2016年3月24日木曜日

スクールカウンセラーは救世主か?

教師は激務である

という論調もひととおり落ち着いて来たように思います。もちろん、教師が暇になったわけでも、抜本的解決がなされたわけでもありません。

ただ、メディアも世間もそして教師自身も、教師の働き方が合理的ではなく、そして現代的ではないと認識し終えたのだと思います。

私の学校だけでの話ではないと思うのですが、ここ2,3年でのスクールカウンセラー(SC)の仕事量が跳ね上がっています。

少し前までは、教師たちがSCへの依頼の仕方が分かっていなかったのもあるでしょうが、SCの先生の面談予約が取れない、なんてことは聞いたことがありませんでした。

SCの先生は、臨床心理士であり、発達に遅れがあったり、学校に馴染めない児童や保護者の相談に応じ、教師との橋渡しをするのが主な仕事だと思うのですが、週に1,2回学校へ来て、各教室を見回り、たまに面談をし…ということをしてくださっています。

が、去年くらいから、その面談予約が取りにくくなってきたのです。

私の学校では1ヶ月待ちなんてザラです。ひどいときは、3ヶ月待ちです。

別段、ひどいというのは混み具合のひどさであって、子どもの様子や教師の悩み具合の話ではありません。

もちろん、週に1,2日しか機会はありませんし、焦ってこなすようには面談できませんので、時間はかかるのですが、それにしても、そんなに面談件数が増えてきている、ということは、いったい何が起きていると考えればいいのでしょう?

教師のみなさん、いかがでしょう?

同じような状況ではありませんか?

一つは、SCという制度が学校へ馴染み始めたと言えるのかもしれません。導入当初は、いったいSCに何を頼めばいいのか?と戸惑い、遠巻きに見ていた教師たちが、SCの先生方が子どもの話も、親の話も丁寧に聞くことで、次第に子どもたちが落ち着いていく、というケースを何度も目にしたからではないでしょうか。

SCの先生たちのカウンセリングは、教師ではなかなかできないレベルのものだと教師たちが分かってきたのだと思います。

「この子の対応が難しい」

と感じ、かつ、保護者から

「先生、どうしましょう?」

と相談があれば、SCのカウンセリングを勧めるという流れが出来てきたのでしょう。

いくら教師が困っていたとしても、保護者が困っていない場合に

「カウンセリング受けられては?」

と切り出すことは、難しいですが、本当に対応が難しい場合は、校長や教頭、保健室の力を借りてでも、SCへつなごうと努めるようになりつつあります。

逆に言うのならば、SCの仕事量が増えた理由は、

教師が安易に丸投げする

からかもしれません。

教師は多忙です。

放課後の忙しさについては以前にも書きましたが、個別に指導しなければならないことや、保護者を呼んで話をしなければならないことが突発的に起きれば、なおさらです。

友人関係でトラブルが絶えない児童がいて、保護者も困っているようなら、SCの面談予約をとりあえず取り付け、対応を任せるということがあり得ると思います。

それで一応、学校としては対処しているという体裁も整います。

もちろん、教師には手に余る昨今の学校の状況を鑑みて、SCの制度ができたのですから、SCの先生には教師を助けていただきたいです。

しかし、何でもかんでもSCへ、ということになってきたのではないかと心配もするわけです。私としては。

そして、教師がSCを頼るのと同様に、保護者のみなさんもSCを頼ります。

これは、教師の質の低下、と関係があります。

教師のレベルが実際に下がっているかどうかは分かりません。それは、ここではおいておきます。

世間が考える教師の質

が低下しているのです。

小学校教員免許など、国公立や名門私大でなくても取れます。短大だって取れます。学生時代に取れるのに取らなかった人たちが親になっています。

お父さんはもちろんですが、お母さんもフルタイムで働くのが当たり前になると、教師の出すプリントや学級通信に載る文章のレベルやパソコンスキルを、自分の仕事と比べてしまいます。

もちろん、教師の質と免許はさほど関係ないでしょう。パソコンスキルなんて、なおさらです。英語力もしかり。

しかし、民間で働くお父さんお母さんは、嫌でもパソコンスキルや英語力を磨かねばならない時代なのです。そして、それを身に着けています。

そりゃ気になるでしょう。

学級通信のレイアウトやワードアートの使い方が。読みにくい改行位置が。

子どもから伝え聞く英語の時間での先生の英語力が。

教師の指導力には直接、関係ないことでも、比べやすいところを人は自分と比べます。

(もちろん、パソコンスキルも英語力も教師だってあった方がいいでしょうが)

