2015年7月8日水曜日

授業参観はハレの日か?

私の勤める小学校ではこの前、今年2回目の授業参観が終わりました。

※すみません。書いている途中でサボりました。2回目の授業参観はとっくの前に終わっています。もう、夏休みがやってきます。更新が遅くてすみません※

授業参観は、私も子どもたちも普段よりはどうしても力が入りますから、ときに積極的になり、ときに空回りをします。

思う以上の授業ができるときもあれば、思うようにはいかないときもあります。

が、そのうまくいったり、いかなかったりが普段の授業なので、「いつも通り」を見せる授業参観としては、それでもいいのかもしれません。

問題は、授業参観はどこまで「いつも通り」なのか?

ということです。

教師のみなさん、いかがです?

私の場合、授業参観は、いつも通りでもあり、いつもと違うとも言えます。

それを

「服装」
「教室環境」
「名前の呼び方」
「発表」
「仕込み」

の5つの点で整理してみようと思います。半分は自分のために。もう半分は、同じ教職を選んだ人たちの参考のため、そして、わが子の授業時間での様子が気になる親御さんたちのために。

「服装」

タイトルでも書いたように、授業参観はもうハレの場ではありません。保護者のみなさんもジーパンにTシャツで来られます。ツーピースにパールのネックレスの時代はとっくに終わっていると言っていいでしょう。

もちろん、子どもたちも同様です。授業参観だからと普段はジャージにTシャツの男の子が、チノパンにシャツを着てくる…なんて姿もかつてはあったと聞いていますが、今はありません。

女の子も同様です。
音楽会などの大きな発表の場をのぞけば、男子も女子も「いつも通り」です。

しかし、服装からして「いつも通り」ではない人たちがいます。

そう、教師です。

ひょっとしたら、教師の服装もいつも通りでやろう、という学校もあるかもしれませんし、私はいつも通りだ、という先生も数多くいらっしゃるでしょう。

しかし、多くの教師は普段はジャージなのに授業参観ではスーツを着たり、普段はジーパンにTシャツでも、授業参観にはスカートとシャツを着る、ということをしています。
私の知る限り。

子どもたちは言います。
「先生、きれいな格好してきた〜」
「お母さんたちが来るからってカッコつけてる〜」

授業参観が始まる前には子どもたちのそんなツッコミを浴びることになります。

それを楽しめる子どもたちは、授業参観には普段よりもテンションが上がって、たくさん手を上げたり、手を上げるなんてまどろっこしいことすらままならず、いきなり答えを叫んだりします。

一方、教師がスーツを着ることで、構えてしまう子どもたちもいると思います。もちろんスーツだけのせいではありません。後ろには普段はいない親たちが並んでいるのですから。

教室の前も後ろも「いつも通り」ではありません。

そのくせにスーツを着込んだ教師が

「みんな、いつも通りでいいからね」

なんて言ったりするのです。

そんな子どもたちは、授業参観では手を挙げなくなってしまいます。

普段通りを見せるのが授業参観の理想ではあるけれど、教師が普段通りではないのですから、そもそもそんな理想が間違っていることになります。

いつもと違う状況で張り切る子どもたち、固まってしまう子どもたち、そして変わらない子どもたち、子どもはいろいろです。

「教室環境」

さすがに教室はいつもと同じだろう、と思われる人も多いかと思いますが、やはり授業参観の日は少し違うのです。
「普段は来ない人たちが来る」というだけで、知らず知らず、「普段通り」が変わってしまいます。

まず、掃除。

家だってお客さんが来るときには、いつもよりきれいに掃除するものだと思いますが、学校も似たようなものです。
もちろん、子どもたちの掃除の時間が増えたり長くなったりはしませんので、いつもよりきれいに掃除するのは、教師です。

そして教頭先生や校長先生もいつもよりウロウロウロウロして、汚れているところ、散らかっているところを探しては指摘したりするのです。

また、ベテランの先生も、授業参観で授業のことで頭いっぱいになった若い先生が気が付かないところをフォローします。

雑巾かけに雑巾をきれいに干し直したり、乱れたほうきを整えたり、フックから落ちてしまった子どもたちの手さげかばんなどを、そっと直したりしています。

というわけで、ふだんよりは教室廊下はきれいですし、片付いているのが授業参観です。

そして、掲示物。

授業参観に合わせて作品や新聞を作ったり、習字を書いたりはしませんが、作りっぱなし、書きっぱなっしになっていたものを慌てて教師が掲示するのが、参観日前日や前々日です。

