2014年8月27日水曜日

なぜ体育でダンスをするのか?

長い間、書かないままに時間が経ってしまいました。それでも、この三ヶ月の間、たくさんの方々がブログを読んでくださり、コメントをくださり、とても嬉しく思います。

教師の方も、元教師の方も、そうでない方も、教育という仕事を考えている方がこんなにたくさんいるんだと、私自身が励まされています。本当にありがとうございます。

さて、私がサボっている間に、いろいろな事件がありました。私がサボっている間にもあれやこれやと教育や学校にまつわる色んな事件が起こりましたが、2学期が始まろうとしているこの時に考えてみたいのは、「体育とダンス」です。

2学期に運動会があってダンスを教えなきゃっていう先生は多いでしょうから。

先般の指導要領改定により、体育において武道とダンスが必修化されました。小学校においては、表現・ダンスという分野に取り組むことになりました。

しかし、なぜ今さらダンスなのでしょう?

ストリートダンスが流行っているから?
エグザイルが国民的グループと呼ばれるようになったから?
習い事としてダンスが市民権を得たから?
ダンス協会と文科省が手を結んだから?
ダンスのたしなみがないと海外で恥をかくから?

よく分かりません。
しかし、何か新しい指針を打ち出したい文科省と、ダンスをもっと盛り上げたい業界にとっては、お互いの利益にかなった施策であることは間違いなさそうです。

私が思うに、ダンスというものが、特にストリートダンスというものが、ひょっとしたら子どもを明るく前向きに育てるために有効のではないかと、世間が(大人たちが)思い始めたのは、90年代も終わりに差し掛かっていたころだったと思います。

そう、アクターズスクール全盛期。

こう書いている私が頭にあるのは、SPEEDというグループのことです。

バブルがはじけ、不景気という言葉が挨拶であるかのように使われていた空気の中、SPEEDという女子中高生たちは、満開の笑顔と全力のダンスと、どこまでも前向きな歌詞で、大人たちの虚無的な態度と思考を叱りつけたようでした。

当時、不景気とは言いつつも、CD売上は歴代最高を更新しつづけていました。現在とは違い、アイドル不況と呼ばれ、アーティストと名乗る人たちが、ジーンズを履いて個人エピソードを散りばめた小さな愛を歌っていたように思います。多くの日本人は、若者たちは、そんな小さな愛を大切に大切に抱えて背中を丸めていたのかもしれません。

しかし、SPEEDは全力でダンスをしながら息を切らして

太陽浴びて〜全部ぬいじゃえば〜

と歌ったのです。

どこでもいいから就職さえできれば、安定した公務員になれれば、と氷河期と言われた就職戦線を低姿勢でくぐり抜けようともがいていた若者たちは、

大好きな歌とダンスを一生懸命やって夢をかなえました

というメッセージを体全体で表現する彼女たちを、時に眩しがり、時に憧れ、時に妬んだんだろうと思います。

彼女たちがあんなに前向きで明るくてエネルギー全開なのは、ダンスをしているからなのではないか?

ダンスをすることは、自分の気持ちを表現することにつながっているのではないか?

ダンスは子どもの心と体を健全に育てるために役立つのではないか?

きっと、そんなことを考えた役人や先生がいたのではないでしょうか。

まあ、そこからはお役所仕事なので、さまざまな審査会を経て、指導要領改定を経て、10年経って現在があるわけです。

ま、ただの個人的な想像ですが。
しかし、もしSPEEDというグループがいなければ、現在、指導要領にダンスの三文字はないと私は思います。

さて、昔話が過ぎました。

現在の話をします。
ダンスが指導要領に入って、小学校現場で何かが変わったのかというと、ほとんど何も変わりません。
なぜなら、一年に一度、運動会があるからです。

運動会では必ず表現・ダンスの種目があります。夏休みを終えた9月から私の勤める学校では練習が始まります。10時間くらいは練習するでしょうか。カリキュラムに占めるダンスの時間はその運動会用のダンス練習で埋められてしまっているのです。

