2015年4月11日土曜日

教師に一番必要な道具とは?

新学期が始まりました。
私も新たな学年で、新たな子どもたちと出会い、新たな学級で新たな一年をスタートしました。教師になって、何回目かの春ですが、この季節はいつも緊張します。ふだんひどい肩こりがなお一層ひどくなります。

さて、ここ最近はなんだか教育にまつわる問題点ばかりを書いていたような気がするので、今回は気楽なことについて書いてみようと思います。

それは、道具です。

プロは道具にこだわる、とよく聞きます。
イメージしやすいところを言えば、

美容師さんならハサミ、
大工さんならカンナ、
デザイナーさんならペン、
営業マンならスケジュール帳、

といったところでしょうか。
私のイメージはあまりにステレオタイプかもしれません。お許しを。

では、教師の道具で「これ!」というものは一体なんなのでしょう?


私が思うに、教師が自分で用意する必要のある一番の道具は、

ストップウォッチ

です。

赤ペンではありません。
たしかに赤ペンにこだわる教師もたくさんいらっしゃると思います。
万年筆だったり、ソフトペンだったり、こだわりのペンで
採点されたら、子どもたちもうれしいかもしれません。


でも、ペンはこだわりがなければ、学校の事務室で用意してくれているものを使えば事足ります。
ストップウォッチは、そうはいきません。

学校には体育で使ったり、体力テストで使うためにいくつかのストップウォッチがあります。しかし、各教室にはありませんし、ましてや教師一人一人にストップウォッチは支給されることはありません。(少なくとも私の務める自治体では)

だから、自分で用意する必要があるのです。

そして、ストップウォッチは、「不意に」必要になるものなのです。
常に必要なものではないかもしれません。
でも、ふとしたときに必要になるのです。


例えば、

100マス計算をさせるとき。
100マスでなくても、「この問題を3分でやって」と言うとき。
ドッジボールをするとき。(時間をはかってやるので)
「隣同士、1分相談!」と言うとき。

これらは毎日のようにあるシーンです。とにかく、小学校教師は子どもたちに時間の区切りを常に意識させています。


年に何回かある場合を考えれば、

運動会のダンス演技の入場から退場までの時間を計るとき。
休んでいた子が50m走を計ってと体育の最後にいきなり言ってきたとき。
校外学習で駅まで歩く時間を計るとき。

など、本当にこちらが用意万端でストップウォッチを持ってなさそうなときに、時間を計らなければならない時がやってくるのです。

だから、私は時計をデジタルに変えました。
個人的には針の腕時計が好きなのですが、今はデジタル時計を使っています。

最初はG-SHOCKを試してみましたが、どうもストップウォッチとして使うには、少しボタンが押しにくいことが分かりました。普段は時計として使うのはもちろん、腕にはめたまま計測がしやすく、タイムを保存しておけるものが必要であると分かってきました。

今、現在、私の教師生活で、一番使いやすいと思っているものが、ランニング用の時計です。

ランニング用の時計は、走りながらでもボタンが押しやすいものが多く、かつ、タイムを50件、100件と保存しておけます。もちろん防水、耐気圧なので、プールのときもはめっぱなしで指導も計測もできます。

ただしランニング用の時計のデザインはあまりにスポーティーなので、普段着にもスーツにも合わないですが、そこは仕方ありません。

でも、そんな不格好を差し引いても、常に自分の腕にストップウォッチがあることは何ものにも代え難い便利さがあるのです。
授業中に必要を感じても、職員室や倉庫に取りにはいけませんし、取りにいくのも億劫です。いつもは必要でなくても、いつも身につけていないと必要な時には使えません。


計算や相談でストップウォッチを使うと、子どもたちを、そんなに時間で縛って、プレッシャーをかけているのかとご批判をいただくかも知れませんが、時間の縛りは子どもたちの集中力ややる気を、一段引き上げます。その集中した時の空気はとても気持ちのよいものです。この集中力はなぜか、教室の時計の秒針で計っては発揮されません。目の前で教師がボタンを押す、そのポーズが必要らしいのです。
(自分の指導力のなさを、ストップウォッチで誤摩化しているのかもしれませんが)


というわけで、この春、教師としてスタートを切ったみなさま、時計をランニング用に買い替えましょう。スマートウォッチが話題の昨今ですが、スマートウォッチは電池が不安です。教師の時計は、ランニング用に限ります。軽くて、丈夫で、見やすくて、押しやすくて、そして高くない。

今回はなんだか宣伝みたいになりました。
時計メーカーのみなさま、学校に営業かけたら、きっと売れますよ、ランニングウォッチ。


2015年1月30日金曜日

スモールステップとは結局、何をすることなのか?