普段から、子どもたちが作るたびに掲示すればいいのですが、壁の上やワイヤーに掲示するとなるとついつい後回しになってしまうものです。

でも、参観日にきたお母さん、お父さんたちは、授業をずっと聞いていることは少なく、自分の子どもが書いた絵が他の子と比べてどうなのか、よく名前を聞くクラスメイトはどんな絵を書いているのか、なども気にされているように思います。

また、授業参観では伝えきれない活動は、この機会に掲示物として少しでも伝えられればいいなと私も思っています。

というわけで、参観日の前々日くらいから、事務室の備品置き場から、画びょうがなくなりがちになります。もちろん、事務員にとってはそんなことは想定の範囲内ですが。

「名前の呼び方」

いつ頃だったか、男女の区別が差別に繋がるとかかんとか、そんな風潮のおかげで男の子も女の子も「〜さん」と呼ぶようになっています。

私は新任の頃はそれが奇妙で奇妙で「〜くん」「〜さん」と呼んでいた時期もあるんですが、慣れとは恐ろしいもので、今は何とも思いません。

「〜さん」と呼んでいます。

普段も、授業参観も。
ま、きつく注意するときは呼び捨てしたりしますが、普段から授業中も休み時間も私は名字で「〜さん」と呼んでいます。
教師によってはこれはいろいろで、下の名前を呼んであげたいと思う教師、一人ひとりにニックネームを付けて呼んであげたい教師…

教師によって違います。何が一番いいのかは分かりません。
私は経験上、子どもたちとは程よい距離があった方がいいタイプの人間だと思っていますので、名字で「〜さん」です。
ひょっとしたら、名前で読んでほしいと思っている子どもたちもいるかもしれません。

というわけなので、私は授業参観になっても名前の呼び方は変わりませんが、普段、下の名前を呼び捨てにしていたり、ニックネームで読んでいる教師は、丁寧に呼ぶ場合もあるかもしれません。
しかし、そんな教師も多くの場合、授業中と休み時間の呼び方を変えているのではないでしょうか。

呼び方の違いが子どもたちに授業中と休み時間のけじめを付けさせるサインとなることもあるでしょう。

参観日だけ丁寧に呼ぶ、なんて教師はたぶん少なくなっているのではないでしょうか。
もっとも昔を思えば、私はそんな先生に担任してもらったこともあり、「先生、今日は丁寧すぎて気持ち悪いなあ」なんて思いながらも、それが授業参観なんだと感じていたフシがあります。

みなさんはいかがでしょう?

「発表」

親御さんたちは、きっと我が子が発表する姿を見たいはずです。すべての問題に元気よく手を挙げなくても、いっかいくらいでいいから…なんて話も聞いたりします。

懇談会で、相談を受けることがあります。

「あの子、いつもは手を挙げて発表してるんですか?」

なんて。

「いつもはもっと手を挙げますよ」
「いや、あのまんまです。あんまり挙げないですね」
と答えたりしています。

ただ、です。

教師は授業参観にたくさん発表の機会があるような授業を選んでいます。

算数ならば、たくさんの復習問題をしたり、例題を解いたり。

国語なら、言葉探しをしたり、体験を尋ねたり。

子どもたちが、自信を持って次々と答えられるように授業を工夫したり、またそういう単元を選びます。

私の経験で言えば、登場人物の気持ちを尋ねたり、作者の最も言いたいことを考えたり、という面白いけれど、様々な答えが考えられるような学習は授業参観には向きません。

もちろん、そんな問題の方がスイッチが入って、説明しまくる子どもたちもいます。
一方で、何を答えたらいいのか悩んだり、間違いを恐れたりするあまりに、全く手を挙げなくなってしまう子どもたちもいます。

多くの子が手を挙げられるように、また、一問一答だけではなく、様々な意見交流もできるように、教師は授業参観の45分の組み立てにはいつも頭を悩ませています。

とはいえ、なかなかプラン通りにはいかないのが授業参観で、子どもたち以上に教師は緊張しています。
子どもたちの手がたくさん挙がればほっとし、手が全く挙がらないときには焦ります。

