマンネリに耐えて反復練習するものがドリルです。

そんな子どもたちを見ていて思いました。

これはまさに、消費だと。

流行歌のサイクルが速くなり、ファッショントレンドは毎年のようにコロコロ変わり、メーカーの新製品開発期間は恐ろしく短くなったことと別問題ではないと。

歴史は長い目でみれば螺旋のように繰り返すのかもしれません。
しかし、短期的に見れば、時間は未来へ向かって一直線の矢印のように進んでいて、我々のいる現在はまさにその矢印の先っちょにくっついて、次々にまだ見たことにない未来をかき分けて進んでいます。

私たちはそんな時代感覚の中にいるような気がします。無論、子どもたちも。


ここではない、どこかへ。
かつてではない、これからへ。

イノベーション、ソリューションを叫び続けて、私たちは今までにはなかったものを求め続けています。誰かのコピーになることを拒否し、いつかの繰り返しになることを恐れながら。

子どもたちは、授業を消費し、教材を消費し、テストを消費しています。教師からの呼び掛けや、強制がなければ、子どもたちは一度やった問題を見直すことなく、間違えても振り返ることなく、新しい次の何かを求めています。

しかし、私はこの問題を子どもたちだけに押し付けようとしたくはありません。

なぜなら、子どもたちは気に入った本ならば何度でも読み返しますし、好きな遊びは何度やっても飽きません。

繰り返す価値があるのです。

繰り返す耐性がない子どもであっても、価値があれば繰り返すことができるのです。

であるならば、我々教師が価値のある教育を与えているか、という問題に行き着きます。
一度やっただけで、興味を失うような教育を与えてはいないだろうか?
教師自身が「教科書を終わらせなければならない」という意識で教材を消費してはいないか?

我が身を振り返っても、反省するところが多いです。

教師の「とりあえず、やればいい」とでもいうような教科書をこなす姿を見れば、そりゃ子どもたちは教材を消費するでしょう。

もちろん万事が万事、そんなことをしている教師はいないでしょう。
大切なところは、落としちゃいけないところは、熱を込めて繰り返し何度も教え説くものです。

しかし、子どもはよく見ているもので、教師が「流しているところ」を感じ取って「ああ、こんなんでいいのか」なんて思うものです。(みなさんにも、経験があるでしょう)

しかし、どうしてもそんな教え方になってしまう教材もあるんですねえ…前にも書きましたが、学校は何が何でも「時間内に終わらせる」場所ですから。

しかし、「やるときはやる!」「繰り返しが大事だ!」と子どもたちにゲキを飛ばすのです。