最近の自分の投稿を振り返ってみると、あまり勉強を教えるという仕事について書いていないことに気がついたので、今回は、使い古された言葉ではありますが、スモールステップについて考えてみようと思います。

スモールステップとは、ずいぶん昔から言われていることですが、要するにいきなり頂上を目指さずに、まずは一合目にたどり着くことを目標にしましょう、という考え方で、「小さな階段」「低い階段」を意味しています。

挫折や無力感、放棄や間違った習得を防ぐために有効だと言われています。

プログラム学習から始まったとか、ディズニーの研修で取り入れられているとか、特別支援教育の基本だとか、教育現場にいれば必ず耳にする言葉でしょう。

教師も一年に一度、4月の最初に「学級経営方針」なるものを書くのですが、そのときにこの「スモールステップ」という言葉を使う教師は多いです。

小さな成功体験を数多く積ませたい。
自信をつけさせたい。
「できた」という喜びを味わってほしい。

そんな意図で、スモールステップという言葉は使われているのです。

しかし、です。
いったい何をすれば、スモールステップだと言えるのでしょう?

最近の算数の教科書を見たことがあるでしょうか?

算数の教科書は、スモールステップの連続で作られています。教師が考える余地がないくらいに、一つの考え方を教えることが小刻みに刻まれているのです。

概数の教科書を見てみましょう。

まずは、「184は100と200のどちらに近いか?」というようなことから入ります。

次に、四捨五入を習います。

そして、184を十の位までの概数にせよ、という問題の解き方を習います。

教科書は、概数を教えるのに、それだけ例題をあらかじめ刻んでいます。そう、つまり
教科書の作りがもう既にスモールステップになっているのです。

であるならば、「教師はスモールステップを意識せよ」というとき、結局何をすれば良いかというと、愚直に教科書通りに教えること以外にありません。

時間がないからと、行事が立て込んでいるからと急いでやるなよ、飛ばすなよ、ということです。

なんだ、大層なカタカナ用語を使っておきながら、中身はそれか、とがっかりする前に知ってほしいことがあります。

それは、教えることはスモールステップの半分でしかない、ということです。

スモールステップの残り半分は教えることではありません。

それは、評価することです。

私は常々、小学校のスモールステップは教える方はスモールステップでも、評価がスモールステップになっていないと感じています。

もちろん、私の周りだけかもしれませんし、広く日本には教えることも評価することもスモールステップを実現できている先生や学校もあるかもしれません。

教えることも小刻みならば、評価することも、つまりテストも小刻みにならなければ、スモールステップはやりっぱなしになってしまいます。

テストを細かくやれば、子どもたちが躓いた箇所がピンポイントで分かるのに、教師は多くの場合、子どもたちの躓きに気づいていないことが多いような気がします。(自戒を含めて)

毎時間ノートを集めてチェックする。
授業の初めは小テストを行う。

それができれば理想です。
でも、なかなかできません。
授業中も見て回りますが、完璧にはできません。

恥ずかしながらながら、ノートを集めてもチェックできずに子どもたちに返したり、機械的に丸を付けただけだったり、ということが私は少なくありません。

日々の小テストとノートチェック。

これができれば、小学校のスモールステップは、ほぼ完全な形になるはずです。

小テストをできるだけ作っているつもりなのですが、まだまだ少ないと感じています。

ノートに問題を解くより、小さくともテストという形をとった一枚の紙に解くほうが子どもたちのやる気は上がります。本気度は変わります。だから、私は小テストって大事だなぁとやるたびに思います。

そして、
「小テストは悪くても通知票に関係ないから、リラックスして解いてごらん」
などと、付け加えて、緊張ではなく集中を促したいとも思っています。
「テスト」と聞くだけでイヤになる子も多いですから。

ま、言うだけは立派かもしれませんが、こんなことが私はなかなかできていないのです。

思っているだけで。

目下のところ、スモールステップって何をするのか?と言えば、小テストをできるだけたくさんやること!と言ってもいいとさえ私は思っています。

明日は、ちょっと久々に朝、学校に着いたら、小テストを作ることにします。言うことだけは一人前、なんて言われないために。

2015年1月22日木曜日

若者はなぜ選挙に行かないのか?


投票率が戦後最低の衆議院議員総選挙が終わりました。フタを開けなくても分かっていたとおり、自民党公明党圧勝です。

ただし、有権者の半分しか投票しない選挙で圧勝なんていう言葉を使うのは変な気がします。

要するに、今回の選挙は固定票勝負でした。経団連やら保守やら愛国やら憂国やらの自民党支持団体と、自称信者1000万人の新興宗教と国交省企業JTBグループという公明党支持団体が、上からの言いつけをきちんと守って投票しました、というだけの選挙です。

