2016年10月28日金曜日

給食はトンデモメニューなのか?

一ヶ月ほど前のことだったでしょうか、友人がこんな記事をフォローしました。

「学校給食の不都合な真実〜子どもたちはこんなものを食べさせられている!〜」

(だいたいですよ。こんな感じのタイトルだったと記憶しています。細かなところの違いはお許しを。)

どうしても、教師としては反応してしまったわけです。

常日頃、給食のへんなところは気にしていましたので。


その記事は、京都の有名な料理人の方が書いていて、

・地域に根ざした出汁の導入

・生魚の導入(冷凍でなく)

を文科省や全国学校給食連合会に提案しても、門前払いにあったことが書かれていました。

確かになあ…ありえるなあ、と思いながら読ませていただきました。

しかし、学校給食の名誉のために言うならば、私の勤める小学校では、うどんがメニューのときには、10時にもなると学校中がかつおだしのにおいでいっぱいになり、教師も子どもたちも「今日は、うどんだー!」とウキウキします。

また、ハヤシライスがメニューのときは、朝から甘くて香ばしい匂いが立ち込めます。

これは、100キロあまりの玉ねぎを炒めているからです。

カレーのときは言うまでもありません。カレーなんて、喫茶店みたいに業務用缶詰でしょ、と思っていませんか?
(そうじゃない喫茶店主の方、ごめんなさい)

私の学校では、バターで小麦粉を炒めることからカレーを作ってくださっています。漂うかおりのよだれを誘うことと言ったら!

家庭でそんなカレーを食べられる子どもは少ないでしょう。

京都の有名な料理人の方、こんなふうに学校給食も素敵なところはあるのです。

しかし、です。

素敵なメニューもあれば、やはりトンデモメニューもあるのは事実です。

指摘されていましたが、たしかにごはんに牛乳はおかしいです。合いません。

しかし、やはり私もカルシウムの摂取と日本の酪農のことを考えれば、全国1000万人ほどの子どもたちが毎日牛乳を飲むことに賛成です。

しかし、トンデモメニューの中心は牛乳ではなく、パンです。

涼しい顔をして、給食メニューに居座っていますが、パンこそが悪の中枢だと私は睨んでいます。

京都の料理人の方は、冷凍食品に注目し、そこにぶら下がる業者の多さに問題点があると糾弾していました。彗眼に頭が下がります。

しかし、パンはもっとヘンです。

牛乳
パン
具だくさんスープ
ハンバーグ

というメニューなら、構いません。パンはそんなスープやシチューといっしょに出せばいいのです。

しかし、パンはもっと居座っています。

牛乳
パン
きつねうどん
鶏肉とキュウリのサラダ

とか

牛乳
パン
焼きそば
きんぴらゴボウ

とか。

パンが麺類といっしょに出ます。

パン、いらないでしょ?
炭水化物そんなにいらないでしょ?

100歩譲って、まだごはんなら、世の中にも、うどん定食なるものは存在するでしょう。

しかし、うどんや焼きそばと、パンって!

学校給食では、麺類はごはんではなく、パンといっしょに出される地域が多いのです。

なぜか?

これには、京都の料理人の方が冷凍食品に対して糾弾したような、構造があると私は睨んでいます。

これは、大げさに言うならば、小麦粉の消費や、パン製造業者(組合?)の利権が絡んだ、文科省、農水省の闇です、きっと。

日本は、大量の小麦粉を輸入しています。これは、国内産小麦の生産を阻害するほどの量と価格での輸入です。

なぜそれほどの量を輸入するかと言えば、自動車をはじめとする輸出品を支えるために、貿易の均衡を保つために小麦や大豆を輸入しなければならないからです。

輸入した小麦粉はちゃんと使い道があるんですよ、という理屈を通すための一つの手段が、週に3回の給食パンなのです。

全国の小中学生が週に3回のパンを食べると、一年間に何トンの小麦粉が消費できるかは知りませんが、その規模の大きさはぶら下がるに値する大きな利権を生んでいるはずです。

パンの回数は絶対です。
動きません。

この硬直ぶりは、毎日給食を食べていると分かります。なにか、アンタッチャブルな力を感じます。

給食とパン業者と小麦粉の輸入業者と、食料自給率を低く抑えたい農水省の強い力です、きっと。


ちなみに、食料自給率の低さは度々報じられていますが、「食料自給率のウソ」はあちこちで言われているとおり、日本は、カロリーベースの食料自給率を採用しています。

ほとんどの国はトン(重さ)ベースです。

日本は、野菜をたくさん作る国なので、野菜はカロリーがないので、作っても食料自給率はほとんど上がりません。

こんにゃく芋や白菜なんて、いくら作っても食料自給率に全く貢献しません。

農家の方を馬鹿にしたようなそんな食料自給率ってありますか?

