2013年4月2日火曜日

教育も「詳しくはwebへ」か?

大阪市の橋下市長がどうやら、2015年にはデジタル教育をスタートさせると宣言したそうで、国も業者もあまりのスピードに驚いているそうです。
大阪市の教師でもない私もいつも橋下市長の言うことには反応してしまいます。どうやらそれはメディアも同じらしく、これほど注目される市長もいないでしょう。

デジタル教育については私も一年ほど前に「教科書はタブレットになるか?」で考えた問題ですが、あれから世間では、ipadminiやnexus7、surfaceなど、たくさんのタブレットが発売され、またスマートフォンの勢いは落ち着くどころか、まだまだ伸びそうな勢いです。

これはやはり2013年度初めにもう一度考えておきたい問題です。

一年前の私の意見をまとめると、
・タブレットは壊れる、フリーズする点で紙にはかなわない。
・タブレットは成熟していない技術であり、小学校6年間を通して一台でまかなえるものではない。よってコストがかさむ。
・タブレットは子どもから時間割を奪い、モノを準備するという習慣が身につかない。

というようなゴタクを並べておりました。
これを今考えてみてもやはり、タブレットは落としたら壊れますし、進化は日進月歩であるし、さほど私の意見は変わっていません。

しかし、メリット・デメリットというものは探したい人が探したいだけ探すことができるものです。いかなる問題に対しても。屁理屈みたいなものです。

しかしデジタル化の流れはきっと止まることはないでしょう。今、もっとも大切なのはデジタル教育が導入されたとしたときに、教師が直面する問題は何かということです。
ルーティンワークとしては、きっと本当に
「電池が切れた」
「画面が割れた」
「動かない」
と言って騒ぐ子どもたちの相手をすることになるでしょう。

しかし、本質的な大問題は
「子どもたちは教わらなくても勝手にやってしまう」
ということなのではないかと私は思い始めています。

自主性が高まるのはいいことです。意欲が高まるのはいいことです。しかし、学校はあくまでも集団学習の場なのです。教育現場では一斉授業と言います。全員が教師の説明と仲間の発言を聞き、そして刺激され同じペースで学ぶ形態です。

しかし、デジタル教育はその方向とは少し違う方向を見ているのではないかと思うのです。

パソコンをはじめ、タブレットもスマートフォンも「個」を向いているからです。
映画はもはや劇場からリビングに主戦場を変えただけでなく、今は手のひらへ向かいつつあります。デジタルは「個」のための技術です。

黒板よりもコンピュータグラフィックスが分かりやすいのは当たり前であり、教師の説明よりも練りに練られたテレビ番組の方がよくまとまっているのは否めないでしょう。

デジタル教科書が、動画コンテンツを豊富に含み、イメージするしかなかった算数の図形や社会の遺跡のコンピュータグラフィックスが次々と出てきて、さらに検索機能や添削機能が備われば、できる子どもほど、授業がバカらしくなるはずです。
「自分で勉強した方がマシ」と。

教師の仕事は、発表や話し合い、図工や音楽、体育くらいしか残らないかもしれません。

なんだ、教師のレベルはそんなに低いのか?

そう思われる方もいるでしょう。
しかし、レベルが低いのは、デジタルに及ばないのは、何も教師だけではありません。

高給取りの代表であり、いつだって時代を作ってきた広告代理店やCMプランナーは、とっくにデジタルに負けています。
15秒や30秒の限られた時間で商品やサービスの魅力を伝えてきたテレビCMは、今やただのバナー広告にすぎません。

「詳しくはwebで!」
「続きはwebで!」
「○○で検索!」

判で押したようにそんなCMばかりになりました。CMは商品説明を諦めたのです。魅力を伝えることを諦めたのです。自分のペースに合わせて知りたいことを満足行くまで調べられるwebに負けたのです。

きっと5年後の教師は言うはずです。
「よく分からなかった人は、動画をよく見ておくように」
「詳しくはコンピュータグラフィックスを見ておいて」

なーんてことになるかもしれません。いやあ、どうしようかな。教師、いらなくなっちゃうな。


2013年2月9日土曜日

教師はなぜ心を病むのか?