固定票のない、分厚い支持団体のない民主や維新は話になりませんでした。

というわけで、やっぱりなぜ人は選挙に行かないのか、という問題に辿り着くのです。

どうせ行っても変わらない、なんて知ったかぶりをしてしまうのはなぜでしょう。

投票しなかった残り半分の人が共産党に投票したら、日本はまるで別の国になるというのに。

ま、それと似たようなことは前々回の民主圧勝選挙で起こったのだけれど、余計に日本は混乱していい思い出がありません。

「人」とひとくくりにしてはいけないのかもしれません。

選挙に行かないのはどうやら若者たちであることがはっきりしています。

テレビの街頭インタビューで若者が答えています。

「選挙にはいきません。友だちも行かないし」
「よくわからないんで、行かないです。」
「行っても大して変わると思えないんで」

これだけ聞くと、日本の若者はなんて無気力無関心なんだ!と世界は愕然とするかもしれません。

しかし、若者は無気力だ!無関心だ!と簡単に切って捨てるわけにはいかない理由が私にはあります。

小学校教師として。
人が多数決を初めて体験する小学校で働く大人として。
人は小学校卒業後8年で選挙権を持つからこそ、若者の投票率の低さは小学校教師にとって人ごとではないのです。

彼ら若者がが自分の意思表示の方法として、権利主張の一手段として、選挙に行くのは遠慮と抵抗があるのではないかと私は考えています。

今の子どもたちは、自分のやりたいこと、したいことに関しては主張をします。ときにぶつかります。

「次の学級会の時間には何がしたいですか?」と聞けば、

ドッジボールがしたい。
ドッヂビーがしたい。
オニごっこしたい。

やりたいことは、どんどん出ます。すると誰かが言います。
「多数決で決めよう!」
「さんせいでーす!」

もちろん、主張をしない子もたくさんいます。しかし、みんな多数決には参加します。それを投票率というならば、投票率はほぼ100%です。

しかし、です。

「クラスの中で何か困っていることはありませんか?」と聞くと、

とたんに、しーーんとなります。

誰かがぼそっと言います。
「いやなことはあるけど、困っているわけじゃない」

また誰かも言います。
「困っているっていうか、できていないことはある」

こっちとしては聞いてみるわけです。
「いやなことってどんなこと?」

すると、多くの場合こんな答えが返ってきます。
「Aさんがからかってくることとか」

「とか?」(私)

「いやなことを言ってくる」

もう一人にも聞いてみます。
「できていないことって?」(私)

「男子がそうじの時間に遊んでることとか」

「とか?」(私)

「みんなが廊下を走っていることとか」

「とか?」(私)

「わすれものが多いこと」

子どもたちはそんな答え方をします。で、結局のところ、「困っているの?」と聞くと、「別に困ってない」と言います。

「でも、いやなことはあるんだよね?できてないことはあるんだよね?どうしたらいい?」と聞いてみると、

「Aさんがやめてくれればそれでいい」
「男子がそうじをちゃんとすればいい」
「廊下を走る人が歩けばいい」
と当たり前ですが、こんな答えが返ってきます。

彼らは暗に言っているのです。
「別にみんなで話すことじゃない。その人がちゃんとすればいいだけの話でしょ。」

いやなことやできていないことをクラス全員で話し合うことを好きな子どもなんていません。

誰だって思い返せば、学級会の話し合いなんてキライだったはずです。

なぜか?

誰かが「さらし者」にされるからです。

さっきの話題で言うと、「Aさんがいやなことを言う」ということにみんなが注目してしまうと、「ほかにありませんか?」と聞くたびに、次から次へとAさんを非難する言葉が並んでしまいます。誰だって、完璧な人間はいませんから。

「そのことを言うなら、あのこともあてはまるかな」
「何か言わなきゃいけないなら、あのことを言おう」
という心理も手伝って、あら探しのようになるでしょう。言いたくないけれど、言わなきゃいけないような空気になるのです。集団心理は恐ろしいです。

こうなったときの空気は本当にイヤです。

Aさんにも悪いところはあるかもしれませんが、みんなでAさんをいじめているかのような空気になります。

私は小学校のときのそんな学級会が本当に、本当にイヤでした。

もちろん、今はそうなる前に私は止めますし、今の日本にそんな学級会をしている教師はいないと思います。

いずれにせよ、多くの子どもたちは「こまっている人」にもなりたくないし、どちらかと言えば「誰かを注意する人」にもなりたくないのです。

子どもたちの考える「困っている人」とは、高齢者であり、障害をかかえた人であり、また仲間はずれにされた人であり、いじめられている人です。

小学校では一年生のときから、老人ホームへ訪問したり、地域の独居老人へ手紙を書いたり、特別支援学校と交流したり、いじめや仲間はずれを扱った道徳教材を繰り返し勉強したり、たくさんの「困っている人」について学習します。

でも、それは多くの子どもたちにとって、自分ではありません。

困っているだれか、です。

自分は困っている人に、なりたくないのです。憐れみを向けられる人になりたくないのです。かわいそうと思われる人になんて、なりたくないのです。
「困っていること」を声高に主張なんてしたくないのです。自分よりも困っている人はたくさんいるし、困っている人になんてなりたくないからです。

子どもたちは、「困っている人」について学習すればするほど、そんな思いを強くしているのかもしれません。

今の政治は、危機感を煽ります。

日本にはこの道しかない!
安倍政権の暴走を止めろ!
戦争をする国にしてはならない!
生活が苦しい!
アベノミクスの影響が中小にはない!

