2014年3月21日金曜日

教師はなぜ足並みを揃えたがるのか?

今年の三学期は目の回るような忙しさでゆっくりとブログを書く気になれませんでした。

しかし、こんな貧相なブログでも毎日いくつかのアクセスをいただいています。ありがとうございます。
なんとか、年度末までに更新したいと思い、「足並みを揃える」について考えてみます。


先日、私の勤務する小学校でこんなことがありました。


とあるクラスが表彰を受けたのです。
自分たちで育てた野菜の成長を追い、また日本の農業の問題を大判のレポートにまとめたことで。

よくある話です。

いろいろな企業や団体、役所が小学校にいろいろなコンテストの案内を送ってきます。そのコンテストも、どこかの農協かNPOが主催していました。

もちろん、応募したのはそのクラスではなく、学年の他のクラスもです。ただし、入賞したのがそのクラスただ一つだったのです。

それは仕方ありません。

私はそう思いました。
しかし、そうは思わない先生たちもいました。

「なぜ、クラス単位で応募したのか?学校単位で応募すればこんなことにはならなかったんじゃないか?」
「ページ数や出来栄えを差が出ないようにある程度、揃えたのか?」

そんな意見が聞こえてきました。

頑張ったクラスを褒めるより先に、まるで表彰を受けたことが面倒臭いことであるかのようでした。

言い分は分からないでもありません。

学年全体で取り組んだものなのに、クラスごとで応募すれば差が出てしまい、子どもたちの士気に大きく影響するからです。表彰されたクラスとされなかったクラスでは、自信の持ち様がそれ以後も変わってくるでしょう。

しかし、それがクラスというものだと言えば、それまでのことです。表彰されてもされなくても、それはクラスの根幹に関わることではありません。

教師が恐れるのは本当は子どもたちの士気なんぞではないのです。

それは、もちろん、自分たちの指導力です。

外部のコンテストやコンクールほど指導力の差が分かりやすいものはありません。

作文や絵画、そしてクラス全体で取り組む調べ学習や発表、運動などは、てきめんに指導力の差が出ます。集団の力ならば子どもの能力に差などほとんどありません。あるのは、指導力の差です。

スポーツクラブや各種教室を考えれば、あたりまえのことかもしれません。

しかし、公教育で、同じ学校内で、そんな指導力の差が現前することはしばしば問題となります。

指導力の差は、子どもの教師を見る目の差であり、保護者が教師を見る目の差であるからです。
普段は、指導力の差は分かりにくいものです。
「あの先生はいい」とか「あの先生はダメ」だとか、それは合う合わないの問題でもあり、好き嫌いの範疇でもあるからです。
また、子ども同士の組み合わせによってもクラスの雰囲気は大きく変わるので、一概に教師の差と言えない場合がほとんどです。

しかし、コンテストやコンクールは、その普段は見えにくい教師の差を分かりやすく浮かび上がらせてしまうのです。
もちろん、表彰されたクラスの教師に指導力があるとは必ずしも言えないでしょう。しかし、子どもや保護者たちは、教師の差をどうしても意識してしまうようです。

それが、一部の教師たちへの批判につながらぬように、教師は一丸となって足並みを揃えるのです。

コンテストやコンクールへの応募はもちろん、絵の書き方や作文の指導の仕方まで。
「差が出ては子どもたちが悲しい思いをする」という大義名分で。
実際は教師の差が出ては、教師が辛いので。

私の勤務する学校では毎年の秋の作品展で、絵画や立体作品を展示する時には、名札にクラスを書かないのは当たり前、クラスごとにまとめた展示もしません。
パッと見ただけではクラスごとの作品の差が分からないようになっているのです。

恥ずかしながら、私などの指導がいいかげんな教師はそれでずいぶん助けられています。

保護者からは、我が子の作品を見つけにくいと毎年のようにご意見をいたただきますが、きっと今後もこんな展示が変わることはないでしょう。


保護者に望むことは、分かりやすい差だけを見ないでください、ということです。

保護者の目を気にする教師は、そんな対外的な発表の場や作品に注力するあまり、子どもを押さえつけたり、型にはめようとすることになりがちです。そんなクラスはまとまっているように見えますし、目立った問題はあまり起きません。
しかし、子どもたちは大人の顔色を窺った行動ばかりをするようになったり、「いい子ちゃん」の姿のみを見せるようになったりします。つまり、子どもたちが抱える鬱屈は強くなり、影での教師批判や後々の教師批判は一層強く出ることにつながります。