ちなみに日本だってトンベースを採用すれば、食料自給率は70パーセントくらいになるそうです。

すごいじゃないですか!
農業立国できているじゃないですか!

しかし、農水省はあえて、カロリーベースを貫きます。

なぜか?

農業は危機に貧している‼
農家は苦しい‼
国産が食べられなくなるかも!!?

と、煽ることで、予算を分捕りたいからです。そこにぶら下がる今話題の全農も同じです。

国産小麦は、少しずつ耳にするようになりましたが、まだまだ少ないです。そんな大々的には生産できないようになっているに違いありません。

せっかくカロリーベースで抑えている食料自給率が上がってしまうからです。

というわけで、子どもたちは、食料自給率を低く抑える手伝いをしているようなものです。

私としては、なんとか給食を週に5回とも白米にしたいところです。

何十年も改良されてもいない、輸出の対価で仕方なく輸入した小麦粉を使った、パサパサのパンなんてなくなればいいのです。

うどんとバン

誰が考えても、おかしいでしょ?
(小麦粉with小麦粉だし…)

2016年7月7日木曜日

なぜ組立体操をやめられないのか?

組立体操、特にピラミッドに対しての各自治体に対応策が発表されましたが、そろそろ組立体操の季節がやってきます。

子どもたちの季節は、運動会の秋です。

しかし、教師にとっては組立体操の季節は夏。そう、夏休みです。

2学期からの指導に向けて、この夏休みにプログラムを作リます。

組立体操はしない

そんな宣言をする自治体が相次ぐ中、どことは申しませんが、私の勤める日本の端の人口数十万都市では、組立体操続行です。

その理由としては、

○我が市は、もともと人塔とピラミッドには高さ制限がある。
(えっ、そうなの? 知らなかった)

○我が市には、長年積み上げてきた指導ノウハウがある。
(うそ…伝わってませんけど…)

○我が市は、近隣校で共通演目を設定し、協議・検討している。
(してたっけ…?)

…らしいです。

しかし、ですよ。

私の知る限り、小学校および中学校で市内で組立体操によるケガ人が出なかった年はありません。

つまり、組立体操が原因のケガが毎年起こります。擦り傷や打撲などの軽傷ではありません。(擦り傷や打撲にも重傷はあるでしょうが)

骨折するくらいのケガです。

さすがに命の危険があったという話は聞きませんが、骨折する痛さや、本番に出られない辛さを感じている子どもが、市内にも毎年いるということになります。

教師の感覚は、

「何十校もあれば、一人くらいはそういうことが起こるかもな」

といったところでしょうか。

みなさんも、そう思いますか?

それとも、この感覚は世間ズレしていますか?

異物混入を考えてみます。

食品などへの異物混入は、事件のときもありますが、多くが事故です。なんらかの過失があって起こります。

しかし、一つの加工食品から、もし虫が出てくれば、まず、すべての出荷済み商品を回収し、すべての生産ラインを止め、混入経路を特定し、改善策を整備して、検査を経て、再開となるでしょう。

「一つくらい、混入はあるでしょ」

で、済ますことはありません。

長引く問題となっていエアバッグもそうです。一つに欠陥があれば、基本的にはすべてを止めて回収し、改善されなければ、再開はありません。

しかし、組立体操は違います。

毎年のように骨折する児童がいても、その学校で、その自治体で組立体操は続行です。

もちろん、怪我の報告はあります。

いつ、どこで、どのようにして、どんな怪我となったのかは、学校には報告義務があります。教育委員会へも、もちろん、それを見ていなかった家族にも。

ただ、改善策は多くの場合、とられませ

「緊張感を持ってやろう!」

などと、教師がゲキを飛ばすくらいです。

異物混入事件の改善策が工場長のゲキのみだとしたら、お話にもならないでしょう?