すると、昨今のお父さんお母さんにとって、教師のレベルは下なのです。教師の質は低下していると「思われている」のです。

ならば、小学校教師のいうことにもはや説得力はありません。「教師」という肩書では、説得力がないのです。

子どもの不安に気づく。

トラブルを未然に防ぐ声掛けをする。

「できた」の自信を付けさせる。

…などの、指導力は見えにくいのです。

パソコンスキルや英語力なんかより、小学校では、はるかに大切な教師の質ですが。

見えやすいスキルが質となって、保護者の目に映っているのです。

つまり、教師じゃ話にならない…

…じゃ、臨床心理士なら…

という時代が来たということです。

臨床心理士であるSCは、話すことに説得力があり、保護者にとってその話は聞く価値があるのです。そのアドバイスは、教師のそれより力があるのです。

もちろん、実際にSCの力は大きく、教師を助けてくれています。何もSCはその資格によるイメージだけの力ではありません。

しかし、そのイメージの力は大きく、多くの保護者は、教師の話などそっちのけになる場合も少なくありません。

…ならば、教師も困ったときの神頼みかのように、案件を丸投げするようになったのではないかと思います。

SCの先生方、

これからしばらくはお力を借りることが多くなると思います。

「それくらい、担任で対応してよ」

と思われるケースが多いと思いますが、それでも可能な限り教師と保護者を、そして何より子どもたちを助けてやってください。

保護者の中には(ひょっとしたら教師の中にも)、カウンセラーに相談したら、今の問題のあれこれを一発解決できる素晴らしい方法が見つかると過剰な期待を持っている場合もあるかもしれません。

また、時間や手間をかけたのに、お礼の一つどころか、恨み節しか残してもらえない場合もあるかもしれません。

それでも、私の数少ない経験ですが、SCの先生に相談することにより、日に日に顔が明るくなった子どもや、子どもを一歩引いて温かく見守ろうと努め始めた保護者の方を何人か知っています。

SCというシステムが今の子どもたちを救うベストの方法かどうかは分かりません。しかし、対処療法的であったとしても、現在はSCの力に頼って学校は回っています。

学校と保護者、そして子どもの真ん中に立って、すべての話を聞き、コミュニケーションを取る大変なお仕事かと思いますが、頼りにしている教師がたくさんいます。

よろしくお願いします。

私は…丸投げにならないようにします!

2016年1月26日火曜日

性格が先か? 学力が先か?

みなさま、今さらですが、新年あけましておめでとうございます。1ヶ月も過ぎて、おめでとうも何もないですが、2016年の気分新たなスタートがまだ続いていますでしょうか。

私は、年明け早々、我が子の冬休みの宿題への取り組み方が不安になったという保護者の方から一通のお手紙を受け取ることからスタートしました。

宿題を見ていると、文章題はもちろん、筆算などの計算もおぼつかない、このまま学年が終わってしまうのなら心配で仕方ない

というものでした。

お叱り、ということではないのですが、

「先生、ちゃんと見てくれているんですか?」

と言われたような気がしました。

夏休みや冬休みには、保護者の方も子どもの学習を見る機会が増えるのか、普段はお仕事で忙しい家庭も(時に放任主義なのかな、と思う家庭も)、我が子の勉強を気にされることがあります。

その子を仮にAさんとしましょう。

Aさんは、確かに勉強ができる方ではありません。持ち物も管理するのが苦手で、机やロッカーはいつも散らかっています。集中力は長く続きませんし、姿勢も安定しにくいです。字も決してきれいな方とは言えません。

なんだか悪いことばかり書きましたが、素敵なところも同じくらいあります。

Aさんは、友だちに悪く言われることはまずありません。いつもたくさんの友人たちに囲まれています。周りを楽しい言動でいつも楽しませてくれます。笑いを取るときも、決して誰かを誹謗中傷して笑いに繋げることはありません。また、造形物をつくる能力に長け、豊かな発想力はピカ一です。

そんなAさんの保護者からのお手紙でした。

懇談会などで、Aさんの学習については私も現状を伝えていましたし、成績表も誰が見てもAさんは勉強に苦労している、という内容だったので、保護者の方のいきなりのお手紙に驚いたのですが、保護者の方にしてみれば、