親御さんたちは我が子を見に来ていることは百も承知です。でも、自分が見られているような気がして仕方ありません。
私は自意識が高いんでしょうか。

「仕込み」

これは、授業参観のために、事前に練習するか?ということです。

前の日に似たような問題を解いたり、似たような文章を読んだりするかというと、私の場合はほとんどしません。

でも、授業の流し方はそれまでにパターン化しておこうと努力しています。

算数で言えば、

まず、前の日の復習。
次に、今日の問題。
そして、練習。

常に、これです。
変化がないので子どもたちは面白くないかもしれません。

でも、授業参観だろうと、これをやるので、なかなか手を挙げて発表する自信のない子も、「前の日の復習」には手を挙げてくれるんじゃないかと思っています。(そうならないときもありますが)

また、授業参観が、発表の場となることがあります。

作文や、音読、グループ発表など。

この時はもちろん練習します。しかし、授業参観のためではなく、発表会のため、です。

ま、とはいえ、その発表会が通常の授業なのか、参観日なのか、は子どもたちだけではなく、教師にとっても大きな違いなので、指導への熱の入り方はどうしても変わるかもしれません。

ただ、何でもそうですが、練習しすぎたり、こなれすぎたりすると、見ている方は面白くありません。

「よく練習したなあ」「よく頑張ってるなあ」とは思っていただけるかもしれませんが、ライブ感がなくなってしまうのです。

多少、まごついたり、もたついたりして当たり前です。それまで一切なくなってしまうと、いくら発表会や参観日だろうと、やっている方も見ている方も、流すだけになってしまうように思います。

練習しすぎず、仕込みすぎず、でもつかませておく。

それが難しいところだと思っています。

さて、だらだら書きましたが、私自身、自分の授業参観をふり返って整理することができました。

授業参観は今もハレの日なのです。
その日のために、教師も子どもたちも何かの努力をしています。

普段通りを心掛けたり、普段以上を目指すハレの日です。

そう、練習通りに力を尽くすスポーツの祭典にように。

書いてみて分かりましたが、私の課題は「教室環境」ですね。

掃除、掲示物、そして自分の机の整理整頓!

これができてなくては、子どもたちの通知表の

「身の回りの整理整頓ができる」

を評価する資格がありません。

次の参観日までには、机を片付けます!

いや…普段から片付けねば…

2015年4月11日土曜日

教師に一番必要な道具とは?

新学期が始まりました。
私も新たな学年で、新たな子どもたちと出会い、新たな学級で新たな一年をスタートしました。教師になって、何回目かの春ですが、この季節はいつも緊張します。ふだんひどい肩こりがなお一層ひどくなります。

さて、ここ最近はなんだか教育にまつわる問題点ばかりを書いていたような気がするので、今回は気楽なことについて書いてみようと思います。

それは、道具です。

プロは道具にこだわる、とよく聞きます。
イメージしやすいところを言えば、

美容師さんならハサミ、
大工さんならカンナ、
デザイナーさんならペン、
営業マンならスケジュール帳、

といったところでしょうか。
私のイメージはあまりにステレオタイプかもしれません。お許しを。

では、教師の道具で「これ!」というものは一体なんなのでしょう?


私が思うに、教師が自分で用意する必要のある一番の道具は、

ストップウォッチ

です。

赤ペンではありません。
たしかに赤ペンにこだわる教師もたくさんいらっしゃると思います。
万年筆だったり、ソフトペンだったり、こだわりのペンで
採点されたら、子どもたちもうれしいかもしれません。


でも、ペンはこだわりがなければ、学校の事務室で用意してくれているものを使えば事足ります。
ストップウォッチは、そうはいきません。

学校には体育で使ったり、体力テストで使うためにいくつかのストップウォッチがあります。しかし、各教室にはありませんし、ましてや教師一人一人にストップウォッチは支給されることはありません。(少なくとも私の務める自治体では)

だから、自分で用意する必要があるのです。

そして、ストップウォッチは、「不意に」必要になるものなのです。
常に必要なものではないかもしれません。
でも、ふとしたときに必要になるのです。


例えば、

100マス計算をさせるとき。
100マスでなくても、「この問題を3分でやって」と言うとき。
ドッジボールをするとき。(時間をはかってやるので)
「隣同士、1分相談!」と言うとき。