文科省が先日発表したところによると、心の病や精神疾患で休職した公立高中小学校の先生は2011年度で5274人。
公立高中小学校の先生は日本全国で約90万人いますから、0.6%にあたります。パーセントでみると何だか少ないような気がしますが、200人に1人もいることになります。

これはすごい数字です。
乱暴に言うならば近所の3〜5校の中に1人はいることになります。

病気をした先生ではありません。病気で仕事を休むことになった先生でもありません。心の病気で仕事を休むことになった先生が、です。

また、療養休暇を取った教師のうち、心の病が原因とする人が6割を超えています。

教師はガンや脳卒中よりも、精神疾患を気にしなければならないのです。こぞってガン保険に入るより、心の保険に入る必要があります。

しかし、一口に心の病と言っても、教師たちはどんなことで心を病むのでしょうか?

まず、第一に挙げられるのは、「多忙」です。

教師の多くは、事務処理を円滑に進めることに希望を抱いて教師になったわけではありません。

話があっちへこっちへ飛びに飛びながら怒りをまくし立てる保護者や近隣住民のクレームをうまくなだめることにやり甲斐を感じているわけでもありません。

ましてや、書式も用紙サイズもバラバラで、コピーにコピーを重ねたような書類ばかりで、意味があるのかないのか分からない多数決が横行する職員会議で活発に意見を言うために教師を志したのではありません。

子どもたちの成長する姿を間近で見たくて、自分が今まで見聞きしてきたことを次の世代に伝えたくて、これからの日本を支える人材を育てたくて、そして、なにより子どもと遊ぶことが好きで、学校は楽しいところだと子どもたちに伝えたくて、教師になったのです。

ところが、現実は違います。もちろん、8:30から15:00くらいまでは、授業や給食でずっと子どもたちといっしょです。クラスでケンカや問題行動があったときは、教師だって落ち込みますが、子どもたちは基本的には楽しいことが好きで楽しい雰囲気を作りますから(ふざけすぎることもありますが)、それにつられて教師も心を持ち直せることが少なくありません。

体は疲れますが、心が病むことは少ないように感じます。

しかし、ひとたび子どもたちが下校すれば、そこからは大人の世界です。会議や打ち合わせが波にように次から次へと襲ってきます。

「あの子、今日の算数分かってなかったから、ちょっと残して教えようか」
などと思っても、会議がそれを許してはくれません。

目の前の子どもが困っているのを見過ごして、会議に出なくてはならないのです。

私の学校に、大人の都合よりも子どもを優先するのが教師だと、打ち合わせがあるのを分かっていながら、子どもの勉強をみた若い教師がいますが、あとでこっぴどくベテランから注意を受けました。

「周りを見ろ、全体を考えろ」と。

放課後の教師の現実です。テレビドラマのように、ふらりと子どもの家に寄って他愛ない話をしたり、一緒に遊んであげたりする教師の姿は今はもうほとんど見られないはずです。

発達障害傾向のある児童を理解するための研修会、問題行動の多い児童を共通理解する会議、子どもたちの学力を補償する手立てを考える会議、など、本来ならば子どもたちを救うための会議であったとしても、それらが増えれば増えるほど、現実は目の前の子どもたちを置き去りにすることにつながっているのです。

教師に憧れた人であればあるほど、子どもたちのことを愚直に考える人であればあるほど、良心に呵責を感じ、心を病むことになります。

追い打ちをかけるのが、水面下で行われるパワーゲームです。

各学年や各担当同士で、いかに自分たちがスムーズに仕事をこなせるか、いかに思い通りにことを運ぶか、その押し合いが毎日のように行われます。お互いが多忙ですから。

もちろん学校によっては、水面下などではなく、職員会議や朝礼などではっきりさせるところもあるでしょう。

しかし、女性教師が多い小学校では噂話をいつの間にか既定路線に持ち込んだり、ベテランをいかに自分たちの味方に巻き込むかに躍起になったり、といったせめぎ合いが日常茶飯事なのです。

この気の遣い様や、または気を遣うくだらなさに、きっと真面目な教師は疲れ果ててしまうのです。
こんなはずではなかったと理想と現実に挟み潰されるのです。

そしてもうひとつの大きな原因はやはり「保護者」です。

いつからか「地域に開かれた学校」というスローガンが定着し、地域住民や保護者が学校を評価する時代になりました。

ぐるなびやホットペッパーと同じです。レヴューに星です。

もちろん、学校には評価サイトはありませんから、アンケートという形になります。
アンケートは匿名ということもあって、ときには厳しい意見が来ます。「これは私のことだろうな」と、すぐに気がつくこともあります。