「思った以上にひどい」

ということだったのでしょう。もしくは、年末年始に親族やお知り合いと話をする機会があって、悠長に構えてはいられなくなったのかもしれません。

私は、Aさんの授業での取り組みや宿題を丁寧に見ることにして、気になることやお家でお願いしたいことを気づいた時点で報告することにしました。

家の年収は子どもの学力に比例するだの、親の学力は子どもの学力と相関があるだの、よく言われますが、私の見聞きしている範囲では、

保護者の関心と子どもの学力は比例する

と言えるかもしれません。

ですから、保護者から上記のようなお手紙をいただいたのならば、その時はAさんの学力は改善するチャンスであるはずなのです。

保護者の関心というのは、塾に行かせるとか、通信教育を申し込むとかそういうことよりも、子どもたちがつまずいていたり、分からなくなっているときに、一緒に考えてあげる、その姿勢のことです。

「先生に聞いてきなさい」

というのはラクです。

そして、間違ってはいません。教師に聞けばいいのです。教師が教えた勉強であり、教師が出した宿題なのですから。

しかし、子どもたちが宿題をしながら

「分からーん」

「分かんない、何なのこれ」

と、ぶつぶつ文句を行ったり、途中で投げ出したりし始めたときは、

「ちゃんと授業聞かないからでしょ」

「先生に質問しなきゃ」

とか、

「問題よく読みなさい」

とかではなく、

「となりで見ててあげるから、やってみて」

「一緒に考えよっか」

などという方がいいのでは?と最近は思っています。

授業中も同じなのですが、分からなくて文具で遊び始める子やおしゃべりをしてしまう子は、そばまで行って「ちょっとやってみて」とか「先生ともう一回問題読もうか」と言うだけで、なぜか問題が解けてしまうのです。

彼らはただ単に甘えているのではないと思います。「分かんない」というときは本当に「分かんない」のです。

でも、誰かがそばで見てくれていたり、手を貸そうとしてくれるだけで、解けてしまうのです。ブレイクスルーができてしまうのです。

その力のことを何と言うのでしょう?

私は知りません。

しかし、とにかく応援は力になるのです。

教師や親が隣に来ると、子どもは本気になるのでしょうか。やる気スイッチが入るのでしょうか。

そして、そんな「力」を発揮するのは、独断と偏見ですが、Aさんのような「ソワソワさん」タイプに多いような気がするのです。

ソワソワさんタイプは、能力を持っていても、そのソワソワした性格により、能力が十分に発揮できていないように見えます。

ソワソワさんが「分からない」と言うときは、早とちりや勘違いをしていることが少なくありません。

Aさんが学力を付けていけば、物事に集中できるようになり、次第に「ソワソワ」が落ち着いてくるのか、それとも反対に「ソワソワ」がなくなれば、学力がついてくるのか、それはまだ私には分かりません。

性格が先か? 学力が先か?

分かりませんが、結論なんか待てませんので、Aさんの性格も学力も手助けしながら、とにかく2016年のスタートです。

2015年10月26日月曜日

教師はなぜ異動するのか?

実は私は、今年から新しい学校に勤めています。半年前の年度末、人事異動があったわけです。ようやく気分も落ち着いてきたので、異動について書いてみます。

みなさんも思い返せば、新しい先生が来たり、自分がお世話になった先生が去っていったり、そんな先生が学校を変わる場面を少しくらいは覚えているはずです。

私の勤める自治体では、教師の異動は基本的にその自治体内=管内を出ることはありません。
自分が望めば別です。

また、都道府県や政令指定都市レベルで異動しようと思えば、面接などの試験を受け直す必要もあります。

しかし、特別な異動願いを出さないかぎりは、自治体内での異動となります。

私の自治体では、だいたいですが5年〜10年くらいで教師は学校を変わります。

隣の学校に移ることもあれば、遠くの学校に行く場合もあります。自治体によって様々なようですが、

・学校を指名して希望できる自治体

・地域の希望は出せる自治体

・異動命令を受けるだけの自治体

など、ところ変われば事情が変わります。

ちなみに、私の場合は、「地域を希望する」でした。

私は電車通勤が希望でしたので、沿線を希望し今の学校へ移りました。希望は通ったと言えば通ったのですが、駅から歩くには遠いため、駅に自転車を置いています。

最初、年度末に自分の転任先聞いた時、そこには知り合いがいませんでしたし、良くない噂も耳にしましたので、不安が重なりましたが、よくよく考えれば新任のときにはそもそも何も知らなかったわけで、「なんとかなるか」と、思い直すことにしました。