それ以外にダンスに取り組める授業時間は小学校体育にはありません。器械体操も球技も陸上競技も水泳もやらなければならない体育は常に時間不足です。

体育にダンスを導入して子どもたちを明るく前向きに!と思った方の期待には応えていないかと思います。

リズムに乗ること。
感情を体で表現すること。
友だちと息を合わせること。
心を解放すること。

そんなダンスのおもしろさを順を追って学ぶ余裕なんてありません。
学校現場での表現・ダンスは、子どもたちにとっては「運動会という発表会までになんとか形にしなければならない」と焦る教師たちに追い立てられてダンスを詰め込まれる時間なのです。

暑くて、汗だくで、砂まみれで、先生がやたらとマイクで怒鳴ってた。

そんなことしか記憶に残らない子も多いかもしれません。

なんで、そんなことが起きるのでしょう?

簡単です。
教師が踊れないからです。

若い先生の中には、小さい頃からダンスをやってた、という人も増えつつあるかもしれません。そんな先生は自分で振り付けを考え、子どもたちの前で楽しく踊って教えることが出来るでしょう。

しかし、ほとんどの多くの教師はダンスをほぼ学ばずに教師になっていると思います。
体育が得意であればあるほど、ダンスをしたことがないというのが実際ではないでしょうか。

運動が得意であればあるほど、きっとダンスとは無縁に生きてきたからです。運動が得意であれば、きっと自ずとサッカーか野球かバスケなどの球技に取り組むようになるからです。
ダンスはそんなメジャースポーツから溢れてしまった子どもたちの種目であることが多かったのではないでしょうか。

そしてやってみれば分かるのですが、メジャースポーツが上手いからといってダンスがうまいとは限らないのが面白いところです。
運動が苦手な子がダンスが上手だったりすることも多くあります。きっと、ダンスとは体を動かすということだけが体育であり、リズムに合わせたり、音楽に振り付けを当てはめたり、感情を体で表現したり、といった能力や楽しみ方は体育の範疇から外れているのでしょう。

ダンスは体育というより音楽だ

と、言えるのかもしれません。

というわけで、小学校教師は自分たちで振り付けを作ることができる人間が少ないため運動会が近づくとダンス講習に出かけていき、振り付けを学びに行くのです。
それを必死で覚えて、子どもたちに伝えます。

教師がそんな有り様では子どもたちにダンスを「教える」ということまではなかなかできません。

文科省のねらいが小学校現場に息づくにはまだまだ時間がかかります。子どもたちや教師たちへの影響も考えれば、Eテレのダンス番組(エグザイルが教えています)のような取り組みももっと増える必要があるでしょう。

最後に少しダンス業界に触れておきます。

長い間、ダンスでは食えないと言われてきました。ストリートダンスに打ち込んでもその先がないのです。
ダンスを踊って食べていけるだけの給料をもらっている人はきっと日本に10人もいないのではないでしょうか。

多くの人がダンス教室を開いたり、主宰したり、別の仕事を持っているはずです。

それでも、その人たちはダンサーとしてはトップクラスです。

ほとんどのダンス講師は、若者たちであり、フリーターです。ダンス講師としての給料は日々の教室に集まった生徒数による歩合制であり、少なく、そして安定しません。

メインのアルバイトは別に持っているはずです。

一生懸命ダンスに取り組んでも、野球選手やサッカー選手のように稼げる未来は今の日本にはありません。
ダンス人口が増え、それが日本の価値あるエンターテイメントのひとつとならない限り、ダンス業界の未来はありません。

ですから、学習指導要領にダンスが組み込まれることによって、ダンサーたちが小中学校に赴いたり、先生たち向けの講習を開いたり、そして何より学校でかじったダンスをもっとやってみたいとダンススクールのドアをたたく子が増えてくれればとダンス業界は期待をしているでしょう。

ダンサーの暮らしなんて私もほとんど知らないのですが、昔、私もメジャースポーツから逃げたことがあって、ひょんなことからダンスに熱中する人たちと仲良くなったことがあるのです。