教育現場では、お話になっているのです。

もちろん、

○難易度の高い技に挑むとき、見ている教師を増やす。

○適宜、十分な休憩を取る。

○段階的に指導する。

みたいなことは、言うでしょう。

しかし、怪我を防ぐ解決にはなっていませんし、所詮【今一度、再徹底する】という意味であって、怪我の前後でそうかわっているとは思えないものばかりです。

組立体操において、怪我を減らす解決になるのは、

技を減らす

技をやめる

以外にはありません。

子どもの集中力や体調は、測ることができません。

10分休んだから…

昨日早く寝たから…

…じゃあ、絶対にケガをしないかというとそんなことはありません。人間がやることに、絶対はありません。

ケガをなくす(または、全員の命を守る)には、やめるしかないのです。

…なんてことを言うと、反論が来ます。


組立体操以外にもケガはあるじゃないか。

水泳だって事故が多い。でも、続けている。

何をするにしてもケガはゼロにはできない。最大限の努力をするしかない。

保護者や地域の期待はどうする?

事故はレアケースだ。ほとんどの場合は大丈夫なのに、レアケースで全体を変えるのか?

などなど。

ま、組立体操をやりたい人たちはいるのです。見たい人たちもいるのです。

確かに、迫力はあります。6年生や中学3年生のビシッとそろった動きは美しいでしょう。締めの演技にふさわしい風格があります。まして、ピラミッドや人塔のような大技になると言うまでもありません。

また、全員の気持ちが一つにならないと成し遂げられない。上に乗る者は下で支える者を思い、下で支える者は、上に乗る者を思う。そんな学びも大きい。

という教育的な一面を話す先輩にお会いしたこともあります。

でも、今、世の中が問うているのは、

そのために死ぬ人間がいていいのか? 骨折する人間がいていいのか?

…ということです。

義務教育の授業である以上、自主参加ではないのです。任意ではないのです。習い事とは違います。スポーツにケガは付きものだ、が必ずしも当てはまりません。

いいとは言えません。

言えるわけがありません。

でも、何で今になってそんな問題になるのか? 今までは大丈夫だったのだから…

と、急な世論の高まりと各自治体の方針転換に、私の勤める自治体でも戸惑う教師は多いのです。

もちろん、もし、年々ピラミッドが高層化・巨大化していたのなら、改めねばなりません。一番下の子どもには、想像を絶する重さがかかることが報道されていました。

しかし、多くの学校での組立体操は、そこまで高さや大きさを追求してはいなかったはずです。

去年も一昨年も、そして5年前も、10年前も、同じような技に取り組み、その例年通りを続けてきたはずです。

きっと、我が市が言いたいこともそういうことでしょう。

だから、高さや大きさを競ってきたようば学校や地域と一緒にするな!

我々は、堅実にやってきたんだ。

と、言いたいのでしょう。

それで、けが人がいなければいいのですが、毎年いるのです。

やめろ、と言われれば、やめざるをえないはずです。

まだそれが我が市では、大きな声にはなっていないだけです。

しかし、やめたら、何をすればいいのか?

それが、教師は考えられません。

思考停止しています。

組立体操の大団円以外で終わる運動会を見たことがないからです。想像ができません。運動会は、組立体操を中心に回っていると言ってもいいくらいです。メインイベントです。

小学校では、六年生はプログラムの一番最後に、一番長い時間を使って、演技をします。見ている子どもたちや家族の前で。

そのメインイベントがなくなる運動会を教師は思い描けないのです。

組立体操をやめた自治体は、何をするのでしょう?

ソーラン?
よさこい?
エイサー?
ヒップホップ?
ジャズダンス?

それとも、他に手があるのでしょうか?

1年生から6年生まで、6段階にそれぞれ差をつけた演目を用意するのは簡単ではありません。

以前も書きましたが、ただでさえ、教師はダンスが踊れないのです。教員向けの運動会専用ダンス振り付け講習に、大挙して押しかけるくらいですから。

きっと組立体操中止を決めた自治体では、教師たちが知恵を絞り合って、演目を考える夏になるのでしょう。
(もう、決まっているのでしょうか)

ピラミッドや大技のない、組立体操をするのか、

他の学年と同じようにダンスをするのか、

もしくはダンスや組立体操のような演技種目は全てなくなり、リレーや競技中心の運動会となるのか、

教師たちの悩みどころです。


組立体操で、ケガをする子どもたちが一人でも減りますように。命を落とす子どもが一人もいませんように。

2016年3月24日木曜日

スクールカウンセラーは救世主か?