しかし、ここでもし、自分の転任先がどうしても受け入れられない場合は、教育委員会へ赴いて申し立てをすることもできるとか…
(また組合に所属する教師は組合を通して変更希望を出すこともできるとかできないとか…)

というわけで、申し立ても何もせず、「置かれた場所で咲きなさい」のごとく、今の学校へ移ってまいりました。

知り合いがいないことも、風の噂で聞いたことも全くの杞憂で、慣れないながらもなんとかやっています。

(ブログの更新が遅いのも、こんな適応期間だからと思っていただければ…)

しかし、同じ市内とはいえ、学校が違えばやり方が違う、ということがたくさんあって、自分が慣れていないものですから、ついつい

「なんでこんな面倒なことをするのか」
「前任校のやり方の方がいいなあ」

なんて、文句ばかりが浮かんでくるこの半年でした。

ここで、ハッと気づいたわけです。
なんで教師は異動するのか?ということを。

ずっと、疑問がありました。
子どもにも、親御さんたちにも評判がよく、また教師の中でも信頼を集める先生が移動してしまうことは、学校にとっては損失であろうし、行政としてもロスが大きいにでは?と。

(私は親御さんから電話やアンケートで苦情をいただくことも多々あり、決して惜しまれるような教師ではありません)

新年度に転任した教師が元の学校へ挨拶に来る機会があるのですが、そのときに本来は参加できないはずの親御さんたちが来られて、学校の玄関や駐車場でお世話になった先生に挨拶をしている場面を何度も見てきました。

(自分もいつかはそんな教師になりたいものです)

しかし、教師がある程度の一定期間をもって、市内や区内の学校をぐるぐる異動することは、公教育としては大きなメリットがあります。

それは、学校の質を平均化する、ということです。

人事異動の度に、教師はその学校で学んだノウハウをもって次の学校に移ります。それが双方向に、いや網目状に行われます。

毎年人事異動があることで、あらゆる学校がノウハウを輸出する一方で、多数のノウハウを輸入することになります。

これは、ひとつの学校が突出する足かせにもなるでしょうが、ひとつの学校が取り残されることも防ぎます。

住民のみなさまに等しく公共サービスを提供するシステムとしてはよく出来ていると言えるかもしれません。

しかし、です。

その弊害もまた教師を苦しめます。

学校とは毎年同じような行事を多少の改善を加えながら、毎年同じようにやることを期待されていますから、もしメンバーがあまり変わらなければ、暗黙の了解でどんどん進めることができるかもしれません。

しかし、毎年メンバーの3分の1が入れ替わるとしたら、毎年同じ説明をして、全員が理解する必要があります。

これが職員会議を長くしています。

また、教師がころころ入れ替わること、ひとつのプロジェクトが進みにくいのは否めません。担当が変われば、やり方も変わります。これはもっとも、学校だけでなく、公共サービス一般に言えることかもしれません。

さらに、業務引き続きの多さも年度末や新学期を忙しくさせ、引き継ぎ資料がまるで毎年の地層のように積み重なります。

新しい担当者は、果たしてそれをどう使うのやら、また捨ててもいいのやらわからずに、持ち続けるのです。

そしてまた、自分が資料の地層をさらに分厚くして次の人へ渡すことになります。

・・・と、いけませんいけません。つい、文句ばかりが口を出ます。

経験を積んで異動することは良いことです。自分は柔軟になりますし、別の視点を持つことにもなります。

なれない日々ですが、楽しく頑張ります!

2015年10月10日土曜日

教師の宴会はだれが払うのか?