しかし、これはまだありがたいことなのです。厳しいですが、きちんと手順を踏み、枠組みの中で意見をおっしゃっているのですから。

問題は枠組みの外です。

子ども同士のトラブルは、まずは子ども同士で話し合って解決させたいと教師は考えます。将来、必要な能力だからです。

ところが、子どもがお父さんお母さんに訴えたときに、親御さんがいきなり相手に連絡を取ったり、学校に怒鳴り込んだり、あの子は要注意などと噂を回したりすると、ややこしくなることがあります。

教師も子ども同士の解決だけでなく、親同士の間に立たなければならないことも多く、両方をともにソフトランディングさせるのは難しい仕事です。その際、必ずと言っていいほど、親御さんたちの矛先は教師に向かいます。

「指導ができていないんじゃないですか」
「クラスが荒れてるんじゃないですか」
「先生にはまだ高学年は無理なんじゃないですか」

子ども同士でなんともならないことは多くはありません。子どもの心は憎しみをいつまでも抱えていられるほど強くはないように思います。

しかし、親御さん同士のこじれは、残ります。同時にそれは教師に対する不信感となります。

手間をかけ、時間をかけ、心を砕いたのにも関わらず、残念な幕引きをせざるを得なかったときの心労は後を引きます。

重ねて、
「あの先生は頼りにならない」
「あの先生は事なかれ主義だ」
「あの先生は何もしてくれない」
などと、保護者の間でメールや噂が回ることもあります。

最悪の場合は、子ども同士のトラブルがいつの間にか学校の管理責任問題となり、教師を罷免させようという動きになります。

昨今、メディアでは体罰のニュースが次から次へと出てきますが、
おそらくはほとんどの教師は、叩けばホコリの出る身です。
慣れた弁護士が教師を罷免させようと丹念に聞き回った上で、法を振りかざしたら、いつかの一言で、いつかの指導方法で、いつかの対応ミスで、教師は法に屈することになるでしょう。

謝罪の上に、戒告や懲戒処分が待っているはずです。

もちろん、ここまで来るときには既に多くの教師はまともに仕事を続けられません。精神を病んでいることでしょう。

たとえ、気丈に教壇に立っていても、裁判に持ち込まれては、その教師は今後どこへいっても、事件を引きずることになるため、教育委員会が間に入り、仲裁するのではないでしょうか。

担当教師は異動させる。そのかわり、告訴は取り下げてくれとかかんとか。

それによってもまた教師はほとぼりが覚めるまで、自宅療養となり、分類としては「心の病」にさせられるのではないでしょうか。

以上が現在私が学校現場にいて、見えている「心の病」の正体です。ま、多少の憶測を含みますが。

先生たち、がんばれ!

なんて、とても言えません。

まず、業務とくに報告や会議をスリム化すること。
次に保護者対応の専任担当者を置くこと。(ベテラン退職教員なんかがいいですね)

文科省のみなさん、こんなブログ読まないと思うけど、頼みますよ。5000人が療養休暇取るより、コストかからないでしょ?

2013年2月3日日曜日

日教組は民主党敗北をどう乗り越えるのか?

教育の政治的中立はありえない。

日教組のドン、民主党幹事長・輿石東の言葉です。
政権を握っていた政党の幹事長のセリフとは思えないくらいの暴言と思う人もたくさんいるでしょうが、残念ながら日教組は大っぴらに民主党を支持しています。組合員の先生たちは、この選挙にあたって、たくさんの電話をかけビラを配り、演説に動員されています。

もちろん、公務員の政治活動は制限されていますから、当然教育委員会も選挙前に通達を出します。

政治活動は制限されている。
公に奉仕する公務員の立場を忘れるな。
世間の目は厳しくなっているぞ。

という内容の。

しかし、それはそれとして、組合員の先生たちは、政治活動をせねばならんのです。中央からの指示もあるでしょうし、支部同士の見栄の張り合いもあるでしょう。それに政権の中枢におわす方が、力強いことを言っているのですから。

しかし、世の中の日教組バッシングは止まりません。連合や民間の労働組合はそうでもないのですが、日教組へのバッシングはこの選挙でも民主党への、とりわけ輿石東へのバッシングとなって表れていたように思います。
彼が衆議院議員だったなら、間違いなく小選挙区では敗北していたでしょう。