彼らは一様にスポ根がきらいで、集団スポーツが苦手で、でも、何かにひたむきに打ち込むエネルギーを持っていました。

ジャズダンスに打ち込むある人は、それがバイトであると分かっていながらもディズニーランドのダンサーを目指していました。

ヒップホップダンスに打ち込むある人はアルバイトでアメリカダンス留学の費用を貯めつつ、ダンスの大会で上位入賞を目指していました。

もう昔のことです。
でも安室奈美恵やSPEED、ZOOがすでに世に出ていた時代です。ダンスはほんの一握りのダンサーや芸能人を除いて職業にはなっていなかったことでしょう。

ダンスに打ち込みたい少年少女もきっと親や周囲の反対があったかもしれません。

しかし、SPEEDの登場や、数々のダンスグループの活躍、そして何よりエグザイルの長期的な成功があり、それに憧れるダンス人口やイベントが増加して、「ダンスでメシが食える」ことが夢でなくなりつつあります。

ダンスにも全国高校大会があり、体育にダンスが組み込まれたこともあり、ダンスのスポーツとしての認知も広まっています。近い将来、メジャースポーツになるかもしれません。

というわけで、9月になれば、運動会に向けてダンス指導が始まります。ダンスの上手い子たちには、「先生、ヘンだよ」とからかわれながら、必死でやります。

でも、最初にも書きましたが、ふだん体育の苦手な子たちの中に、素晴らしいダンサーが毎年います。今からそれが楽しみでなりません。

体育にダンスが入ったことで、体育を好きになる子が増えるのなら、指導要領改定も一つの意味はあったでしょう。

ま、こっち(教師)は大変ですが…

2014年5月19日月曜日

校長に人事権はあるのか?

先日から新聞を賑わせている学校現場の人事について考えてみます。

事件の発端は大阪市でした。
本来ならば管理職である校長が決定するところの学校組織の人員配置を、職員の多数決や投票で決めていたことが明るみに出て、橋下市長が「教育現場の常識は狂っている」と発言しました。

すると、その問題は大阪市にとどまらず、大阪府も、そして神戸市も似たような現状であることが分かりました。

つまり、それらの自治体の校長は「誰をどこに配置する」という権限がないにもかかわらず、問題が起きた時の責任は背負うというポジションにあることが分かったのです。

また、そんな状況に異議を唱えた民間出身校長が退職に追い込まれていたことも分かりました。

学校現場を知らない人たちは驚いたかもしれません。

なんだ校長ってそんなに力がないのか、と。

結論から言うと、ありません。

学校長の裁量を整理します。

まず、どれくらいの裁量があるかというとマクドナルドの店長くらいです。

人事権のほとんどは本部社員が握っているのと同じように、人事権のほとんどは教育委員会が持っています。

誰をどこに異動させるか、を校長が決定することはできません。最終決定は教育委員会です。校長はその判断材料を上へあげるに過ぎません。

なーんだ、学校長は名ばかり管理職か。

その通りなのです。
学校長とは、学校の長であり、その学校は自治体にいくつもあります。学校長の権限は学校の中に限られています。誰某を、どこに異動する、なんてことを決定することができないことになります。

では、その学校内ではどうでしょう。

法律の定めるところによれば、学校長は学校内の人事を司ることになっています。
学校内の人事とは、どの先生を何年生にするとか、どの先生を何の担当にする、とかそんなことです。
マクドナルドの店長がバイトのシフトを組むようなものです。

しかし、現状は自治体や地域によってさまざまです。

校長が自身の責任でもって、トップダウン的に人事を決めることが当たり前の地域。

校長が最終的にgoは出すものの、人事をほとんどが組合や教員からの選抜組織が決める地域。

たたき台を校長が作り、組合や教員の代表者とで練り直す地域。

千の地域があれば、千のやり方で校内人事を決めているはずです。

トップダウン=独裁と考える教師は少なくありません。組合の強い地域はなおさらだと思います。

校長が考えたことを即実行に移すことを強権的かつ民主的でないとし、校長が教師たちに案の是非を問わなければ何もできない地域もあるでしょう。

また、教師からの選抜メンバーで校内人事を決められる状況を、組合が勝ち取った権利であると自負している地域もまだまだ残っていると聞きます。

「教育現場の常識は狂っている」と市長に言わしめた状況は、大阪や神戸に限った話ではないはずです。

果たして、橋下大阪市長や下村文科大臣の発言でこの校内人事問題はどうなるでしょうか?
どうもならないでしょうか?