教師は激務である

という論調もひととおり落ち着いて来たように思います。もちろん、教師が暇になったわけでも、抜本的解決がなされたわけでもありません。

ただ、メディアも世間もそして教師自身も、教師の働き方が合理的ではなく、そして現代的ではないと認識し終えたのだと思います。

私の学校だけでの話ではないと思うのですが、ここ2,3年でのスクールカウンセラー(SC)の仕事量が跳ね上がっています。

少し前までは、教師たちがSCへの依頼の仕方が分かっていなかったのもあるでしょうが、SCの先生の面談予約が取れない、なんてことは聞いたことがありませんでした。

SCの先生は、臨床心理士であり、発達に遅れがあったり、学校に馴染めない児童や保護者の相談に応じ、教師との橋渡しをするのが主な仕事だと思うのですが、週に1,2回学校へ来て、各教室を見回り、たまに面談をし…ということをしてくださっています。

が、去年くらいから、その面談予約が取りにくくなってきたのです。

私の学校では1ヶ月待ちなんてザラです。ひどいときは、3ヶ月待ちです。

別段、ひどいというのは混み具合のひどさであって、子どもの様子や教師の悩み具合の話ではありません。

もちろん、週に1,2日しか機会はありませんし、焦ってこなすようには面談できませんので、時間はかかるのですが、それにしても、そんなに面談件数が増えてきている、ということは、いったい何が起きていると考えればいいのでしょう?

教師のみなさん、いかがでしょう?

同じような状況ではありませんか?

一つは、SCという制度が学校へ馴染み始めたと言えるのかもしれません。導入当初は、いったいSCに何を頼めばいいのか?と戸惑い、遠巻きに見ていた教師たちが、SCの先生方が子どもの話も、親の話も丁寧に聞くことで、次第に子どもたちが落ち着いていく、というケースを何度も目にしたからではないでしょうか。

SCの先生たちのカウンセリングは、教師ではなかなかできないレベルのものだと教師たちが分かってきたのだと思います。

「この子の対応が難しい」

と感じ、かつ、保護者から

「先生、どうしましょう?」

と相談があれば、SCのカウンセリングを勧めるという流れが出来てきたのでしょう。

いくら教師が困っていたとしても、保護者が困っていない場合に

「カウンセリング受けられては?」

と切り出すことは、難しいですが、本当に対応が難しい場合は、校長や教頭、保健室の力を借りてでも、SCへつなごうと努めるようになりつつあります。

逆に言うのならば、SCの仕事量が増えた理由は、

教師が安易に丸投げする

からかもしれません。

教師は多忙です。

放課後の忙しさについては以前にも書きましたが、個別に指導しなければならないことや、保護者を呼んで話をしなければならないことが突発的に起きれば、なおさらです。

友人関係でトラブルが絶えない児童がいて、保護者も困っているようなら、SCの面談予約をとりあえず取り付け、対応を任せるということがあり得ると思います。

それで一応、学校としては対処しているという体裁も整います。

もちろん、教師には手に余る昨今の学校の状況を鑑みて、SCの制度ができたのですから、SCの先生には教師を助けていただきたいです。

しかし、何でもかんでもSCへ、ということになってきたのではないかと心配もするわけです。私としては。

そして、教師がSCを頼るのと同様に、保護者のみなさんもSCを頼ります。

これは、教師の質の低下、と関係があります。

教師のレベルが実際に下がっているかどうかは分かりません。それは、ここではおいておきます。

世間が考える教師の質

が低下しているのです。

小学校教員免許など、国公立や名門私大でなくても取れます。短大だって取れます。学生時代に取れるのに取らなかった人たちが親になっています。

お父さんはもちろんですが、お母さんもフルタイムで働くのが当たり前になると、教師の出すプリントや学級通信に載る文章のレベルやパソコンスキルを、自分の仕事と比べてしまいます。