そんな危機感を煽るような言葉と、きっと若者は距離を置きたいのではないですか?
近づきたくないんじゃないですか?
矢継ぎ早にお互いを批判するような政治論争に耳を塞ぎたいんじゃないですか?

だって、かつて嫌いだった学級会みたいじゃないですか。「やりたいこと」「楽しいこと」なんて一つも出てこないじゃないですか。

メディアは困っている人ばかり探し出して、政治のダメな点ばかりを言うじゃないですか。政治がいかにケアできていないかをフォーカスするじゃないですか。集中砲火するじゃないですか。

若者たちはきっと、テレビでそんな「困っている人」を見るたびに、自分はああはなりたくない、と思っているのです。

「自分はなんとか勝ち組にならないまでも、負け組にはなるまい」
「安定した収入を得よう」
と、思っているのかもしれませんし、ひょっとしたら、

「選挙?行かないっす。大して意味あるとも思えないんで」

と、インタビューに笑顔で答える方が楽しそうだと思っているのかもしれません。
そっち側の人間になった方が幸せそうに見えるのかもしれません。「困っている人」から遠ざかることができると思っているのかもしれません。

政治家のみなさん、楽しいことを語りませんか?計画しませんか?提案しませんか?

ヘイトスピーチも、揚げ足取りも、集中砲火も、ヤジも、怒号も、批判も、楽しそうじゃないですよ。

楽しいことを多数決しましょう。そうしないと選挙なんて行きません。

まあ、投票率が上がって組織票率が相対的に下がると困る人はいっぱいいますわな。

2014年11月7日金曜日

一学級は何人であるべきか?

お先日のニュースでは文科省と財務省のバトルが報道されていました。

小学一年生の35人学級を維持するには、教師確保に年間84億円かかり、35人学級にしても40人学級時代といじめ発生率は変わらないことを根拠に、35人学級を打ち切りたい財務省。

1クラスの人数は少ないほど教育効果は高いと教育関係者は誰もが認めるとし、いじめ発生率の微増は教師の意識の高まりに他ならないと主張して教員増を求める文科省。

たった5人枠でなんでそんなにモメるんだ?

と思う人も多いかもしれません。

自分のクラスが34人だろうと、38人だろうと、そんなに何も変わらなかった、と昔を思う人もたくさんいるでしょう。

しかし、この5人枠は大きな違いを産みます。

自分の学校の話をします。

1学年、だいたい140〜150人くらいの学校に勤めています。

つまり、小学校6学年あれば、全部で900人くらいの子どもがいます。

もし、35人学級だったら。

1クラスを35人以下に抑えるためには、140人を

28人✕5クラス

に分けます。というわけで、たいてい一年生は5クラスです。

では、35人学級が適用されない6年生になると、同じ150人でも

35人✕4クラス

となります。

1クラスあたりの子どもの数の差は5人よりも大きくなります。

たかが7人ではありません。
7人違えば、忙しさは全然違います。

毎日の宿題の丸付けから、テストの採点、ノートのチェック、成績表の作成といった子ども一人ひとりに対する仕事はもちろん時間を取られます。

私は最も少ない時で28人、最も多い時で38人を経験していますが、10人違えばまるで違う職業のように感じられるくらいです。

28人が余裕があって、ヒマでラクだと言っているわけではありません。今の日本にヒマでラクな仕事などないでしょう。

28人のときは、「あの子、分かってないな」とか、「あの子、なんか変だな」ということに気づきやすかったように思います。しかし、毎年、子どもも学年も違うので、きちんと比較できるわけではありません。

ノートや宿題は明らかに丁寧にチェックしていましたが。

35人学級を導入してから、いじめの発生率が微増しているのは、教師の意識の高まりだと下村大臣は言いましたが、私は少し違うと思います。

変わったのは「いじめの定義が認知されたこと」です。

「いじめとは、いじめられた方がそれをいじめと捉えたら、いじめである」という定義が完全に学校現場や家庭に根付いたのがここ最近です。私の感覚で言うと、ここ4〜5年といったところでしょうか。

ぞれまでは、いじめられる方にも原因がある、なんて理屈こそ既に聞かれなくなっていたものの、学校現場は「いじめ」の三文字を使うことにひどく怯え、「いやがらせ」だの「つらい思い」だの似たような曖昧な表現で回避していたように思います。

また、大津の事件依頼、文科省や教育委員会の取り組みも変わりました。

年に1回、いじめアンケートなるものを実施します。「いやな思いをしてませんか?」「そんな友だちを知りませんか?」と子どもたちに聞くアンケートです。そりゃ、報告に上がるいじめ件数は増えて当たり前です。文科省の主張はもっともです。
35人学級と同列で論じる話ではありません。

そして、学年ごとに振り分けられる仕事も教師が5人いれば5分割ですが、4人ならば4分割です。
クラス担任としての仕事以外の学年としての仕事の総量を100とするならば、それが20になるか25になるかは大きな差です。