今から、5、6年前のことでしょうか、どこの自治体だったのかは忘れてしまいましたが、
「我々の仲間が教頭に!」
と書かれた組合新聞が公になって問題になったこともあったように記憶しています。
その自治体では、教頭試験を組合が牛耳っているかのようでしたが、報道以降は変化があったのでしょうか。

この大阪や神戸のやり方の問題点は、任命責任です。
任命責任は、校長にあります。
つまり、人員配置が原因の問題が起きた場合、責任を取るのは校長なのです。
しかし、校長が形式上任命するだけで、実際の人事を少人数の選抜組織や投票のようなもので決めているのならば、責任だけを取らされる校長は理不尽でしょう。

また、人事に不満がある場合にでも、不満を感じた教師は不満を持って行く場がないのではないでしょうか。

校長に訴えても、校長が決めたわけではないし、選抜組織は「我々の代表」であるのならば、訴える先がありません。

責任の所在があいまいなのです。

私の意見を言うのならば、組合は人事に口を出すべきではありません。
個人の希望は伝えたとしても、誰某をどこに配置するかという問題は、管理職が全体を鑑みて決めるべきです。

組合は、教師たちは、人事ではなく、職場環境の改善をひたすら具申し、かつ自分たちもそのために動くべきです。

そこまでするからこそ、校長の任命責任を問うことが可能になります。

管理職である校長と、担任や専科を受け持つ一教師が同じ分野や同じ視点で仕事を見ることは無駄です。
それぞれの役割を意識し、それぞれの立場で、学校全体のベストを目指す必要があります。

その上で、活発な意見交換(「ちょっと立ち話」が私は好きです)ができればいいのにな、と思っています。

労使協調、と声高にいう割には、組合新聞にはまだ
「たたかう」
「闘争」
「勝ち取る」
など、まだ恐ろしい言葉が並んでいるように思います。
敵意むき出しです。

一方で、自治体が鳴り物入りで送り込んだ民間出身校長が不祥事を起こす、というニュースもそろそろ飽きてきたくらいに見聞きするようになりました。

外圧で変化を起こすよりも、自らより良い方向へ行きたいものです。

お互い大人じゃないですか。

2014年3月21日金曜日

教師はなぜ足並みを揃えたがるのか?

今年の三学期は目の回るような忙しさでゆっくりとブログを書く気になれませんでした。

しかし、こんな貧相なブログでも毎日いくつかのアクセスをいただいています。ありがとうございます。
なんとか、年度末までに更新したいと思い、「足並みを揃える」について考えてみます。


先日、私の勤務する小学校でこんなことがありました。


とあるクラスが表彰を受けたのです。
自分たちで育てた野菜の成長を追い、また日本の農業の問題を大判のレポートにまとめたことで。

よくある話です。

いろいろな企業や団体、役所が小学校にいろいろなコンテストの案内を送ってきます。そのコンテストも、どこかの農協かNPOが主催していました。

もちろん、応募したのはそのクラスではなく、学年の他のクラスもです。ただし、入賞したのがそのクラスただ一つだったのです。

それは仕方ありません。

私はそう思いました。
しかし、そうは思わない先生たちもいました。

「なぜ、クラス単位で応募したのか?学校単位で応募すればこんなことにはならなかったんじゃないか?」
「ページ数や出来栄えを差が出ないようにある程度、揃えたのか?」

そんな意見が聞こえてきました。

頑張ったクラスを褒めるより先に、まるで表彰を受けたことが面倒臭いことであるかのようでした。

言い分は分からないでもありません。

学年全体で取り組んだものなのに、クラスごとで応募すれば差が出てしまい、子どもたちの士気に大きく影響するからです。表彰されたクラスとされなかったクラスでは、自信の持ち様がそれ以後も変わってくるでしょう。