民主党大敗の責任は、野田佳彦ではなく、野田佳彦にことごとく反目し、党内外を混乱させた輿石東にあるはずです。私は取り立てて輿石東が嫌いでも好きでもなく、風貌としてはリーダーではないなぁ、スーツがオーバーサイズだなぁ、くらいしか思わなかったのですが、選挙後の彼の沈黙ぶりはずるいと思うのです

しかしながら、これだけ維新だ、未来だ、みんなだと大騒ぎになっても投票率は半分もないのなら、大きくはなくとも日教組という確実な票田を持つ輿石東の存在は民主党内では大切でしょう。彼の野田佳彦に対する態度からも分かります。

しかし、民主党は維新の会と同議席しか獲得できず、ましてや無党派層に民主党支持者は極めて少ないとするのなら、世論は民主党に対しては、選挙結果以上に厳しいものになるはずです。

いわんや、日教組をや。

民主党が政権についていながら、日教組ができたことと言えば、心のノートを事業仕分けに持ち込んだくらいで、他のことはてんでだめでした。

期末手当ても維持できなかったし、教員の免許更新制度も廃止にできなかったし、共済保険の独立性も保てなかったし、朝鮮高校の無償化も実現できませんでした。

そんな日教組が自民党政権下ではいったい何ができるのでしょう?

きっとデモをしたり、署名をしたりと、地道な活動は続けることでしょう。しかし、教育行政は日教組を置き去りにして進んで行くはずです。
しかし、そもそも組合活動とはそういうものかもしれません。労働組合は自分たちの支持者が政権を握っていては、反対運動がしにくくて仕方ありません。
しかし、労働組合のアイデンティティとしては、「労働者の声を聞け!」「現場は疲弊している!」と叫ばずにはいられないのです。

だとすれば、ただ形だけのデモをしていた民主党時代よりは、明らかな敵対勢力である自民党時代のほうが、日教組は組合活動に気合が入るかもしれません。

たとえ、それが徒労に終わったとしても。

さて、学校週6日制の復活が喧しい昨今ですが、日教組はどんな活動を見せるでしょうか?
楽しみなところです。

子どもの基礎学力か教師の労働条件か?

これはこの問題として私も考えてまた書きたいですね。

2012年11月12日月曜日

教師は同職を見分けられるのか?

ある美容師さんが言っていました。
「あ、こいつ同職だなってだいたい分かります」
と。

いい歳して月曜か火曜日にふらふらしていて、小洒落ていて、手が荒れていたら、だいたい美容師だと。

なるほどと思いました。
ポイントは休みと格好と身体的特徴です。

教師も教師をある程度見分けることができます。それは同じ職業ならば、どんな職業でも同じことかもしれませんが、なんとなくまとった空気のようなもので分かります。

でも、この美容師さんの話を聞いて、私も教師の明らかな特徴というものを探してみたくなったのです。

まず、休みですが何よりも分かりやすいのは夏休みです。
小学校教師のほとんどは、夏休みには長い休みを取ります。子どもと同じというわけにはいきませんが、世のサラリーマンよりは長い休みです。

8月は連続ではないでしょうが、土日やお盆を合わせて合計20日間くらいは休みを取るのが一般的だろうと思います。
8月にやたらと家にいるようなら、教師の可能性はぐっと高まります。

また、休みの日ではなくて休みの時間でも分かりやすい行動があります。

それはランチです
子どもが始業式や終業式の日、学期始めや終わりの日など、給食がない日があります。
そんな日は、あたりまえですが、教師も給食がありません。そんなときは、教師という生き物は連れ立ってランチに出かけるのです。
スーツを着ていない、かといって作業服でもない、ジーパンもいればジャージもいる、大学生には見えず年齢もバラバラ…それはきっと教師に間違いありません。

普段はお昼ご飯も学校の外にでることはない教師たち、きっと久しぶりのランチをはしゃいで楽しむのではないでしょうか。


また身体的特徴は、夏にはっきりしますが、日に焼けているということにつきます。
いくらUVケアをしたからといって、体育の授業やプール指導での日焼けは、尋常ではありません。教師とは日焼けするものなのです。
先の美容師さんに言わせれば、
「先生って、分け目が日焼けしてる人が多いんすよね」
ということになります。

教師のみなさん、髪の分け目はこまめに変えましょう。

もちろん、秋になったからといって油断していると日焼けは一向におさまらず、一年中日焼けしていることになります。
肉体労働者にしちゃひ弱だし、理屈っぽそうだけど、日焼けしてるな…と思ったら、きっとその人は教師の可能性が高いということになりそうです。

最後に通勤時のことに触れておきましょう。
普通、通勤時には住宅地そばの駅に向かい、そしてオフィス街や街の中心で駅を出るものでしょう?