ですから、保護者の方にはぜひ、教師の分かりやすい差ではなく、
「我が子が笑顔で学校に行っているか」
「家に帰ってきて『疲れた』ではなく、『楽しかった』と言うか」
を気にしてほしいのです。

たとえ、学級通信の発行が少なくても、クラスが表彰されなくても、我が子が「行ってきます!」と元気に学校へ行き、「楽しかった!」と帰ってくるのなら、きっとその先生は素晴らしい先生です。
当たり前のことと思われる方もいるかもしれませんが、一番大事なことです。

いくら毎日のように学級通信が出ても、クラスが表彰をされても、作品展が素晴らしくても、我が子が朝に「学校に行くのやだな」と呟いたり、「つかれた」と言うことが多いなら、じっくりと子どもの話を聞いてあげるべきだと思います。

話が少し逸れました。
教師はそれぞれ「こんなクラスにしたい!」という思いがあります。しかし「足並みを揃える」ためにやめなければならないことや、反対にやらなければならないことがあります。
保護者の目を気にするからです。分かりやすい差が出るのを気にするからです。

でも、各教師の思いを大切にした方が、熱も入るし、面白くもなると私は思います。教師の指導力の差ではなく、指導の差を保護者だけではなく、社会も受け入れてくれたら学校はもっと楽しいものになるんじゃないかと思います。

もちろん、教師たち自身の嫉妬ややっかみの方が障壁になっているのかもしれませんが。


2013年12月28日土曜日

教師はなぜ自宅から年賀状を送らないのか?

今年も年賀状の季節が来ました。
クラスの子どもたちのためにせっせと書いている先生方もきっとたくさんおられることでしょう。

私も通知表と事務処理が終わるこの年末ギリギリから、子どもたちへの年賀状を書き始めます。

別に書かなくてもいいのですが、普段、頻繁に学級通信を出したり、きめ細やかな対応ができていない身としては、年賀状くらいは出してお茶を濁そうというわけです。

「明けましておめでとうございます」と書いてもいいのですが、私はいつも学級通信の一つとして新年の挨拶は抜いています。別に信念があるわけではなく、ただ、なんとなくです。
「宿題は順調ですか?」というような感じで。


しかし、困ることがひとつあります。差出人住所です。

年賀状を書くことが習慣になっている子や書くことを楽しみにしている子は聞いてきます。

「先生、年賀状出すから、住所教えて」

しかし、私は教えることができません。昨今の個人情報保護法の問題や教師と保護者とのトラブル増加を受けて、私の勤務する教育委員会から「自宅住所は子どもや保護者に教えない」という指導があったからです。

つまり、私は、
差出人住所は学校にすべきか?
それとも自宅にすべきか?

と悩むまでもなく、差出人住所を学校にしなければならないのです。

「先生に出す時は、学校に送ってくれたらいいよ」
と答えるしかないのです。

・・・しかない、というくらいですから、本当は自宅住所で出したいのです。なぜなら、子どもたちは、「学校に出してね」と私が言ったら、決まったように残念な顔をするからです。

たった一枚の紙がであっても、自分の手で書いたものがお正月に遠くにいる相手の手に渡る。
子どもたちは、それを楽しみ、またそれに魅力を感じているようで、宛先が学校ではそんな年賀状の魅力が なくなってしまうように思うのかもしれません。

先生のお家に送りたい、年賀状を書くことを楽しみにしている子はそう思っている子が多いです。

思えば、教師と子どもの関係は不思議です。
子どもは教師にとって、教育という行政サービスの受け手であっても、客ではありません。塾や習い事の先生とは違います。

完全に仕事同士の付き合いであるならば、仕事場同士で年賀状をやりとりすればいいのです。会社勤めをされている方はきっとそうでしょう。

しかし、教師は仕事ですが、子供の個人情報をかなり知っています。住所や電話番号はもちろん、家族構成や親の勤務先まで。

一方で、子どもたちや親たちは、教師の個人情報を名前以外は知らないのです。

教師と子どもの関係は情報だけを見てもこんなに変わっています。

客でもなければ、友だちでもない、親でもなければ、近所づきあいでもない。
その関係は教師と教え子と言うしか言いようがないのです。

かつては、教師も子どもたちに住所や電話番号を教えていました。私も昔、先生に年賀状を出しましたし、今でも出し続けています。

それは、先生が住所を教えてくれたからです。
住所を教えてもらったからといって、いきなりみんなで先生の家に押しかけるようなことはしませんでしたし、親たちもクレームを言いに行ったりもしませんでした。