夏休み前に書いたきり、運動会が終わるまでサボっていました。今年はサボりすぎです。
毎日、働いていると、これも書きたいなあ、あれも書きたいなあと思うのですが、思うだけで行動ができません。
そう思っているうちに、思いついたネタが頭をすり抜けていくのです。

今年度も半分終わりました。
後半、頑張ります。


さて、教科書もだんだん下に変わっていくこの頃ですが、気楽に

「教師の宴会」

について書いてみようと思います。

サラリーマンからの中途組の私としては驚くことも多かったので、教師ではないみなさんが読まれたらきっと新鮮に思われるのではないでしょうか。

また教師のみなさんでも、うちの地域は違うよ、なんてことを思いながら読んでくれるかもしれません。


まず、普段の「飲み」について。

これはあまりサラリーマンのときと変わりませんが、教師ならではとして、

「飲むなら自分の学校の校区は避けようか」

ということがあります。

保護者や子ども、教え子たちの目があるところでは落ち着いて飲めないわけですね。繁華街に近い学校はそうも言ってられない面はありますが。

私も何度か飲んでいる店で保護者や子どもに会ったことがありますが(最近は居酒屋で家族の夕飯をすることが増えているんですかね?)、みなさん知らぬ顔をしてくださったり、目配せ程度でそっとしておいてくださます。ありがとうございます。

もちろん、地域が違えば校区内で保護者の方々と仲良く飲んでいる先生もいらっしゃると思います。

「昔はお父さんお母さんとよく飲みに行ったもんよ」

なんて、もう引退されたある先生から聞かされたもんですが、現在では私の周りでそんなことをされている先生は知りません。

よっぽど信頼関係を築かれているのではないでしょうか。

思えばサラリーマンのときは、会社のそばでばかり飲んでいました。わざわざ離れて飲むなんてことはありません。
ただ、得意先のそばに出かけて行って飲むなんてこともありませんでしたから、やはり仕事のお付き合いとお酒は分けていると言えるのかもしれませんが。


さて、そんな校区を避けて羽を伸ばす教師ですが、公務員だからなのか、役職がないからなのか、「おごる」文化があまりありません。
(私の周りだけですか?)


サラリーマンの頃は、私も駆け出しだったため、部長や課長はもちろん、係長やさほど歳の変わらない主任にまでよくおごってもらいました。

私は誘われて飲みに行くわけですが、イヤな付き合いでもないし、仕事の説教も演説もありません。

それでも若輩だった私は上司や先輩と飲みに行って自分が払った記憶がほとんどありません。
もちろん、会社によるのかもしれませんが。

一方で教師はというと、いつも割り勘です。

20代と50代が同じ場にいてもだいたい割り勘です。中には

「おれが一万円出すから、あとは君たちで割って」

なんていう方もいらっしゃいますが、たいていはみんな同じように頭割りします。

ただ年齢に関係なく、教頭校長になると多めに出してくれます。
(公務員は年功序列のため、役職手当なんて微々たるもので年配のヒラ教師の方が給料が多いなんてことはザラです)

私は教育現場に入ったときは、もうそれなりの年齢でしたが、新人の先生たちと飲みに行っておごろうとしても

「いやいや、そんなわけにはいきません!」

と何度も断られました。

今ではすっかり自分がおごろうなんて意識はすっ飛んでしまいました。自分が若い頃はたくさんおごってもらったのに、ひどい人間です。

教師は20代だろうが、60代だろうが、担任を持てばする仕事は同じですから、他の職業よりは平等意識が強いのかもしれません。


最後に、宴会について書いておきます。

働いていると色々な宴会があります。

忘年会や新年会はもちろん、決起集会やなんとか大会など、職員総出で出席する宴会です。

今、教師としても、昔、サラリーマンとしてもたくさん経験してきました。

サラリーマン時代ならば、ホテルでやるにせよ、居酒屋でやるにせよ、費用は会社持ちでした。
きっと、福利厚生費かなんか落ちているのでしょう。いわゆる経費です。

それが決起集会だろうが、忘年会だろうが、社員の持ち出しはないはずです。


じゃあ、教師の場合はどうなのでしょう?

教師の忘年会の経費は、教育委員会が払うのでしょうか?
各自治体が払うのでしょうか?
それとも各学校にはそんな予算が計上されているのでしょうか?

否、教師が払うのです。

教師はそのために各学校で毎月2〜3千円を積み立てています。
それを忘年会や送別会の費用として使うのです。その会ごとに費用を集める場合もありますが、ホテルや会場を借りてするような会は、その積み立て金から払います。

忘年会の費用を自分で払うのか!