教師は多くの場合、逆です。
オフィス街には学校はありません。
住宅地で駅に向かわず、逆に駅から出てきて、自転車に乗ったり、人並みに逆らって歩く人がいればその人はきっと教師です。スーツを来ていなかったら、なおさら確率は高いでしょう。

私は日々、そんなことを考えながら通勤するようになりました。

あの人も教師かな。
あの子も教師かな。

そんな人を探しながら。

同じ想いを抱いて、同じ道を志し、同じ世界でもがき続ける同志として、心の中で、
「今日もがんばろうぜ」
とエールを送るのです。

きっとすれ違う向こうも、同じ気持ちなんじゃないかなと期待しながら。



2012年10月23日火曜日

コソコソ話は女性の本能か?

体育会も終わり、次は文化祭だの音楽会だの、学校現場はイベントに追われております。
もっともメーカーにしても、サプライヤーにしても、催事に振り回されているのは変わらないかもしれません。

ずいぶん前に「なぜ結婚しない女性教師がこんなにも多いのか」ということを書いたんですが、今でもたくさんの方が読んでくれているようです。

やはり、小学校は女性が多い職場です。今回も女性のことを書きましょう。


小学校の女子たちは今も昔もコソコソ話が大好きです。コソコソ、こしょこしょ話しては、ニヤニヤ笑ったり、「サイテー」だとか「ウザッ」とかそんな暴言だけを大きな声で言ったりするのです。

男子としては気になるわけです。気分が悪いわけです。
「あいつら、何話してんだ?」
「俺たちの文句いってんじゃないか?」
と、勘ぐるのです。

そして、
「お前ら、コソコソ話するんじゃねーよ」
と言うと、
「別にあんたの話なんてしてないしー」
と軽くあしらわれるのです。

事実、どうやら女子は男子の悪口を言っていることは少なく(言うには言うのですが)、女子同士の噂話や文句を言っていることの方が多いようです。

ま、男子に文句があれば、今の女子たちは面と向かって言うのです。ああ、女は強し。

女子たちはコソコソ話をすること自体に喜びや楽しみを感じ、またどんなつまらない内容であれヒミツを共有できることに、自分は一人ぼっちではないという安心感を得るようなのです。

違いますか? 元女子のみなさま。

しかし、です。
そんなコソコソ話がそこらじゅうで行われるようになると気持ち悪くて仕方ありません。お互いが悪口を言いあっているのではないかと疑心暗鬼になるでしょう。
男子がケチをつけるのはもっともなことなのです。

ですから、教師たちは「コソコソ話は禁止!」だとか「ナイショ話はしない!」などという決まりを作ったり指導をしたりするのです。

ところがです。
そのコソコソ話を禁止しているはずの教師が職員室ではコソコソ話をしまくるのです。
さすが女性教師の割合が7割の小学校現場です。コソコソ話が好きだった元女子たちは、コソコソ話を子どもには禁止はするけれど自分には解禁しているのです。

元女子の女性教師たちはコピー機の前で、共有テーブルで、こっちの席で、あっちの席で、コソコソこしょこしょやっては、
「それはだめでしょー」とか、
「えー、信じらんなーい」とか、
そんなリアクションだけ大きな声でぶちかますのです。やってることは子どもと一緒です。

いったい子どもたちに指導していることはどこへいったのでしょう…

とくに歳を重ねれば重ねるほど、そういう行動を取るようになるような気がします。もちろん、女性教師のすべてがそうだというわけではありません。そうでない人たちも、もちろんいます。

男性教師でコソコソ話を頻繁にする人を私はまだ見たことがありません。
しかし女性教師は毎日のように見ます。

誰かの文句を言ったり批判しているのではないのかもしれません。あそこのスーパーでは和牛が安いとか、韓流スターの誰それがこんど日本に来るとか、そんな話をしているのかもしれません。

しかし、周りにいる身としては、そこかしこでコソコソこしょこしょやられては、気分のいいものではありません。ましてや、経験年数の浅い身としてはなおさらです。自分のミスをあげつらわれているような気がするのです。
学校の大事なことが、人員配置が、職員会議の落とし所が、一部の年配女性教師たちのコソコソ話で決まっていっているような気さえするのです。

そりゃお前、考えすぎだろうとおっしゃるかもしれません。しかし…ふつーそんなにコソコソ話します?