どうやら、今は、そうではないらしいのです。教師が個人情報を子どもに教えるということは、そういう危険をはらむ世の中であるらしいのです。

したがって、現代の、この情報公開の不均等が如実に表れるのが、この年賀状の季節なのです。

私は年賀状くらい、個人でやりとりしたいと思っています。年賀状は本来、私信であるからです。

せっかく私に年賀状を書こうと思ってくれる生徒の年賀状なのですから、学校ではなくて、自宅でもらいたいなあと思います。

どっちでもいいじゃないかと言う人もいるでしょう。

でも、かつて好きな先生に年賀状を送り、今でも20年以上に渡って年賀状を送り続けている私としては、学校以外に先生と繋がる方法があることが嬉しかったですし、先生が家で読んでくれたんだと思うと書いてよかったなあと思っていたような気がします。

先生に出す年賀状は、子どもにとって、初めて目上の大人に出す年賀状です。
であるならば、ちゃんと受け取りたいと私は思うのです。学校あての住所ではなく、自宅の住所で。

私宛で。

つまらないことかもしれませんが、毎年気になります。



2013年11月6日水曜日

教師はなぜ余裕がないのか?

教師は・・・なんて偉そうに一般化せず、自分は・・・と言った方がいいのかもしれません。
ま、私は日々、余裕がないわけです。明日のことに追われて、ではなく、まず今日のことに追われています。

 恥ずかしながら、いえ、申し訳ないことに、次の授業は何をやるんだっけ?と休み時間に教科書を初めて見ることもあります。全くもってそんな授業を受ける子どもたちがかわいそうになります。
 しかし、ほんのちょっとの時間でいいから前日にでもパラパラと教科書くらいお茶でも飲みながら見れたらいいのですが、いざ帰ってみると疲れ果てて、教科書を開くことすらできずに次の日が来ます。
教師失格だと言われれば返す言葉がありません。

毎日が万事そんな調子なので、余裕があるとは言えない状況なのです。ならば私が特別に要領が悪いか、サボっているか、それともそもそもの仕事量が多いかのいずれかになります。

ただ仕事量が多いなんてことをいう前に、量ではなくてタイミングで苦労することがあるのです。

それは予定にない仕事です。

どんな業種でもそうだろうとおもいますが、いくら仕事量が多くとも全体を見渡すことができれば、着地点が決まっていれば、予定を立てることができます。人に振ることだってできます。

しかし突発的に起こる仕事は、予定も助けもありません。たいていそんな仕事は緊急性が高いのです。

そう、トラブルです。

トラブルは速やかに解決しなければなりません。他の仕事をうっちゃってでも。

サラリーマン時代も何度もありました。そんな時は、社内外のスタッフや協力会社に頭を下げ、赤字を被り、なんとか最低限の信用だけはなくすまいと駆けずり回ったものです。

では、今はどうしているかというと、教師が直面するトラブルと言えば、多くが子ども同士の人間関係のもつれ、保護者との見解の相違やコミュニケーション不足による苦情です。

これは担任自身が対応するしかありません。

よほどのことがない限り、会議と名のつくものには出席しなければならないのですが、この子ども同士のトラブルや保護者とのもつれに関しては最優先に対応してもよいことになっています。

しかし、対応には時間も手間もかかるため、本来予定していた仕事はすべて後回しになります。ただでさえ余裕がないとあたふたしている時に限って、トラブルは起こります。
いえ、あたふたしているからこそ、トラブルの芽に気が付かないのかもしれません。もし、休み時間に宿題の丸つけをせずに子どもと一緒に遊んでいれば、朝に職員室で印刷機を回さずに、教室で子どもたちを迎えていれば、気づけたことなのかもしれません。

だからこそ、「やっぱり普段から余裕がないとね」なんて教師同士で話をするのですが、なかなか余裕なんて生まれません。

というわけで、普段からあたふたしている上にトラブルが重なってくるために教師は余裕がないのです。


まあ、サラリーマン時代も似たようなものだったかもしれません。トラブルはいつだって「今、来るか!?」ってタイミングでやってきていたような気がします。

そう、思えば昔の上司が言っていました。

「いつもキャパの8割で動いとけ。じゃないと、いざという時に動けん。大事な仕事を取りにいけないし、クレームにだって対応できん」

そうでした、部長。
あの頃から私はその8割ができずに、バタバタしていました。そして残念ながら、今も成長がありません。

教師も自分のキャパシティの8割で働くことができれば、きっとトラブルが起きたときにも冷静に、そして落ち着いて対応できるような気がします。

じゃ、どうすれば8割で働くことができるのでしょう?