と最初はびっくりしましたが、思えば当たり前のことで、そんなお金が税金から支払われるわけはありません。
私は知りませんが、きっとあらゆる公務員がそうなのではないでしょうか。


最近、公務員の共済がなくなり、社会保険と一本化されました。一つ公務員の利権が減ったのです。

共済の優遇ぶりは、メディアでも度々報道されてきました。一本化は致し方ないことかもしれません。

しかし、教師には接待交際費も福利厚生費もありません。福利厚生は互助会という財団法人や社団法人が担っていますが、所詮は積み立てた自分のお金ですし、さすがに飲み代までをカバーしていません。

接待交際費も福利厚生費もないならば、共済などの多少の利得はお許し願えれば助かりますが、公に奉仕する公務員ならば致し方ありません。


というわけで、年末年始、年度末年度始め、など、教師たちがあちこちで忘年会だの送別会だのをすると思います。もし、お見かけしましたら、

「ああ、彼らは自費で飲んでいるのか」

と温かく見守ってくださいませ。


教職員のみなさま、楽しいお酒を!

2015年7月8日水曜日

授業参観はハレの日か?

私の勤める小学校ではこの前、今年2回目の授業参観が終わりました。

※すみません。書いている途中でサボりました。2回目の授業参観はとっくの前に終わっています。もう、夏休みがやってきます。更新が遅くてすみません※

授業参観は、私も子どもたちも普段よりはどうしても力が入りますから、ときに積極的になり、ときに空回りをします。

思う以上の授業ができるときもあれば、思うようにはいかないときもあります。

が、そのうまくいったり、いかなかったりが普段の授業なので、「いつも通り」を見せる授業参観としては、それでもいいのかもしれません。

問題は、授業参観はどこまで「いつも通り」なのか?

ということです。

教師のみなさん、いかがです?

私の場合、授業参観は、いつも通りでもあり、いつもと違うとも言えます。

それを

「服装」
「教室環境」
「名前の呼び方」
「発表」
「仕込み」

の5つの点で整理してみようと思います。半分は自分のために。もう半分は、同じ教職を選んだ人たちの参考のため、そして、わが子の授業時間での様子が気になる親御さんたちのために。

「服装」

タイトルでも書いたように、授業参観はもうハレの場ではありません。保護者のみなさんもジーパンにTシャツで来られます。ツーピースにパールのネックレスの時代はとっくに終わっていると言っていいでしょう。

もちろん、子どもたちも同様です。授業参観だからと普段はジャージにTシャツの男の子が、チノパンにシャツを着てくる…なんて姿もかつてはあったと聞いていますが、今はありません。

女の子も同様です。
音楽会などの大きな発表の場をのぞけば、男子も女子も「いつも通り」です。

しかし、服装からして「いつも通り」ではない人たちがいます。

そう、教師です。

ひょっとしたら、教師の服装もいつも通りでやろう、という学校もあるかもしれませんし、私はいつも通りだ、という先生も数多くいらっしゃるでしょう。

しかし、多くの教師は普段はジャージなのに授業参観ではスーツを着たり、普段はジーパンにTシャツでも、授業参観にはスカートとシャツを着る、ということをしています。
私の知る限り。

子どもたちは言います。
「先生、きれいな格好してきた〜」
「お母さんたちが来るからってカッコつけてる〜」

授業参観が始まる前には子どもたちのそんなツッコミを浴びることになります。

それを楽しめる子どもたちは、授業参観には普段よりもテンションが上がって、たくさん手を上げたり、手を上げるなんてまどろっこしいことすらままならず、いきなり答えを叫んだりします。

一方、教師がスーツを着ることで、構えてしまう子どもたちもいると思います。もちろんスーツだけのせいではありません。後ろには普段はいない親たちが並んでいるのですから。

教室の前も後ろも「いつも通り」ではありません。

そのくせにスーツを着込んだ教師が

「みんな、いつも通りでいいからね」

なんて言ったりするのです。

そんな子どもたちは、授業参観では手を挙げなくなってしまいます。

普段通りを見せるのが授業参観の理想ではあるけれど、教師が普段通りではないのですから、そもそもそんな理想が間違っていることになります。

いつもと違う状況で張り切る子どもたち、固まってしまう子どもたち、そして変わらない子どもたち、子どもはいろいろです。

「教室環境」

さすがに教室はいつもと同じだろう、と思われる人も多いかと思いますが、やはり授業参観の日は少し違うのです。
「普段は来ない人たちが来る」というだけで、知らず知らず、「普段通り」が変わってしまいます。

まず、掃除。

家だってお客さんが来るときには、いつもよりきれいに掃除するものだと思いますが、学校も似たようなものです。
もちろん、子どもたちの掃除の時間が増えたり長くなったりはしませんので、いつもよりきれいに掃除するのは、教師です。