私はサラリーマンのときはそれほど気にならなかったんですが、小学校に来て気になって仕方がありません。

コソコソこしょこしょは、女性が生まれながらに持つ性質なのでしょうか?
ビルトインされているのでしょうか?

私はとりあえず目の前の女子には、
「コソコソ話はやめようぜ」
と今日もまた言うのです。

だって、先輩教師には言えないですから。



2012年9月7日金曜日

学力が向上すれば学力テストはなくなるか?

学力テストの本格的実施が再開されて2年、当初は参加しないと表明した自治体も参加し、することが当たり前になちました。

私の勤務する学校でもこの前から、結果の分析なるものが始まりました。

そもそも何で学力テストが復活したのかというと、ピザ調査での成績が悪いとかランキングが下がったと大騒ぎを始めたからです。

だれが?

もちろん、子どもたちではありません。親たちでもありません。ゆとり教育を推進していた官僚でもありません。


騒ぐと利益がある人たちです。


つまり、あの学力低下宣伝キャンペーンは、まず間違いなく学力テストを文科省から下請けしているベネッセコーポレーションやそこに天下った(天下りできそうな)官僚たち、利益を享受する御用学者たちの仕掛けが存在するはずです。

そうでなければ、あれほどテレビや新聞での横並びのような学力低下ニュースがあふれるはずはありません。

そもそもが座学だけできても、理屈ばかり達者でも、世の中では役に立たない、無個性な優秀さより、アンバランスでも秀でた能力を伸ばそうと始まったのがゆとり教育です。

決して学力調査の成績を伸ばすために始めたわけではありません。

言うなれば、「学力は下がってもかまわない、豊かな人生を送ろう」としたのです。

しかし、いつに間にか論はすり替えられ、学力低下が大問題になりました。ゆとり教育を受けた子どもたちが社会に出て、どんな活躍をするのか、誰も見ないうちに。誰も検証しないままに。

私はゆとり教育に賛成ではありません。総合学習なんて今すぐにでもなくしてほしいくらいです。
しかし、ゆとり教育が間違っていたかどうかはまだ分かりません。

スポーツで活躍し、世界へどんどん出て行ったり、オリンピックでは重圧を跳ね返してメダルを獲ったり、ボランティアに積極的に参加したりする「ゆとり世代」を目にすると、これから社会に出て仕事に慣れた彼ら彼女たちがどんな活躍をするのか、とても楽しみなのです。

にもかかわらず、世の風潮はそれを待たずに反ゆとりに舵を切りました。そして、真っ先に学力テストを導入したことが私としては非常に腹立たしいのです。

学力テストをいくらやっても学力は上がりません。誰だってテストをする前には勉強するのです。だからこそ、反ゆとりで行くのならば、まず学力を向上させるためにお金を使うべきです。教師を増やす、環境を整える、補習をする…やれることはいくらでもあります。学力テストは学力向上のためには優先順位が高くはありません。もうすでにピザ調査での結果が出ているのならば、それ以上調査しなくてもかまわないはずです。

ただ、予算を分捕り、仕事を増やし、いらぬ分析に膨大な人力とお金を使ういい口実にはなります。

いったい文科省はいくらでベネッセコーポレーションに学力テストを発注しているか、みなさんは知っていますか?

600億円です。
これは必要な600億円ですか?