また全学年で35人学級が実現できれば、学校全体で教師は最大6人増えるかもしれません。

これは、事務仕事や報告書作成においては、確実に一人あたりの負荷を小さくしてくれます。
トラブルが起きた時の対応の速さも細かさも違ってくるでしょう。

私の学校で言えば、教師が約50人いますが、もし55人になれば「あの担当はもう一人いるな」という所がいくつかあるので、大助かりです。生徒指導とか、体育とか、情報とかね。

ただし。
ただし、です。

財務省の言うとおり、予算がないならば、人員は増やせません。教師は公務員ですから、赤字を垂れ流して教師を増やすことに世論が両手を上げて賛成することはないでしょう。

教師は言います。

教育は、国の根幹だ。
子どもは国の宝だ。
国づくりは人づくりだ。

早い話が、

ビルより教育だ。
戦車より教育だ。
道路より教育だ。

というわけです。

教育にケチる国に将来はない、とでも言わんばかりに。
でも、財務省は厳密に言えば、教育にケチっているわけではありません。教育にかかる人件費をケチっているのです。教科書や黒板や机をケチっているわけではありません。

人を削るより、

無駄な工事を減らせ!
無駄な事業を減らせ!

とも、教師は言います。

しかし誰にとっても無駄な事業なんてあるんでしょうか?
そこでなにかの仕事が生まれ、誰かの収入に繋がっているのに。

だから、逆に言われているのです。

一人で子ども40人くらい面倒みろよ、と。
経費圧縮に一番効果があるのは、人件費なんだと。
人を増やすより先に1人ひとりの守備範囲を広げろよ、と。
お前らの人件費のために借金を背負うのは目の前の教え子だぞ、と。

手厳しい…

みなさんは、財務省と文科省の言い合いをどう見ていますか?

どっちの言い分が時代に合っているのでしょう?

私は1クラスあたりの児童数は、40人までなら何人でもいいです。でも40を超えると、机が教室に入りません。物理的には入りますが、暮らせません。なので、35人学級にこだわりません。

おいおい、さっきと言ってることが違うじゃないか。

と、思った方。
続きがあるのです。

小学校が35人学級にこだわると、人件費だけでなく、ハードにも莫大な費用が必要です。

教室です。

今、住宅地の小学校では校庭を潰してプレハブを建てています。児童数が増え、また各自治体が独自に少人数クラスを目指しているからです。

これは子どもを不幸にします。
何せ児童数は多いのに、運動場が狭くなるのですから。

だから、35人学級にこだわってクラスの数を増やしてはいけません。1クラス40人でもいいのです。
プレハブは、財政にも子どもにも不幸でしかありません。

しかし、教師は学年に

クラス数+1

配置しましょう。

クラスを増やさず、教師を増やすのです。

なんだ、結局、教師を増やせと言うのか、と思われるかもしれません。

しかし、このクラス担任ではない+1の教師がいれば、現場は全く違うでしょう。

問題行動の対応が授業を潰さず、自習にせずにできます。

担任が出張しても、困りません。

授業についていけない子どものフォローができます。

昼間に保護者対応ができます。

授業中に宿題チェックができます。

担任でないからこそ、子どものためにできることが山ほどあります。

35人学級にしてクラス担任をふやしていてはできないことが、40人学級にして+1でできるのです。

しかも、プレハブを減らせます。
人件費はかかりますが、総経費は35人学級より安上がりです。

どうです?文科省のみなさん。
どうです?財務省のみなさん。

ぜひ、検討していただきたいのですが、このブログまで辿りついてくれますかね…

2014年10月17日金曜日

なぜ教師には残業代がないのか?

どうやら、日本の教師は忙しすぎるようで、中学校の先生に至っては部活動という特殊な仕事のために、勤務時間が超過し過ぎていると、ニュースになりました。

ちなみに部活動で休日出勤したときの手当は一日でも数百円です。

基本的に教師には残業代がありません。私立のことは分かりませんが、公立ではありません。

勤務時間を超えて働く教師がほとんどのはずなのに、残業代はないのです。

なぜか?

公務員だから?
教職は聖職だから?
全員に残業代を払うと税金がいくらあっても足りないから?

色々言われているのですが、最大の理由は、「残業ではない」からです。

ブラック企業だの、ダンダリンだの労働条件に関しては昨今はニュースも話題も多いので、改めていうことではないのですが、残業とは、

・上司や管理職が組織や会社のために必要であると認めた業務であること

・上司や管理職の指示のもとに行う業務であること

…ような仕事のことを言うらしいのです。(細かい言葉遣いは違いますね。でも意味は間違っていないはず)

さて、教師の残業はというと、ほとんどが自分の判断で居残っているのです。上司や管理職の指示ではありません。

だって、まず上司や管理職は教頭と校長しかいないのですから、ヒラ教諭が自分のクラスの仕事のうち、何をどこまで進めているのか、なんて把握しちゃいられません。

授業の準備、ワークシートの作成、漢字練習帳の丸付け、テストの採点、作文の添削、、、など、管理職はノータッチです。

教師が「明日までにやらないとマズイ」と自分で判断すれば、残業するのです。そこには、組織のために必要だとか、上司が認めるとか、そんな手続きはありません。

つまり、自主的にやる仕事のため、残業の範疇には入らないのです。ま、教師たちは残業だと思っていますし、「残業代なんて出ないのにみんな頑張るねぇ」なんてグチりながら、自分たちは残業をしていると思っています。