部長は言っていました。
「仕事は人に振ればいい」

そして係長は私に言いました。
「あれは部長だからできる技。俺ら下々の者は振る人間がいない」

なるほど。

そうです。担任にも振る人間がいません。子どもたちに任すことができる仕事もありますが(掲示物や掃除など)、基本的にはクラスのことを誰かに振れるはずはありません。

また誰もがクラスや学年の仕事に加え、校務分掌と呼ばれる学校全体の仕事があります。生徒指導担当、体育担当、研究担当、会計担当など、ひとり一つ以上はあるのではないでしょうか。
会議や行事が迫ってこれば、自分の仕事を後回しにして、これをやらねばなりません。もちろん、自分の仕事が片付いていれば、後に回す必要はないのですが。

自分はこんなに仕事があって大変なんです、って言いたいかのように仕事を言い並べてしまいましたが、そうではなく、お気づきかと思いますが、教師の仕事は整理分担されていません。

学級担任は、授業をし、添削をし、学年行事の計画を立て、保護者対応をし、生徒指導担当ならば他のクラスの問題行動にも顔を突っ込み、情報担当ならばシステムの使い方を教師全体に教えなければならないのです。

じゃ、どうすれば余裕が生まれるのか。

まず、校長・教頭以外の管理職を作る必要があるのではないでしょうか。

私の学校で言えば、教務主任や校務主任がいません。(私が小学生だった学校にはいたのですが)

ヒラ教諭の次はいきなり教頭なのです。じゃ、何かあったら逐一教頭に報連相なのかというと、その通りで、教頭も対応はしてくれますが、一人でさばききれるものではありません。(何せ、学級数は約30もありますから)

で、どうなるかというと
「会議でみなさんに聞いたら?」
となるのです。

つまり、管理職が「こうしよう」「それで進めましょう」と言って決断してくれさえすれば、担当が進めることができるものを、管理職がじっくり考えられずいちいち会議にかけていることが多くあるのです。

ヒラ教諭は担当であっても残念ながら決断する権利がありません。「これでいいですか?」と全員に聞かねばならぬのです。職員会議とは、民主的ではあるものの、非常に効率の悪いシステムなのです。

これを教務に関すること(つまり、各教科の授業など子どもへの指導に関すること)はできるだけ教務主任が決断・指示し、校務に関すること(学校の組織としての裏方の仕事や行事に関すること)校務主任が決断・指示すれば、担当ヒラ教諭は会議を待たずに仕事を進めることができ、かつ責任者がはっきりとし、また教頭の負担が減り、職員会議が短くなるのではと思います。

会議とは、本当に皆が知恵を絞って解決をしなければならないことに議題を限定すべきです。

教務主任、校務主任は担任を持たず、社会や理科を少し受け持つ程度で、管理職として働くべきです。
そして、突発的な仕事に対応するのです。管理職であればこそ、経験や年数を重ねているでしょうし、保護者ヘの信頼も厚いでしょう。
必要ならば、保護者と担任の間に入り、冷静な目でトラブルを軟着陸させることができるのではないでしょうか。
担任がないからこそ、定期的に校内を見回り、気になる児童の様子を見ることもできるはずです。


私の勤める地方都市だけでなく、全国的に教科担任制度や特別支援教育の充実を理由に、教師の数を増やそうという動きがあります。

しかし、増やすならまず教務主任や校務主任といった管理職を増やすべきです。

なぜなら、学校現場においては、管理されていないからです。

教師が。

ではありません。

仕事が。

です。

ヒラにはヒラの、管理職には管理職の仕事があってしかるべきです。しかし、それらの仕事が渾然一体となって、皆を巻き込むようにして余裕を奪っていくのが、現在の教育現場です。

存在する意味と、効果と、仕事のある管理職が必要です。

生涯一教師。
現場主義。
偉くになんてなりたくない。

そんな信念で昇進試験を受けない先生が数多くいます。しかし、何十年も担任をしたのであれば、その経験を自分だけのものにせず、組織のために活かさねばなりません。

それが、あたふたする教師を救い、突発的な仕事に青ざめる教師を落ち着かせ、ひいては良い授業を子どもたちに届けることになるはずです。

若い先生がどんどん増えている時代だからこそ、管理職を増やしましょう。仕事を管理して整理しましょう。

経験を積んだ先生、それは今の時代、義務ですよ。今までの恩返しだと思って。


2013年9月29日日曜日

教職はワークシェアできるのか?