だいたい、学力低下、食料自給率低下、就職率低下、年金納付率低下など、低下低下とやかましく大騒ぎになっている時は、誰かが仕掛けているのです。

食糧自給率低下を叫ぶ農水省は、低下を食い止めるために予算をくれと言っているのです。
就職率低下を叫ぶ経済産業省は、雇用を増やすために予算をくれと言っているのです。
学力低下を叫ぶ文科省は、学力を向上させるために予算をくれと言っているのです。
その予算を使って何をするかというと、無駄な財団法人を作って天下りポストを増やすのです。下請けの会社を肥えさせて、天下りの確約を得るのです。

では、学力が向上し、ピザ調査での成績が上がったら、学力テストはなくなるのかというと、私はそうは思いません。今、もうすでに文科省とベネッセコーポレーションは次の手を打っています。

それは、意識調査です。

意識調査は、平たく言えば、子どもたちの勉強に対するやる気や態度のアンケート調査です。

先生の話はしっかり聞いていますか。
毎日コツコツと勉強していますか。

そんな質問が何十個も続くような意識調査を現在すでに行っているのです。

なぜそんなことをするのか、というと、学力と意欲の相関関係を取りたいからに他なりません。

意欲がある子は学力が高い。
生活習慣が付いている子は学力が高い。

きっとそんな相関関係を想像ではなく、データとして取りたいのです。
もちろん、実際、取ることができます。

なぜなら、現在、意識調査がテスト問題を解いた後に行われているからです。つまり、テストを終えて「よくできた」と思っている子は自信を持って「先生の話をよく聞いている」に「あてはまる」と答えることができるのです。
「できなかった」と思っている子はどんなに普段先生の話を聞いていても、「先生の話をよく聞いている」に「あてはまる」とは答えにくいでしょう。

学力テストと意識調査を同時に、しかも問題を解き終えてからの意識調査は、かなりの誘導が行われるのです。

意欲や生活習慣と学力の相関関係なんて付いて当たり前なのです。ただデータを取るために行っているとしか思えません。

きっと近い将来、「学力を上げるには、モチベーションだ、生活習慣だ」と高らかな声を上げて、文科省とベネッセコーポレーションは大騒ぎをするでしょう。
もし、日本のピザ調査での成績が上がっても、次はきっと学力テストがなくなることはありません。

意欲や生活習慣と学力の相関関係を注視し続けることが大事なことだという論調が出来上がってしまっているからです。

ベネッセコーポレーションは、生活習慣改善教材でも開発するかもしれません。モチベーションアップのためのメンタルトレーニングコースも開設するかもしれません。


ゆとり世代と呼ばれる若者たちよ。

悔しいじゃないか。
世の中がびっくりするような活躍をしようじゃないか。
学力テストにあくせくする文科省を、
ベネッセコーポレーションを、世の中を、笑ってやろうじゃないか。


2012年8月12日日曜日

学校から、なぜいじめはなくならないのか?

夏休みが終わります。
いつのまにか夏休みも最後になってしまっていました。やはり、持つ学年や担当によって忙しさは全然違います。二ヶ月ぶりの更新になります。

昨年は「教師の夏休みは長すぎるのか?」について考えました。
ぜひ、読んでいただければ幸いです。

で、今年はやはり「いじめ」について考えたいと思います。大津であんなきとがあった年ですし、きっと私のような半端な教師であっても教師の考えを聞きたい人もいるでしょうし、「教師は何を考えてるんだ?」と思っている人もいるだろうからです。

今回、大津の事件で大きく非難されているのは、以下の点です。

・いじめを教師が見ていたのに、止められなかったこと。
・いじめの訴えに取り合わず、事実を発表しなかったこと

まず、なぜ教師が止められないのか?ということを考えてみます。
今回でも先生は見ていても何も言わなかったのか、「やりすぎるなよ」としか言わなかったとか、色々な報道がされています。
この教師の行動をみなさんはどう考えますか?
無責任?
他人事?
甘すぎる?

これは、教師からの牽制だったと考えるのが正しいのではないかと私は思います。
教師がいじめらしきものがあるかもしれないと感づいたとき、
「いじめはゆるさん!」
といきなり勇ましく介入することはまずないでしょう。
教育はその名の通り、「教え育てる」ことを目指すからです。断罪したり、更生したりすることは範疇からズレるのです。
だからこそ、いじめられている子の様子を見守りながらも、教師はいじめっ子が自発的にいじめをやめることができるよう、チャンスを与えるのです。