採点も授業準備もワークシート作成も、ひょっとして仕事をテキパキとこなし、スキマ時間を有効利用することができる人ならば、残ってやる必要がないかもしれません。
残ってやる人は、ただ単にダラダラとやっているだけかもしれません。

なんか、どこかで聞いた話だなと思われた方は、そうです、昨今、ホワイトカラーエグゼンプションで騒がれていることが、なんと、何十年も前から教師には適用されているのです。しかも、年収が300万円くらいだったとしても、です。

労働時間あたりの質を上げろ!

なんて、本当は教師に聞かせなければならないのかもしれません。
教師は日頃、費用というものを意識することがほとんどありません。コスト意識は低いです。自分の年収が、仮に500万だとしても、保険や環境設備維持を含めれば、その人にその倍の1000万くらいかかる、ということを知らない教師は少なくありません。

しかし、教師に残業代がない本当に大きな理由は、実は、自分で判断して残って仕事をするから、ではありません。もっと、決定的な理由があります。

それは、教師は自分たちで仕事を増減できる、ということです。

日々の仕事における決定機関は、同じ学年や教科ごとに編成された学年会議や教科会議と呼ばれる5〜6人の打ち合わせです。
また、それとは別に行事や全校に関わる問題を扱う部会があります。基本的には、各学年から1〜2名ずつ出席して、職員会議の議案を事前検討する、といった役割を負っています。

それより、大きなものは職員会議です。

それら、大小の会議は、ヒラ教諭によって構成されています。そして、最高決定機関である職員会議は、基本的に全員が出席して意見を言う非効率なまでに民主的な会議です。

何を言いたいのか、もうお分かりだと思いますが、教職という仕事は、私の知る限り、教師が仕事を減らそうと思えば、減らすことができるシステムをとっているのです。
提案するのも、決定するのも自分たちなのですから。

例を挙げます。

昨今、全国の小学校には、業者テストというものが広まりつつあります。学力調査ではありません。

学校のテストのことです。

小学校のテストといえば、先生たちが作るものでした。手書きにしろ、タイプライターにしろ、またパソコンにしろ、先生たちが手作りしていました。もちろん、今も手作りしている先生方や学校も数多くあることでしょう。

テストを見れば
「ああ、これは○○先生が作ったな」
と子どもたちでさえ、分かることも多かったと思います。

しかし、今は、教材会社の作るテストを購入し、子どもたちを評価する学校も増えてきています。

一年分のテストを前もって購入するのです。そして時期が来れば、それを一枚ずつ子どもたちに取り組ませるのです。

なぜ、そんな業者テストが広まりつつあるのでしょう?

理由1
学力調査を念頭においているから。

業者テストは、教科書はもちろん、毎年の学力調査の出題傾向を分析して作られています。教師がする分析よりもはるかに精度が高いと言わざるを得ません。学力調査で好成績を収めるには、効果があるとしている学校もあるでしょう。

理由2
教え漏れ、を防ぐため。

教師は教科書を最低基準として教えることが求められています。しかし、人間ですから、教え漏れが発生することがあります。そんなときは、後に教え直すとしても、テストからは除外しておこうか、となりがちです。その点、業者テストを事前にチェックしておけば、教師は教え漏れを防ぐことでき、テスト問題の質を全国レベルで揃えることができます。

理由3
教師は多忙であるから。

教師の忙しさは過去に何度も触れています。
「なぜ教師は心を病むのか」
「教師はなぜ忙しぶるのか」
などを読んでいただければと思います。
つまり、これはアウトソーシングです。テスト一枚作るのに、2時間も3時間もかけ、それをまた他の先生がチェックして、修正し、印刷する、という手間ひまよりも、教師の本分である授業を工夫すべし、というわけです。

そんなわけで、テストを手作りする作業をアウトソーシングするかどうかは、誰がきめるのかというと、管理職ではなく、教師全員で職員会議できめるわけです。

推進派は上記のような理由を並べ立て、反対派も同じくらい理由を言って、最後はたいてい多数決です。

ですから、仕事を減らすのは教師自身なのです。

仕事量を自分で裁量できる人間たちが、さらに自己判断で超過勤務をして、それが果たして残業に該当するでしょうか?

教師が労働基準監督署に駆け込んだら、監督官は調査に入るでしょうか?