これらは毎日のようにあるシーンです。とにかく、小学校教師は子どもたちに時間の区切りを常に意識させています。


年に何回かある場合を考えれば、

運動会のダンス演技の入場から退場までの時間を計るとき。
休んでいた子が50m走を計ってと体育の最後にいきなり言ってきたとき。
校外学習で駅まで歩く時間を計るとき。

など、本当にこちらが用意万端でストップウォッチを持ってなさそうなときに、時間を計らなければならない時がやってくるのです。

だから、私は時計をデジタルに変えました。
個人的には針の腕時計が好きなのですが、今はデジタル時計を使っています。

最初はG-SHOCKを試してみましたが、どうもストップウォッチとして使うには、少しボタンが押しにくいことが分かりました。普段は時計として使うのはもちろん、腕にはめたまま計測がしやすく、タイムを保存しておけるものが必要であると分かってきました。

今、現在、私の教師生活で、一番使いやすいと思っているものが、ランニング用の時計です。

ランニング用の時計は、走りながらでもボタンが押しやすいものが多く、かつ、タイムを50件、100件と保存しておけます。もちろん防水、耐気圧なので、プールのときもはめっぱなしで指導も計測もできます。

ただしランニング用の時計のデザインはあまりにスポーティーなので、普段着にもスーツにも合わないですが、そこは仕方ありません。

でも、そんな不格好を差し引いても、常に自分の腕にストップウォッチがあることは何ものにも代え難い便利さがあるのです。
授業中に必要を感じても、職員室や倉庫に取りにはいけませんし、取りにいくのも億劫です。いつもは必要でなくても、いつも身につけていないと必要な時には使えません。


計算や相談でストップウォッチを使うと、子どもたちを、そんなに時間で縛って、プレッシャーをかけているのかとご批判をいただくかも知れませんが、時間の縛りは子どもたちの集中力ややる気を、一段引き上げます。その集中した時の空気はとても気持ちのよいものです。この集中力はなぜか、教室の時計の秒針で計っては発揮されません。目の前で教師がボタンを押す、そのポーズが必要らしいのです。
(自分の指導力のなさを、ストップウォッチで誤摩化しているのかもしれませんが)


というわけで、この春、教師としてスタートを切ったみなさま、時計をランニング用に買い替えましょう。スマートウォッチが話題の昨今ですが、スマートウォッチは電池が不安です。教師の時計は、ランニング用に限ります。軽くて、丈夫で、見やすくて、押しやすくて、そして高くない。

今回はなんだか宣伝みたいになりました。
時計メーカーのみなさま、学校に営業かけたら、きっと売れますよ、ランニングウォッチ。


2015年1月30日金曜日

スモールステップとは結局、何をすることなのか?

最近の自分の投稿を振り返ってみると、あまり勉強を教えるという仕事について書いていないことに気がついたので、今回は、使い古された言葉ではありますが、スモールステップについて考えてみようと思います。

スモールステップとは、ずいぶん昔から言われていることですが、要するにいきなり頂上を目指さずに、まずは一合目にたどり着くことを目標にしましょう、という考え方で、「小さな階段」「低い階段」を意味しています。

挫折や無力感、放棄や間違った習得を防ぐために有効だと言われています。

プログラム学習から始まったとか、ディズニーの研修で取り入れられているとか、特別支援教育の基本だとか、教育現場にいれば必ず耳にする言葉でしょう。

教師も一年に一度、4月の最初に「学級経営方針」なるものを書くのですが、そのときにこの「スモールステップ」という言葉を使う教師は多いです。

小さな成功体験を数多く積ませたい。
自信をつけさせたい。
「できた」という喜びを味わってほしい。

そんな意図で、スモールステップという言葉は使われているのです。

しかし、です。
いったい何をすれば、スモールステップだと言えるのでしょう?

最近の算数の教科書を見たことがあるでしょうか?