もちろん、教師の質と免許はさほど関係ないでしょう。パソコンスキルなんて、なおさらです。英語力もしかり。

しかし、民間で働くお父さんお母さんは、嫌でもパソコンスキルや英語力を磨かねばならない時代なのです。そして、それを身に着けています。

そりゃ気になるでしょう。

学級通信のレイアウトやワードアートの使い方が。読みにくい改行位置が。

子どもから伝え聞く英語の時間での先生の英語力が。

教師の指導力には直接、関係ないことでも、比べやすいところを人は自分と比べます。

(もちろん、パソコンスキルも英語力も教師だってあった方がいいでしょうが)

すると、昨今のお父さんお母さんにとって、教師のレベルは下なのです。教師の質は低下していると「思われている」のです。

ならば、小学校教師のいうことにもはや説得力はありません。「教師」という肩書では、説得力がないのです。

子どもの不安に気づく。

トラブルを未然に防ぐ声掛けをする。

「できた」の自信を付けさせる。

…などの、指導力は見えにくいのです。

パソコンスキルや英語力なんかより、小学校では、はるかに大切な教師の質ですが。

見えやすいスキルが質となって、保護者の目に映っているのです。

つまり、教師じゃ話にならない…

…じゃ、臨床心理士なら…

という時代が来たということです。

臨床心理士であるSCは、話すことに説得力があり、保護者にとってその話は聞く価値があるのです。そのアドバイスは、教師のそれより力があるのです。

もちろん、実際にSCの力は大きく、教師を助けてくれています。何もSCはその資格によるイメージだけの力ではありません。

しかし、そのイメージの力は大きく、多くの保護者は、教師の話などそっちのけになる場合も少なくありません。

…ならば、教師も困ったときの神頼みかのように、案件を丸投げするようになったのではないかと思います。

SCの先生方、

これからしばらくはお力を借りることが多くなると思います。

「それくらい、担任で対応してよ」

と思われるケースが多いと思いますが、それでも可能な限り教師と保護者を、そして何より子どもたちを助けてやってください。

保護者の中には(ひょっとしたら教師の中にも)、カウンセラーに相談したら、今の問題のあれこれを一発解決できる素晴らしい方法が見つかると過剰な期待を持っている場合もあるかもしれません。

また、時間や手間をかけたのに、お礼の一つどころか、恨み節しか残してもらえない場合もあるかもしれません。

それでも、私の数少ない経験ですが、SCの先生に相談することにより、日に日に顔が明るくなった子どもや、子どもを一歩引いて温かく見守ろうと努め始めた保護者の方を何人か知っています。

SCというシステムが今の子どもたちを救うベストの方法かどうかは分かりません。しかし、対処療法的であったとしても、現在はSCの力に頼って学校は回っています。

学校と保護者、そして子どもの真ん中に立って、すべての話を聞き、コミュニケーションを取る大変なお仕事かと思いますが、頼りにしている教師がたくさんいます。

よろしくお願いします。

私は…丸投げにならないようにします!

2016年1月26日火曜日

性格が先か? 学力が先か?

みなさま、今さらですが、新年あけましておめでとうございます。1ヶ月も過ぎて、おめでとうも何もないですが、2016年の気分新たなスタートがまだ続いていますでしょうか。

私は、年明け早々、我が子の冬休みの宿題への取り組み方が不安になったという保護者の方から一通のお手紙を受け取ることからスタートしました。

宿題を見ていると、文章題はもちろん、筆算などの計算もおぼつかない、このまま学年が終わってしまうのなら心配で仕方ない

というものでした。

お叱り、ということではないのですが、

「先生、ちゃんと見てくれているんですか?」

と言われたような気がしました。

夏休みや冬休みには、保護者の方も子どもの学習を見る機会が増えるのか、普段はお仕事で忙しい家庭も(時に放任主義なのかな、と思う家庭も)、我が子の勉強を気にされることがあります。

その子を仮にAさんとしましょう。

Aさんは、確かに勉強ができる方ではありません。持ち物も管理するのが苦手で、机やロッカーはいつも散らかっています。集中力は長く続きませんし、姿勢も安定しにくいです。字も決してきれいな方とは言えません。