無理でしょう。

きっと言うはずです。
自分たちでまず仕事を絞りなさい、と。労働環境を自ら改善するのは労働者の義務です、とかかんとか。

教職員の組合員のみなさま、今のシステムではいくら活動したって、残業代は勝ち取れません。

残業代がほしいなら、多数決ではなく、トップダウンを採用すべきですし、トップダウンが許せないなら、残業代は許されません。

ですから、所属する組合が異なろうが、非組合員だろうが、非常勤だろうが、みんなで知恵を寄せ集めて、仕事を精査して、減らしましょう。

せっかく、私たちには決定できるシステムがあるのですから。

2014年8月27日水曜日

なぜ体育でダンスをするのか?

長い間、書かないままに時間が経ってしまいました。それでも、この三ヶ月の間、たくさんの方々がブログを読んでくださり、コメントをくださり、とても嬉しく思います。

教師の方も、元教師の方も、そうでない方も、教育という仕事を考えている方がこんなにたくさんいるんだと、私自身が励まされています。本当にありがとうございます。

さて、私がサボっている間に、いろいろな事件がありました。私がサボっている間にもあれやこれやと教育や学校にまつわる色んな事件が起こりましたが、2学期が始まろうとしているこの時に考えてみたいのは、「体育とダンス」です。

2学期に運動会があってダンスを教えなきゃっていう先生は多いでしょうから。

先般の指導要領改定により、体育において武道とダンスが必修化されました。小学校においては、表現・ダンスという分野に取り組むことになりました。

しかし、なぜ今さらダンスなのでしょう?

ストリートダンスが流行っているから?
エグザイルが国民的グループと呼ばれるようになったから?
習い事としてダンスが市民権を得たから?
ダンス協会と文科省が手を結んだから?
ダンスのたしなみがないと海外で恥をかくから?

よく分かりません。
しかし、何か新しい指針を打ち出したい文科省と、ダンスをもっと盛り上げたい業界にとっては、お互いの利益にかなった施策であることは間違いなさそうです。

私が思うに、ダンスというものが、特にストリートダンスというものが、ひょっとしたら子どもを明るく前向きに育てるために有効のではないかと、世間が(大人たちが)思い始めたのは、90年代も終わりに差し掛かっていたころだったと思います。

そう、アクターズスクール全盛期。

こう書いている私が頭にあるのは、SPEEDというグループのことです。

バブルがはじけ、不景気という言葉が挨拶であるかのように使われていた空気の中、SPEEDという女子中高生たちは、満開の笑顔と全力のダンスと、どこまでも前向きな歌詞で、大人たちの虚無的な態度と思考を叱りつけたようでした。

当時、不景気とは言いつつも、CD売上は歴代最高を更新しつづけていました。現在とは違い、アイドル不況と呼ばれ、アーティストと名乗る人たちが、ジーンズを履いて個人エピソードを散りばめた小さな愛を歌っていたように思います。多くの日本人は、若者たちは、そんな小さな愛を大切に大切に抱えて背中を丸めていたのかもしれません。

しかし、SPEEDは全力でダンスをしながら息を切らして

太陽浴びて〜全部ぬいじゃえば〜

と歌ったのです。

どこでもいいから就職さえできれば、安定した公務員になれれば、と氷河期と言われた就職戦線を低姿勢でくぐり抜けようともがいていた若者たちは、

大好きな歌とダンスを一生懸命やって夢をかなえました

というメッセージを体全体で表現する彼女たちを、時に眩しがり、時に憧れ、時に妬んだんだろうと思います。

彼女たちがあんなに前向きで明るくてエネルギー全開なのは、ダンスをしているからなのではないか?

ダンスをすることは、自分の気持ちを表現することにつながっているのではないか?

ダンスは子どもの心と体を健全に育てるために役立つのではないか?

きっと、そんなことを考えた役人や先生がいたのではないでしょうか。

まあ、そこからはお役所仕事なので、さまざまな審査会を経て、指導要領改定を経て、10年経って現在があるわけです。

ま、ただの個人的な想像ですが。
しかし、もしSPEEDというグループがいなければ、現在、指導要領にダンスの三文字はないと私は思います。

さて、昔話が過ぎました。

現在の話をします。
ダンスが指導要領に入って、小学校現場で何かが変わったのかというと、ほとんど何も変わりません。
なぜなら、一年に一度、運動会があるからです。

運動会では必ず表現・ダンスの種目があります。夏休みを終えた9月から私の勤める学校では練習が始まります。10時間くらいは練習するでしょうか。カリキュラムに占めるダンスの時間はその運動会用のダンス練習で埋められてしまっているのです。

それ以外にダンスに取り組める授業時間は小学校体育にはありません。器械体操も球技も陸上競技も水泳もやらなければならない体育は常に時間不足です。

体育にダンスを導入して子どもたちを明るく前向きに!と思った方の期待には応えていないかと思います。

リズムに乗ること。
感情を体で表現すること。
友だちと息を合わせること。
心を解放すること。

そんなダンスのおもしろさを順を追って学ぶ余裕なんてありません。
学校現場での表現・ダンスは、子どもたちにとっては「運動会という発表会までになんとか形にしなければならない」と焦る教師たちに追い立てられてダンスを詰め込まれる時間なのです。

暑くて、汗だくで、砂まみれで、先生がやたらとマイクで怒鳴ってた。

そんなことしか記憶に残らない子も多いかもしれません。

なんで、そんなことが起きるのでしょう?