しかし、それがクラスというものだと言えば、それまでのことです。表彰されてもされなくても、それはクラスの根幹に関わることではありません。

教師が恐れるのは本当は子どもたちの士気なんぞではないのです。

それは、もちろん、自分たちの指導力です。

外部のコンテストやコンクールほど指導力の差が分かりやすいものはありません。

作文や絵画、そしてクラス全体で取り組む調べ学習や発表、運動などは、てきめんに指導力の差が出ます。集団の力ならば子どもの能力に差などほとんどありません。あるのは、指導力の差です。

スポーツクラブや各種教室を考えれば、あたりまえのことかもしれません。

しかし、公教育で、同じ学校内で、そんな指導力の差が現前することはしばしば問題となります。

指導力の差は、子どもの教師を見る目の差であり、保護者が教師を見る目の差であるからです。
普段は、指導力の差は分かりにくいものです。
「あの先生はいい」とか「あの先生はダメ」だとか、それは合う合わないの問題でもあり、好き嫌いの範疇でもあるからです。
また、子ども同士の組み合わせによってもクラスの雰囲気は大きく変わるので、一概に教師の差と言えない場合がほとんどです。

しかし、コンテストやコンクールは、その普段は見えにくい教師の差を分かりやすく浮かび上がらせてしまうのです。
もちろん、表彰されたクラスの教師に指導力があるとは必ずしも言えないでしょう。しかし、子どもや保護者たちは、教師の差をどうしても意識してしまうようです。

それが、一部の教師たちへの批判につながらぬように、教師は一丸となって足並みを揃えるのです。

コンテストやコンクールへの応募はもちろん、絵の書き方や作文の指導の仕方まで。
「差が出ては子どもたちが悲しい思いをする」という大義名分で。
実際は教師の差が出ては、教師が辛いので。

私の勤務する学校では毎年の秋の作品展で、絵画や立体作品を展示する時には、名札にクラスを書かないのは当たり前、クラスごとにまとめた展示もしません。
パッと見ただけではクラスごとの作品の差が分からないようになっているのです。

恥ずかしながら、私などの指導がいいかげんな教師はそれでずいぶん助けられています。

保護者からは、我が子の作品を見つけにくいと毎年のようにご意見をいたただきますが、きっと今後もこんな展示が変わることはないでしょう。


保護者に望むことは、分かりやすい差だけを見ないでください、ということです。

保護者の目を気にする教師は、そんな対外的な発表の場や作品に注力するあまり、子どもを押さえつけたり、型にはめようとすることになりがちです。そんなクラスはまとまっているように見えますし、目立った問題はあまり起きません。
しかし、子どもたちは大人の顔色を窺った行動ばかりをするようになったり、「いい子ちゃん」の姿のみを見せるようになったりします。つまり、子どもたちが抱える鬱屈は強くなり、影での教師批判や後々の教師批判は一層強く出ることにつながります。

ですから、保護者の方にはぜひ、教師の分かりやすい差ではなく、
「我が子が笑顔で学校に行っているか」
「家に帰ってきて『疲れた』ではなく、『楽しかった』と言うか」
を気にしてほしいのです。

たとえ、学級通信の発行が少なくても、クラスが表彰されなくても、我が子が「行ってきます!」と元気に学校へ行き、「楽しかった!」と帰ってくるのなら、きっとその先生は素晴らしい先生です。
当たり前のことと思われる方もいるかもしれませんが、一番大事なことです。

いくら毎日のように学級通信が出ても、クラスが表彰をされても、作品展が素晴らしくても、我が子が朝に「学校に行くのやだな」と呟いたり、「つかれた」と言うことが多いなら、じっくりと子どもの話を聞いてあげるべきだと思います。

話が少し逸れました。
教師はそれぞれ「こんなクラスにしたい!」という思いがあります。しかし「足並みを揃える」ためにやめなければならないことや、反対にやらなければならないことがあります。
保護者の目を気にするからです。分かりやすい差が出るのを気にするからです。

でも、各教師の思いを大切にした方が、熱も入るし、面白くもなると私は思います。教師の指導力の差ではなく、指導の差を保護者だけではなく、社会も受け入れてくれたら学校はもっと楽しいものになるんじゃないかと思います。

もちろん、教師たち自身の嫉妬ややっかみの方が障壁になっているのかもしれませんが。


2013年12月28日土曜日

教師はなぜ自宅から年賀状を送らないのか?