算数の教科書は、スモールステップの連続で作られています。教師が考える余地がないくらいに、一つの考え方を教えることが小刻みに刻まれているのです。

概数の教科書を見てみましょう。

まずは、「184は100と200のどちらに近いか?」というようなことから入ります。

次に、四捨五入を習います。

そして、184を十の位までの概数にせよ、という問題の解き方を習います。

教科書は、概数を教えるのに、それだけ例題をあらかじめ刻んでいます。そう、つまり
教科書の作りがもう既にスモールステップになっているのです。

であるならば、「教師はスモールステップを意識せよ」というとき、結局何をすれば良いかというと、愚直に教科書通りに教えること以外にありません。

時間がないからと、行事が立て込んでいるからと急いでやるなよ、飛ばすなよ、ということです。

なんだ、大層なカタカナ用語を使っておきながら、中身はそれか、とがっかりする前に知ってほしいことがあります。

それは、教えることはスモールステップの半分でしかない、ということです。

スモールステップの残り半分は教えることではありません。

それは、評価することです。

私は常々、小学校のスモールステップは教える方はスモールステップでも、評価がスモールステップになっていないと感じています。

もちろん、私の周りだけかもしれませんし、広く日本には教えることも評価することもスモールステップを実現できている先生や学校もあるかもしれません。

教えることも小刻みならば、評価することも、つまりテストも小刻みにならなければ、スモールステップはやりっぱなしになってしまいます。

テストを細かくやれば、子どもたちが躓いた箇所がピンポイントで分かるのに、教師は多くの場合、子どもたちの躓きに気づいていないことが多いような気がします。(自戒を含めて)

毎時間ノートを集めてチェックする。
授業の初めは小テストを行う。

それができれば理想です。
でも、なかなかできません。
授業中も見て回りますが、完璧にはできません。

恥ずかしながらながら、ノートを集めてもチェックできずに子どもたちに返したり、機械的に丸を付けただけだったり、ということが私は少なくありません。

日々の小テストとノートチェック。

これができれば、小学校のスモールステップは、ほぼ完全な形になるはずです。

小テストをできるだけ作っているつもりなのですが、まだまだ少ないと感じています。

ノートに問題を解くより、小さくともテストという形をとった一枚の紙に解くほうが子どもたちのやる気は上がります。本気度は変わります。だから、私は小テストって大事だなぁとやるたびに思います。

そして、
「小テストは悪くても通知票に関係ないから、リラックスして解いてごらん」
などと、付け加えて、緊張ではなく集中を促したいとも思っています。
「テスト」と聞くだけでイヤになる子も多いですから。

ま、言うだけは立派かもしれませんが、こんなことが私はなかなかできていないのです。

思っているだけで。

目下のところ、スモールステップって何をするのか?と言えば、小テストをできるだけたくさんやること!と言ってもいいとさえ私は思っています。

明日は、ちょっと久々に朝、学校に着いたら、小テストを作ることにします。言うことだけは一人前、なんて言われないために。

2015年1月22日木曜日

若者はなぜ選挙に行かないのか?


投票率が戦後最低の衆議院議員総選挙が終わりました。フタを開けなくても分かっていたとおり、自民党公明党圧勝です。

ただし、有権者の半分しか投票しない選挙で圧勝なんていう言葉を使うのは変な気がします。

要するに、今回の選挙は固定票勝負でした。経団連やら保守やら愛国やら憂国やらの自民党支持団体と、自称信者1000万人の新興宗教と国交省企業JTBグループという公明党支持団体が、上からの言いつけをきちんと守って投票しました、というだけの選挙です。

固定票のない、分厚い支持団体のない民主や維新は話になりませんでした。

というわけで、やっぱりなぜ人は選挙に行かないのか、という問題に辿り着くのです。

どうせ行っても変わらない、なんて知ったかぶりをしてしまうのはなぜでしょう。

投票しなかった残り半分の人が共産党に投票したら、日本はまるで別の国になるというのに。

ま、それと似たようなことは前々回の民主圧勝選挙で起こったのだけれど、余計に日本は混乱していい思い出がありません。

「人」とひとくくりにしてはいけないのかもしれません。

選挙に行かないのはどうやら若者たちであることがはっきりしています。

テレビの街頭インタビューで若者が答えています。

「選挙にはいきません。友だちも行かないし」
「よくわからないんで、行かないです。」
「行っても大して変わると思えないんで」

これだけ聞くと、日本の若者はなんて無気力無関心なんだ!と世界は愕然とするかもしれません。

しかし、若者は無気力だ!無関心だ!と簡単に切って捨てるわけにはいかない理由が私にはあります。

小学校教師として。
人が多数決を初めて体験する小学校で働く大人として。
人は小学校卒業後8年で選挙権を持つからこそ、若者の投票率の低さは小学校教師にとって人ごとではないのです。