簡単です。
教師が踊れないからです。

若い先生の中には、小さい頃からダンスをやってた、という人も増えつつあるかもしれません。そんな先生は自分で振り付けを考え、子どもたちの前で楽しく踊って教えることが出来るでしょう。

しかし、ほとんどの多くの教師はダンスをほぼ学ばずに教師になっていると思います。
体育が得意であればあるほど、ダンスをしたことがないというのが実際ではないでしょうか。

運動が得意であればあるほど、きっとダンスとは無縁に生きてきたからです。運動が得意であれば、きっと自ずとサッカーか野球かバスケなどの球技に取り組むようになるからです。
ダンスはそんなメジャースポーツから溢れてしまった子どもたちの種目であることが多かったのではないでしょうか。

そしてやってみれば分かるのですが、メジャースポーツが上手いからといってダンスがうまいとは限らないのが面白いところです。
運動が苦手な子がダンスが上手だったりすることも多くあります。きっと、ダンスとは体を動かすということだけが体育であり、リズムに合わせたり、音楽に振り付けを当てはめたり、感情を体で表現したり、といった能力や楽しみ方は体育の範疇から外れているのでしょう。

ダンスは体育というより音楽だ

と、言えるのかもしれません。

というわけで、小学校教師は自分たちで振り付けを作ることができる人間が少ないため運動会が近づくとダンス講習に出かけていき、振り付けを学びに行くのです。
それを必死で覚えて、子どもたちに伝えます。

教師がそんな有り様では子どもたちにダンスを「教える」ということまではなかなかできません。

文科省のねらいが小学校現場に息づくにはまだまだ時間がかかります。子どもたちや教師たちへの影響も考えれば、Eテレのダンス番組(エグザイルが教えています)のような取り組みももっと増える必要があるでしょう。

最後に少しダンス業界に触れておきます。

長い間、ダンスでは食えないと言われてきました。ストリートダンスに打ち込んでもその先がないのです。
ダンスを踊って食べていけるだけの給料をもらっている人はきっと日本に10人もいないのではないでしょうか。

多くの人がダンス教室を開いたり、主宰したり、別の仕事を持っているはずです。

それでも、その人たちはダンサーとしてはトップクラスです。

ほとんどのダンス講師は、若者たちであり、フリーターです。ダンス講師としての給料は日々の教室に集まった生徒数による歩合制であり、少なく、そして安定しません。

メインのアルバイトは別に持っているはずです。

一生懸命ダンスに取り組んでも、野球選手やサッカー選手のように稼げる未来は今の日本にはありません。
ダンス人口が増え、それが日本の価値あるエンターテイメントのひとつとならない限り、ダンス業界の未来はありません。

ですから、学習指導要領にダンスが組み込まれることによって、ダンサーたちが小中学校に赴いたり、先生たち向けの講習を開いたり、そして何より学校でかじったダンスをもっとやってみたいとダンススクールのドアをたたく子が増えてくれればとダンス業界は期待をしているでしょう。

ダンサーの暮らしなんて私もほとんど知らないのですが、昔、私もメジャースポーツから逃げたことがあって、ひょんなことからダンスに熱中する人たちと仲良くなったことがあるのです。

彼らは一様にスポ根がきらいで、集団スポーツが苦手で、でも、何かにひたむきに打ち込むエネルギーを持っていました。

ジャズダンスに打ち込むある人は、それがバイトであると分かっていながらもディズニーランドのダンサーを目指していました。

ヒップホップダンスに打ち込むある人はアルバイトでアメリカダンス留学の費用を貯めつつ、ダンスの大会で上位入賞を目指していました。

もう昔のことです。
でも安室奈美恵やSPEED、ZOOがすでに世に出ていた時代です。ダンスはほんの一握りのダンサーや芸能人を除いて職業にはなっていなかったことでしょう。

ダンスに打ち込みたい少年少女もきっと親や周囲の反対があったかもしれません。

しかし、SPEEDの登場や、数々のダンスグループの活躍、そして何よりエグザイルの長期的な成功があり、それに憧れるダンス人口やイベントが増加して、「ダンスでメシが食える」ことが夢でなくなりつつあります。

ダンスにも全国高校大会があり、体育にダンスが組み込まれたこともあり、ダンスのスポーツとしての認知も広まっています。近い将来、メジャースポーツになるかもしれません。

というわけで、9月になれば、運動会に向けてダンス指導が始まります。ダンスの上手い子たちには、「先生、ヘンだよ」とからかわれながら、必死でやります。

でも、最初にも書きましたが、ふだん体育の苦手な子たちの中に、素晴らしいダンサーが毎年います。今からそれが楽しみでなりません。

体育にダンスが入ったことで、体育を好きになる子が増えるのなら、指導要領改定も一つの意味はあったでしょう。

ま、こっち(教師)は大変ですが…