なんだか悪いことばかり書きましたが、素敵なところも同じくらいあります。

Aさんは、友だちに悪く言われることはまずありません。いつもたくさんの友人たちに囲まれています。周りを楽しい言動でいつも楽しませてくれます。笑いを取るときも、決して誰かを誹謗中傷して笑いに繋げることはありません。また、造形物をつくる能力に長け、豊かな発想力はピカ一です。

そんなAさんの保護者からのお手紙でした。

懇談会などで、Aさんの学習については私も現状を伝えていましたし、成績表も誰が見てもAさんは勉強に苦労している、という内容だったので、保護者の方のいきなりのお手紙に驚いたのですが、保護者の方にしてみれば、

「思った以上にひどい」

ということだったのでしょう。もしくは、年末年始に親族やお知り合いと話をする機会があって、悠長に構えてはいられなくなったのかもしれません。

私は、Aさんの授業での取り組みや宿題を丁寧に見ることにして、気になることやお家でお願いしたいことを気づいた時点で報告することにしました。

家の年収は子どもの学力に比例するだの、親の学力は子どもの学力と相関があるだの、よく言われますが、私の見聞きしている範囲では、

保護者の関心と子どもの学力は比例する

と言えるかもしれません。

ですから、保護者から上記のようなお手紙をいただいたのならば、その時はAさんの学力は改善するチャンスであるはずなのです。

保護者の関心というのは、塾に行かせるとか、通信教育を申し込むとかそういうことよりも、子どもたちがつまずいていたり、分からなくなっているときに、一緒に考えてあげる、その姿勢のことです。

「先生に聞いてきなさい」

というのはラクです。

そして、間違ってはいません。教師に聞けばいいのです。教師が教えた勉強であり、教師が出した宿題なのですから。

しかし、子どもたちが宿題をしながら

「分からーん」

「分かんない、何なのこれ」

と、ぶつぶつ文句を行ったり、途中で投げ出したりし始めたときは、

「ちゃんと授業聞かないからでしょ」

「先生に質問しなきゃ」

とか、

「問題よく読みなさい」

とかではなく、

「となりで見ててあげるから、やってみて」

「一緒に考えよっか」

などという方がいいのでは?と最近は思っています。

授業中も同じなのですが、分からなくて文具で遊び始める子やおしゃべりをしてしまう子は、そばまで行って「ちょっとやってみて」とか「先生ともう一回問題読もうか」と言うだけで、なぜか問題が解けてしまうのです。

彼らはただ単に甘えているのではないと思います。「分かんない」というときは本当に「分かんない」のです。

でも、誰かがそばで見てくれていたり、手を貸そうとしてくれるだけで、解けてしまうのです。ブレイクスルーができてしまうのです。

その力のことを何と言うのでしょう?

私は知りません。

しかし、とにかく応援は力になるのです。

教師や親が隣に来ると、子どもは本気になるのでしょうか。やる気スイッチが入るのでしょうか。

そして、そんな「力」を発揮するのは、独断と偏見ですが、Aさんのような「ソワソワさん」タイプに多いような気がするのです。

ソワソワさんタイプは、能力を持っていても、そのソワソワした性格により、能力が十分に発揮できていないように見えます。

ソワソワさんが「分からない」と言うときは、早とちりや勘違いをしていることが少なくありません。

Aさんが学力を付けていけば、物事に集中できるようになり、次第に「ソワソワ」が落ち着いてくるのか、それとも反対に「ソワソワ」がなくなれば、学力がついてくるのか、それはまだ私には分かりません。

性格が先か? 学力が先か?

分かりませんが、結論なんか待てませんので、Aさんの性格も学力も手助けしながら、とにかく2016年のスタートです。

2015年10月26日月曜日

教師はなぜ異動するのか?