彼ら若者がが自分の意思表示の方法として、権利主張の一手段として、選挙に行くのは遠慮と抵抗があるのではないかと私は考えています。

今の子どもたちは、自分のやりたいこと、したいことに関しては主張をします。ときにぶつかります。

「次の学級会の時間には何がしたいですか?」と聞けば、

ドッジボールがしたい。
ドッヂビーがしたい。
オニごっこしたい。

やりたいことは、どんどん出ます。すると誰かが言います。
「多数決で決めよう!」
「さんせいでーす!」

もちろん、主張をしない子もたくさんいます。しかし、みんな多数決には参加します。それを投票率というならば、投票率はほぼ100%です。

しかし、です。

「クラスの中で何か困っていることはありませんか?」と聞くと、

とたんに、しーーんとなります。

誰かがぼそっと言います。
「いやなことはあるけど、困っているわけじゃない」

また誰かも言います。
「困っているっていうか、できていないことはある」

こっちとしては聞いてみるわけです。
「いやなことってどんなこと?」

すると、多くの場合こんな答えが返ってきます。
「Aさんがからかってくることとか」

「とか?」(私)

「いやなことを言ってくる」

もう一人にも聞いてみます。
「できていないことって?」(私)

「男子がそうじの時間に遊んでることとか」

「とか?」(私)

「みんなが廊下を走っていることとか」

「とか?」(私)

「わすれものが多いこと」

子どもたちはそんな答え方をします。で、結局のところ、「困っているの?」と聞くと、「別に困ってない」と言います。

「でも、いやなことはあるんだよね?できてないことはあるんだよね?どうしたらいい?」と聞いてみると、

「Aさんがやめてくれればそれでいい」
「男子がそうじをちゃんとすればいい」
「廊下を走る人が歩けばいい」
と当たり前ですが、こんな答えが返ってきます。

彼らは暗に言っているのです。
「別にみんなで話すことじゃない。その人がちゃんとすればいいだけの話でしょ。」

いやなことやできていないことをクラス全員で話し合うことを好きな子どもなんていません。

誰だって思い返せば、学級会の話し合いなんてキライだったはずです。

なぜか?

誰かが「さらし者」にされるからです。

さっきの話題で言うと、「Aさんがいやなことを言う」ということにみんなが注目してしまうと、「ほかにありませんか?」と聞くたびに、次から次へとAさんを非難する言葉が並んでしまいます。誰だって、完璧な人間はいませんから。

「そのことを言うなら、あのこともあてはまるかな」
「何か言わなきゃいけないなら、あのことを言おう」
という心理も手伝って、あら探しのようになるでしょう。言いたくないけれど、言わなきゃいけないような空気になるのです。集団心理は恐ろしいです。

こうなったときの空気は本当にイヤです。

Aさんにも悪いところはあるかもしれませんが、みんなでAさんをいじめているかのような空気になります。

私は小学校のときのそんな学級会が本当に、本当にイヤでした。

もちろん、今はそうなる前に私は止めますし、今の日本にそんな学級会をしている教師はいないと思います。

いずれにせよ、多くの子どもたちは「こまっている人」にもなりたくないし、どちらかと言えば「誰かを注意する人」にもなりたくないのです。

子どもたちの考える「困っている人」とは、高齢者であり、障害をかかえた人であり、また仲間はずれにされた人であり、いじめられている人です。

小学校では一年生のときから、老人ホームへ訪問したり、地域の独居老人へ手紙を書いたり、特別支援学校と交流したり、いじめや仲間はずれを扱った道徳教材を繰り返し勉強したり、たくさんの「困っている人」について学習します。

でも、それは多くの子どもたちにとって、自分ではありません。

困っているだれか、です。

自分は困っている人に、なりたくないのです。憐れみを向けられる人になりたくないのです。かわいそうと思われる人になんて、なりたくないのです。
「困っていること」を声高に主張なんてしたくないのです。自分よりも困っている人はたくさんいるし、困っている人になんてなりたくないからです。

子どもたちは、「困っている人」について学習すればするほど、そんな思いを強くしているのかもしれません。

今の政治は、危機感を煽ります。

日本にはこの道しかない!
安倍政権の暴走を止めろ!
戦争をする国にしてはならない!
生活が苦しい!
アベノミクスの影響が中小にはない!