それが、子どもたちの周りをうろつくことであり、「やりすぎるなよ」と軽くジャブを打つのです。

これがきっと、先生は見ているだけだったと言われたり、声を掛けただけだったと言われたりした行為だと私は思います。

しかし、これで終わってはいけません。このジャブでいじめっ子がいじめを改めなければ、教師は子どもの自発的更生を待つことなく介入しなければなりません。
大津の事件では、どうだったのでしょうか。いじめが教師の目の届かないところで行われるようになったか、教師がいじめがなくなったと誤認してしまったか、何らかの原因で最悪のケースに至ったのでしょう。
見て見ぬ振りをしたとは考えにくいです。嵐ならば過ぎ去るのを待つのでしょうが、いじめはいつ終わるか分かりません。見て見ぬ振りを決め込むような教師はいないと信じます。

では、なぜ学校はいじめの訴えに取り合わず、事実を公表しなかったのでしょう。

これは、学校のことなかれ体質が大きな原因かもしれません。もちろん、これは学校に限ったことではなく、あらゆる組織はことなかれ主義のはずです。

ぶっちゃけて非を自白してもクビ。
隠して万が一バレてもクビ。

組織人は、同じクビなら、バレるまで隠しておこう、と考える人ばかりです。ましてや校長や教育長など、組織の中である程度のポジションを築いた人はなおさらです。

訴えがあっても知らぬ存ぜぬを通し、あきらめてくれればもうけもの。万が一、裁判を起こされたら、その時は仕方がありません。

大津の中学校の教頭も校長も、訴えがあったときには覚悟を決めていたはずです。
これは隠蔽といえば隠蔽ですが、私は隠蔽という言葉を使うことに少し違和感があります。

積極的に隠しているわけではないのです。ただ、波風を立てずにそっとしておこうとしているのです。

言うなれば、無策です。保留です。思考停止と言ってもいいかもしれません。

教師の目の前には、常に成長する子どもたちがいます。何か問題が起きても、見守っているうちに何にもしなくても、子どもが成長することによっていつのまにか解決してしまうことも少なくありません。

それが教師が無策や思考停止に慣れてしまう原因の一つだと私は思います。

しかし、無策や保留、思考停止が取り返しのつかないことを引き起こすことは、年金や財政赤字、領有権などの問題を見れば、誰もが分かるところです。

無策は罪です。
間違えるかもしれないけれど、何か行動を起こそうとする人を、教師を評価する世の中であってほしいものです。


しかし、なぜいじめはなくならないんでしょうか。
こんなに卑劣で、誰もが憎む行為なのになぜ絶滅しないのでしょうか。

小学校からも中学校からも、高校からも、そして職場からもまるでなくなる気配がありません。
まるで、人間関係があるところには、必ずいじめがあるかのように思えてきます。
みなさんも周りを見渡せばそうかもしれません。私だってそうです。いじめを憎む教師が職員室では、うらであれこれ結託して、一人をいびったり、つまはじきにすることがあるくらいです。

大人がそもそもいじめを全滅できないのに、子どもに求めるのはやめましょう。学校でいじめが起きることは特別なことではありません。親や教師もそれを想定しておくことです。人間はいじめるものなのです。

日本では年間約三万人の人が自殺をします。東北の震災以上です。その最も多い理由が人間関係なのです。

これは異常です。
なんとかしなくてはなりません。震災なんて霞んでしまうくらいの惨事なのです。この10年で30万人が命を絶っているのですから。

いじめの発生を止めることができないのなら、私たちは耐性を身につけるしかありません。

反撃できる者は反撃し、防御できる者は防御し、逃げることができるものは逃げるのです。
そして、その後に待っているものは、仲間外れや無視などのひとりぼっちでしょう。
でも、それに耐えるのです。それがひとりぼっちへの耐性です。

ひとりぼっちを恐れない。私が現時点で考えることができる、いじめへの処方箋はこの「ひとりぼっちへの耐性」です。

だれもがひとりぼっちを恐れ、手持ち無沙汰を恐れ、スマートフォンをいじくりまわす現代では特に難しいことかもしれません。

でも、ひとりぼっちを恐れなければ、どんな集団からも離れられるし、逃げることができるだろうと思うのです。

そして、ひとりぼっちはいつまでも続かないはずです。きっと誰かが声を掛け、手を差し伸べてくれるはずです。人間はいじめるけれど、同時にまた誰かを救いたいとも思う生き物のはずですから。

二学期が始まります。
いじめに悩む子どもたちが、大人たちが、ひとりでも減りますように。