実は私は、今年から新しい学校に勤めています。半年前の年度末、人事異動があったわけです。ようやく気分も落ち着いてきたので、異動について書いてみます。

みなさんも思い返せば、新しい先生が来たり、自分がお世話になった先生が去っていったり、そんな先生が学校を変わる場面を少しくらいは覚えているはずです。

私の勤める自治体では、教師の異動は基本的にその自治体内=管内を出ることはありません。
自分が望めば別です。

また、都道府県や政令指定都市レベルで異動しようと思えば、面接などの試験を受け直す必要もあります。

しかし、特別な異動願いを出さないかぎりは、自治体内での異動となります。

私の自治体では、だいたいですが5年〜10年くらいで教師は学校を変わります。

隣の学校に移ることもあれば、遠くの学校に行く場合もあります。自治体によって様々なようですが、

・学校を指名して希望できる自治体

・地域の希望は出せる自治体

・異動命令を受けるだけの自治体

など、ところ変われば事情が変わります。

ちなみに、私の場合は、「地域を希望する」でした。

私は電車通勤が希望でしたので、沿線を希望し今の学校へ移りました。希望は通ったと言えば通ったのですが、駅から歩くには遠いため、駅に自転車を置いています。

最初、年度末に自分の転任先聞いた時、そこには知り合いがいませんでしたし、良くない噂も耳にしましたので、不安が重なりましたが、よくよく考えれば新任のときにはそもそも何も知らなかったわけで、「なんとかなるか」と、思い直すことにしました。

しかし、ここでもし、自分の転任先がどうしても受け入れられない場合は、教育委員会へ赴いて申し立てをすることもできるとか…
(また組合に所属する教師は組合を通して変更希望を出すこともできるとかできないとか…)

というわけで、申し立ても何もせず、「置かれた場所で咲きなさい」のごとく、今の学校へ移ってまいりました。

知り合いがいないことも、風の噂で聞いたことも全くの杞憂で、慣れないながらもなんとかやっています。

(ブログの更新が遅いのも、こんな適応期間だからと思っていただければ…)

しかし、同じ市内とはいえ、学校が違えばやり方が違う、ということがたくさんあって、自分が慣れていないものですから、ついつい

「なんでこんな面倒なことをするのか」
「前任校のやり方の方がいいなあ」

なんて、文句ばかりが浮かんでくるこの半年でした。

ここで、ハッと気づいたわけです。
なんで教師は異動するのか?ということを。

ずっと、疑問がありました。
子どもにも、親御さんたちにも評判がよく、また教師の中でも信頼を集める先生が移動してしまうことは、学校にとっては損失であろうし、行政としてもロスが大きいにでは?と。

(私は親御さんから電話やアンケートで苦情をいただくことも多々あり、決して惜しまれるような教師ではありません)

新年度に転任した教師が元の学校へ挨拶に来る機会があるのですが、そのときに本来は参加できないはずの親御さんたちが来られて、学校の玄関や駐車場でお世話になった先生に挨拶をしている場面を何度も見てきました。

(自分もいつかはそんな教師になりたいものです)

しかし、教師がある程度の一定期間をもって、市内や区内の学校をぐるぐる異動することは、公教育としては大きなメリットがあります。

それは、学校の質を平均化する、ということです。

人事異動の度に、教師はその学校で学んだノウハウをもって次の学校に移ります。それが双方向に、いや網目状に行われます。

毎年人事異動があることで、あらゆる学校がノウハウを輸出する一方で、多数のノウハウを輸入することになります。

これは、ひとつの学校が突出する足かせにもなるでしょうが、ひとつの学校が取り残されることも防ぎます。

住民のみなさまに等しく公共サービスを提供するシステムとしてはよく出来ていると言えるかもしれません。

しかし、です。

その弊害もまた教師を苦しめます。

学校とは毎年同じような行事を多少の改善を加えながら、毎年同じようにやることを期待されていますから、もしメンバーがあまり変わらなければ、暗黙の了解でどんどん進めることができるかもしれません。

しかし、毎年メンバーの3分の1が入れ替わるとしたら、毎年同じ説明をして、全員が理解する必要があります。

これが職員会議を長くしています。

また、教師がころころ入れ替わること、ひとつのプロジェクトが進みにくいのは否めません。担当が変われば、やり方も変わります。これはもっとも、学校だけでなく、公共サービス一般に言えることかもしれません。

さらに、業務引き続きの多さも年度末や新学期を忙しくさせ、引き継ぎ資料がまるで毎年の地層のように積み重なります。

新しい担当者は、果たしてそれをどう使うのやら、また捨ててもいいのやらわからずに、持ち続けるのです。

そしてまた、自分が資料の地層をさらに分厚くして次の人へ渡すことになります。

・・・と、いけませんいけません。つい、文句ばかりが口を出ます。

経験を積んで異動することは良いことです。自分は柔軟になりますし、別の視点を持つことにもなります。

なれない日々ですが、楽しく頑張ります!