そんな危機感を煽るような言葉と、きっと若者は距離を置きたいのではないですか?
近づきたくないんじゃないですか?
矢継ぎ早にお互いを批判するような政治論争に耳を塞ぎたいんじゃないですか?

だって、かつて嫌いだった学級会みたいじゃないですか。「やりたいこと」「楽しいこと」なんて一つも出てこないじゃないですか。

メディアは困っている人ばかり探し出して、政治のダメな点ばかりを言うじゃないですか。政治がいかにケアできていないかをフォーカスするじゃないですか。集中砲火するじゃないですか。

若者たちはきっと、テレビでそんな「困っている人」を見るたびに、自分はああはなりたくない、と思っているのです。

「自分はなんとか勝ち組にならないまでも、負け組にはなるまい」
「安定した収入を得よう」
と、思っているのかもしれませんし、ひょっとしたら、

「選挙?行かないっす。大して意味あるとも思えないんで」

と、インタビューに笑顔で答える方が楽しそうだと思っているのかもしれません。
そっち側の人間になった方が幸せそうに見えるのかもしれません。「困っている人」から遠ざかることができると思っているのかもしれません。

政治家のみなさん、楽しいことを語りませんか?計画しませんか?提案しませんか?

ヘイトスピーチも、揚げ足取りも、集中砲火も、ヤジも、怒号も、批判も、楽しそうじゃないですよ。

楽しいことを多数決しましょう。そうしないと選挙なんて行きません。

まあ、投票率が上がって組織票率が相対的に下がると困る人はいっぱいいますわな。

2014年11月7日金曜日

一学級は何人であるべきか?

お先日のニュースでは文科省と財務省のバトルが報道されていました。

小学一年生の35人学級を維持するには、教師確保に年間84億円かかり、35人学級にしても40人学級時代といじめ発生率は変わらないことを根拠に、35人学級を打ち切りたい財務省。

1クラスの人数は少ないほど教育効果は高いと教育関係者は誰もが認めるとし、いじめ発生率の微増は教師の意識の高まりに他ならないと主張して教員増を求める文科省。

たった5人枠でなんでそんなにモメるんだ?

と思う人も多いかもしれません。

自分のクラスが34人だろうと、38人だろうと、そんなに何も変わらなかった、と昔を思う人もたくさんいるでしょう。

しかし、この5人枠は大きな違いを産みます。

自分の学校の話をします。

1学年、だいたい140〜150人くらいの学校に勤めています。

つまり、小学校6学年あれば、全部で900人くらいの子どもがいます。

もし、35人学級だったら。

1クラスを35人以下に抑えるためには、140人を

28人✕5クラス

に分けます。というわけで、たいてい一年生は5クラスです。

では、35人学級が適用されない6年生になると、同じ150人でも

35人✕4クラス

となります。

1クラスあたりの子どもの数の差は5人よりも大きくなります。

たかが7人ではありません。
7人違えば、忙しさは全然違います。

毎日の宿題の丸付けから、テストの採点、ノートのチェック、成績表の作成といった子ども一人ひとりに対する仕事はもちろん時間を取られます。

私は最も少ない時で28人、最も多い時で38人を経験していますが、10人違えばまるで違う職業のように感じられるくらいです。

28人が余裕があって、ヒマでラクだと言っているわけではありません。今の日本にヒマでラクな仕事などないでしょう。

28人のときは、「あの子、分かってないな」とか、「あの子、なんか変だな」ということに気づきやすかったように思います。しかし、毎年、子どもも学年も違うので、きちんと比較できるわけではありません。

ノートや宿題は明らかに丁寧にチェックしていましたが。

35人学級を導入してから、いじめの発生率が微増しているのは、教師の意識の高まりだと下村大臣は言いましたが、私は少し違うと思います。

変わったのは「いじめの定義が認知されたこと」です。

「いじめとは、いじめられた方がそれをいじめと捉えたら、いじめである」という定義が完全に学校現場や家庭に根付いたのがここ最近です。私の感覚で言うと、ここ4〜5年といったところでしょうか。

ぞれまでは、いじめられる方にも原因がある、なんて理屈こそ既に聞かれなくなっていたものの、学校現場は「いじめ」の三文字を使うことにひどく怯え、「いやがらせ」だの「つらい思い」だの似たような曖昧な表現で回避していたように思います。