休みが取れない。
有給が溜まっては消えて行く。
定時に帰れない。

そんな悲鳴が聞こえる日本の職場です。ベルギーではサマーバケーションが二ヶ月あるなんて話を聞くと、ますます泣きたくなります。

もちろん、それは教育現場も同じで、教師は基本的に月曜日から金曜日は休めません。担任の代わりがいないからです。中学や高校のように教科担任が入れ替わり立ち代わり授業をしてくれれば、子どもたちへの影響はあまりないかもしれませんが、小学校では大変です。

小学生は、今日は先生がいないから一日中子どもたちだけで自習なんていうわけにはいきません。
少しでも時間の空く先生をかき集めて、なんとかして朝から帰りまで教室に一人は教師がいるように計画を立てます。
みんな自分のクラスや授業がありますから、これはなかなか難しいことなのです。ときには教頭や校長もかり出されます。

誰かが熱を出したり、体調を崩したことが朝に分かると、子どもがくる前にバタバタとこの作業をします。
困った時はもちろんお互い様なのですが、この様子を見ていると、「そう簡単には休めないなあ」と思わされるのです。

ですから、もし自分が出張で学校を開けるときは、事前にこの作業をすることになります。

図工や音楽などの専科の先生の授業を入れてもらったり、他のクラスと一緒に体育をしてもらったり、まあ、1時間くらいは自習でも仕方ないかと諦めて、となりの教室の先生に「ちょっとのぞいてやってください」と頼んだり。

お互いさまなのですが、気を遣います。
小学校教師に取って空き時間は貴重です。
学校によってまちまちかとは思いますが、私の場合で申しますと、一週間に子どもたちの授業は平均28コマ(1コマ45分)あります。
そのうち、私が授業するのはだいたい25コマです。つまり、3コマは専科の先生が授業をしてくれるので、空いていることになります。

この3コマはとても貴重なのです。テストやノートを丸つけたり、プリントを作ったり、休み時間だけではできないことをやる唯一の時間なのですから。

この3コマが潰れるのは痛いです。教師ならみんなそう思っているはずです。でも、同僚が病気なら仕方ありません。

しかし、有給を取って旅行となるとどうでしょう?
自分の貴重な時間を快く差し出すことができるでしょうか?

いや…嫌がられるだろうな…

と誰しもが思うので、誰も有給なんて取りません。

教師の有給休暇(年休と言います)は、消化されずに溜まり、そしていつの間にか消えて行きます。

病院に行く時や自分の子どもが熱を出した時に刻んで数時間ずつ取るくらいです。

あとは、子どもが学校へ来ない夏休みや冬休みに数日取れることがあります。しかし、そんな時期も代休消化で終わってしまうことが多いのが実状です。

休日出勤の研修会やナントカ大会があれば、代休も溜まります。さすがに代休は消化すべく管理職のチェックがあります。

というわけで、毎年、私は3、4日しか有給を使いません。使えません。


さて、ちょっと前段が長くなりましたが、こんな休めない現実を解消するべく、ワークシェアリングを教育現場で考えてみます。

ワークシェアリングとは言うまでもなく、仕事をシェアするだけではありません。給料もシェアすることになります。つまり、ワークシェアリング導入によってコストが上がらないことを目指さなければなりません。そうでなければ、この財政緊縮の時代にどだい実現不可能な言葉遊びになってしまいます。

まず、教師3人の仕事を4人でやることを考えてみます。

もっとも時間が欲しい子育て世代を想定して、既婚30代で年収500万円をモデルにします。
3人で年収合計は1500万円。これを4人でシェアすると、一人分の年収は375万円。
世帯年収が、100万円以上落ちるのはツライですが、共働きなら暮らしていけない額ではないでしょう。シングルインカムでも、工夫次第でなんとかなるかもしれません。