今年も年賀状の季節が来ました。
クラスの子どもたちのためにせっせと書いている先生方もきっとたくさんおられることでしょう。

私も通知表と事務処理が終わるこの年末ギリギリから、子どもたちへの年賀状を書き始めます。

別に書かなくてもいいのですが、普段、頻繁に学級通信を出したり、きめ細やかな対応ができていない身としては、年賀状くらいは出してお茶を濁そうというわけです。

「明けましておめでとうございます」と書いてもいいのですが、私はいつも学級通信の一つとして新年の挨拶は抜いています。別に信念があるわけではなく、ただ、なんとなくです。
「宿題は順調ですか?」というような感じで。


しかし、困ることがひとつあります。差出人住所です。

年賀状を書くことが習慣になっている子や書くことを楽しみにしている子は聞いてきます。

「先生、年賀状出すから、住所教えて」

しかし、私は教えることができません。昨今の個人情報保護法の問題や教師と保護者とのトラブル増加を受けて、私の勤務する教育委員会から「自宅住所は子どもや保護者に教えない」という指導があったからです。

つまり、私は、
差出人住所は学校にすべきか?
それとも自宅にすべきか?

と悩むまでもなく、差出人住所を学校にしなければならないのです。

「先生に出す時は、学校に送ってくれたらいいよ」
と答えるしかないのです。

・・・しかない、というくらいですから、本当は自宅住所で出したいのです。なぜなら、子どもたちは、「学校に出してね」と私が言ったら、決まったように残念な顔をするからです。

たった一枚の紙がであっても、自分の手で書いたものがお正月に遠くにいる相手の手に渡る。
子どもたちは、それを楽しみ、またそれに魅力を感じているようで、宛先が学校ではそんな年賀状の魅力が なくなってしまうように思うのかもしれません。

先生のお家に送りたい、年賀状を書くことを楽しみにしている子はそう思っている子が多いです。

思えば、教師と子どもの関係は不思議です。
子どもは教師にとって、教育という行政サービスの受け手であっても、客ではありません。塾や習い事の先生とは違います。

完全に仕事同士の付き合いであるならば、仕事場同士で年賀状をやりとりすればいいのです。会社勤めをされている方はきっとそうでしょう。

しかし、教師は仕事ですが、子供の個人情報をかなり知っています。住所や電話番号はもちろん、家族構成や親の勤務先まで。

一方で、子どもたちや親たちは、教師の個人情報を名前以外は知らないのです。

教師と子どもの関係は情報だけを見てもこんなに変わっています。

客でもなければ、友だちでもない、親でもなければ、近所づきあいでもない。
その関係は教師と教え子と言うしか言いようがないのです。

かつては、教師も子どもたちに住所や電話番号を教えていました。私も昔、先生に年賀状を出しましたし、今でも出し続けています。

それは、先生が住所を教えてくれたからです。
住所を教えてもらったからといって、いきなりみんなで先生の家に押しかけるようなことはしませんでしたし、親たちもクレームを言いに行ったりもしませんでした。

どうやら、今は、そうではないらしいのです。教師が個人情報を子どもに教えるということは、そういう危険をはらむ世の中であるらしいのです。

したがって、現代の、この情報公開の不均等が如実に表れるのが、この年賀状の季節なのです。

私は年賀状くらい、個人でやりとりしたいと思っています。年賀状は本来、私信であるからです。

せっかく私に年賀状を書こうと思ってくれる生徒の年賀状なのですから、学校ではなくて、自宅でもらいたいなあと思います。

どっちでもいいじゃないかと言う人もいるでしょう。

でも、かつて好きな先生に年賀状を送り、今でも20年以上に渡って年賀状を送り続けている私としては、学校以外に先生と繋がる方法があることが嬉しかったですし、先生が家で読んでくれたんだと思うと書いてよかったなあと思っていたような気がします。

先生に出す年賀状は、子どもにとって、初めて目上の大人に出す年賀状です。
であるならば、ちゃんと受け取りたいと私は思うのです。学校あての住所ではなく、自宅の住所で。

私宛で。

つまらないことかもしれませんが、毎年気になります。