また、大津の事件依頼、文科省や教育委員会の取り組みも変わりました。

年に1回、いじめアンケートなるものを実施します。「いやな思いをしてませんか?」「そんな友だちを知りませんか?」と子どもたちに聞くアンケートです。そりゃ、報告に上がるいじめ件数は増えて当たり前です。文科省の主張はもっともです。
35人学級と同列で論じる話ではありません。

そして、学年ごとに振り分けられる仕事も教師が5人いれば5分割ですが、4人ならば4分割です。
クラス担任としての仕事以外の学年としての仕事の総量を100とするならば、それが20になるか25になるかは大きな差です。

また全学年で35人学級が実現できれば、学校全体で教師は最大6人増えるかもしれません。

これは、事務仕事や報告書作成においては、確実に一人あたりの負荷を小さくしてくれます。
トラブルが起きた時の対応の速さも細かさも違ってくるでしょう。

私の学校で言えば、教師が約50人いますが、もし55人になれば「あの担当はもう一人いるな」という所がいくつかあるので、大助かりです。生徒指導とか、体育とか、情報とかね。

ただし。
ただし、です。

財務省の言うとおり、予算がないならば、人員は増やせません。教師は公務員ですから、赤字を垂れ流して教師を増やすことに世論が両手を上げて賛成することはないでしょう。

教師は言います。

教育は、国の根幹だ。
子どもは国の宝だ。
国づくりは人づくりだ。

早い話が、

ビルより教育だ。
戦車より教育だ。
道路より教育だ。

というわけです。

教育にケチる国に将来はない、とでも言わんばかりに。
でも、財務省は厳密に言えば、教育にケチっているわけではありません。教育にかかる人件費をケチっているのです。教科書や黒板や机をケチっているわけではありません。

人を削るより、

無駄な工事を減らせ!
無駄な事業を減らせ!

とも、教師は言います。

しかし誰にとっても無駄な事業なんてあるんでしょうか?
そこでなにかの仕事が生まれ、誰かの収入に繋がっているのに。

だから、逆に言われているのです。

一人で子ども40人くらい面倒みろよ、と。
経費圧縮に一番効果があるのは、人件費なんだと。
人を増やすより先に1人ひとりの守備範囲を広げろよ、と。
お前らの人件費のために借金を背負うのは目の前の教え子だぞ、と。

手厳しい…

みなさんは、財務省と文科省の言い合いをどう見ていますか?

どっちの言い分が時代に合っているのでしょう?

私は1クラスあたりの児童数は、40人までなら何人でもいいです。でも40を超えると、机が教室に入りません。物理的には入りますが、暮らせません。なので、35人学級にこだわりません。

おいおい、さっきと言ってることが違うじゃないか。

と、思った方。
続きがあるのです。

小学校が35人学級にこだわると、人件費だけでなく、ハードにも莫大な費用が必要です。

教室です。

今、住宅地の小学校では校庭を潰してプレハブを建てています。児童数が増え、また各自治体が独自に少人数クラスを目指しているからです。

これは子どもを不幸にします。
何せ児童数は多いのに、運動場が狭くなるのですから。

だから、35人学級にこだわってクラスの数を増やしてはいけません。1クラス40人でもいいのです。
プレハブは、財政にも子どもにも不幸でしかありません。

しかし、教師は学年に

クラス数+1

配置しましょう。

クラスを増やさず、教師を増やすのです。

なんだ、結局、教師を増やせと言うのか、と思われるかもしれません。

しかし、このクラス担任ではない+1の教師がいれば、現場は全く違うでしょう。

問題行動の対応が授業を潰さず、自習にせずにできます。

担任が出張しても、困りません。

授業についていけない子どものフォローができます。

昼間に保護者対応ができます。

授業中に宿題チェックができます。

担任でないからこそ、子どものためにできることが山ほどあります。

35人学級にしてクラス担任をふやしていてはできないことが、40人学級にして+1でできるのです。

しかも、プレハブを減らせます。
人件費はかかりますが、総経費は35人学級より安上がりです。

どうです?文科省のみなさん。
どうです?財務省のみなさん。

ぜひ、検討していただきたいのですが、このブログまで辿りついてくれますかね…