では、仕事量はというと、単純に年間240日働いたと仮定して、3人で720日。これを4人でシェアするのですから、一人あたり180日勤務となります。

一ヶ月平均15日、一週間に3日か4日の勤務となります。

または、きちんと一週間に5日間勤務をすれば、年間9ヶ月間の勤務となります。

週休3日か、長期休暇3ヶ月か。

ワークシェアリングによって、こんな働き方が可能になります。父親の育児参加も、社会人の長期ボランティアも、観光のピークシフトも促進されそうです。

しかし、残る問題もあります。3人の仕事を現実的にどうやって4人で分けるか?という問題です。

まず分かりやすくするために、1学年3クラスの学校を想定します。つまり、1年生ならば、1-1、1-2、1-3があるわけです。普通ならば担任をもつ先生は3人です。

しかし、ここに「学年担任」を1人追加します。この教師はいわば、担任が休んだ代わりにすべての学級に入り、授業をします。

例えば週休3日では、
1-1は月曜日は担任が休み。
1-2は火曜日が担任が休み。
1-3は水曜日が担任が休み。
学年担任は木曜日が休み。
金曜日全員出勤して、来週の打ち合わせ。

こうすれば、3人の仕事を4人でシェアすることが可能です。
もちろん、連絡や引き継ぎをうまくしないと子ども同士のトラブルや保護者対応に問題が出る心配もあります。とはいえ、心配ばかりしていても休みは取れないのです。

別パターンを考えてみます。
長期休暇を取る場合です。

まず、3人のクラス担任と学年担任は、4、5月は全員出勤して児童との人間関係を作ります。

そして6、7月は1-1担任が休みます。1-1の1学期の通知表は学年担任が付けることになります。

8月は全員が現状のようにお盆+αの休みを取ります。

1-2の担任が9、10月を休む。
学年担任は11、12月を休む。
1-3の担任は1、2月を休む。

そして3月は全員で締めくくります。

こうすれば、全員が2ヶ月の長期休暇と8月の休みを取れることになって、ほぼ合計3ヶ月の休みになります。続けての3ヶ月は難しいですが。


というように、理論上はいけますが、実際問題、こんなに担任が休んだり、学年担任が出たり入ったりして、子どもが落ち着いて授業を受けられるか、教師も腰を据えて教材を教えられるのか、ということを考えなくてはいけません。

また当たり前ですが、一学年3クラスの学校ばかりではありません。クラスが少なければ、学年をまたいでワークシェアをすることになると思いますが、それが果たして可能かどうかはやってみなければわかりません。

業務をスリム化し、必要以上の報告書や会議を減らし、教師間の意思疎通や意志統一を図れば、難しいことかもしれませんが、導入の価値はあると私は思います。

もちろん、「休む」=「サボリ」、「休む」=「無気力」のようなイメージが子どもや保護者に持たれないようにすることも大切です。
ワークシェアリングをすることにより、また休むことにより、仕事上、教育上のプラス面があることを伝える必要があります。

多くの教師が子どもたちを見ることができるということ。
教師に精神的余裕が生まれるということ。
子どもたちも多くの教師の授業を経験できるということ。
評価が客観的になること。


どんなことにもメリット・デメリットがあります。

精神的疾患により、療養休暇を取らざるをえない年間5000人以上の現役教師。
産休や育児の後に教職復帰をしたいけれど、完全にフルタイムを独身教師たちと同じようには働けないお母さん先生たち。

そんな人たちのために、ワークシェアリングはきっと有効なはずです。
日本の教育現場にとっても、潰れていく人材や隠れた人材を活かすことができるのです。


バリバリ働いてお金を稼ぎたい。
実績を作ってキャリアアップしたい。

そんな思考の人はまず教師にはならないでしょう。民間企業で、外資系で、貪欲に働くはずです。

教師を目指す人のほとんどがどちらかといえば、冒険や賭けよりも安定や堅実を好むタイプなのではないでしょうか。

だとすれば、教師という職業はワークシェアリングをもってして、自分が息切れすることなく、また少子化社会に食いっぱぐれることなく、むしろ輝きを増して一生の業となるのではないでしょうか。

まず、ワークシェアリング導入試験校を設定し、募集をかけてやってみるべきです。

子育て世代の教師。
体力的に辛くなってきた年配教師。
社会に出て5年前後の「見つめ直し」世代教師。

そんな彼らからの希望が多くあると思うのですが…どうでしょう?