そして教頭先生や校長先生もいつもよりウロウロウロウロして、汚れているところ、散らかっているところを探しては指摘したりするのです。

また、ベテランの先生も、授業参観で授業のことで頭いっぱいになった若い先生が気が付かないところをフォローします。

雑巾かけに雑巾をきれいに干し直したり、乱れたほうきを整えたり、フックから落ちてしまった子どもたちの手さげかばんなどを、そっと直したりしています。

というわけで、ふだんよりは教室廊下はきれいですし、片付いているのが授業参観です。

そして、掲示物。

授業参観に合わせて作品や新聞を作ったり、習字を書いたりはしませんが、作りっぱなし、書きっぱなっしになっていたものを慌てて教師が掲示するのが、参観日前日や前々日です。

普段から、子どもたちが作るたびに掲示すればいいのですが、壁の上やワイヤーに掲示するとなるとついつい後回しになってしまうものです。

でも、参観日にきたお母さん、お父さんたちは、授業をずっと聞いていることは少なく、自分の子どもが書いた絵が他の子と比べてどうなのか、よく名前を聞くクラスメイトはどんな絵を書いているのか、なども気にされているように思います。

また、授業参観では伝えきれない活動は、この機会に掲示物として少しでも伝えられればいいなと私も思っています。

というわけで、参観日の前々日くらいから、事務室の備品置き場から、画びょうがなくなりがちになります。もちろん、事務員にとってはそんなことは想定の範囲内ですが。

「名前の呼び方」

いつ頃だったか、男女の区別が差別に繋がるとかかんとか、そんな風潮のおかげで男の子も女の子も「〜さん」と呼ぶようになっています。

私は新任の頃はそれが奇妙で奇妙で「〜くん」「〜さん」と呼んでいた時期もあるんですが、慣れとは恐ろしいもので、今は何とも思いません。

「〜さん」と呼んでいます。

普段も、授業参観も。
ま、きつく注意するときは呼び捨てしたりしますが、普段から授業中も休み時間も私は名字で「〜さん」と呼んでいます。
教師によってはこれはいろいろで、下の名前を呼んであげたいと思う教師、一人ひとりにニックネームを付けて呼んであげたい教師…

教師によって違います。何が一番いいのかは分かりません。
私は経験上、子どもたちとは程よい距離があった方がいいタイプの人間だと思っていますので、名字で「〜さん」です。
ひょっとしたら、名前で読んでほしいと思っている子どもたちもいるかもしれません。

というわけなので、私は授業参観になっても名前の呼び方は変わりませんが、普段、下の名前を呼び捨てにしていたり、ニックネームで読んでいる教師は、丁寧に呼ぶ場合もあるかもしれません。
しかし、そんな教師も多くの場合、授業中と休み時間の呼び方を変えているのではないでしょうか。

呼び方の違いが子どもたちに授業中と休み時間のけじめを付けさせるサインとなることもあるでしょう。

参観日だけ丁寧に呼ぶ、なんて教師はたぶん少なくなっているのではないでしょうか。
もっとも昔を思えば、私はそんな先生に担任してもらったこともあり、「先生、今日は丁寧すぎて気持ち悪いなあ」なんて思いながらも、それが授業参観なんだと感じていたフシがあります。

みなさんはいかがでしょう?

「発表」

親御さんたちは、きっと我が子が発表する姿を見たいはずです。すべての問題に元気よく手を挙げなくても、いっかいくらいでいいから…なんて話も聞いたりします。

懇談会で、相談を受けることがあります。

「あの子、いつもは手を挙げて発表してるんですか?」

なんて。

「いつもはもっと手を挙げますよ」
「いや、あのまんまです。あんまり挙げないですね」
と答えたりしています。

ただ、です。

教師は授業参観にたくさん発表の機会があるような授業を選んでいます。

算数ならば、たくさんの復習問題をしたり、例題を解いたり。

国語なら、言葉探しをしたり、体験を尋ねたり。

子どもたちが、自信を持って次々と答えられるように授業を工夫したり、またそういう単元を選びます。

私の経験で言えば、登場人物の気持ちを尋ねたり、作者の最も言いたいことを考えたり、という面白いけれど、様々な答えが考えられるような学習は授業参観には向きません。

もちろん、そんな問題の方がスイッチが入って、説明しまくる子どもたちもいます。
一方で、何を答えたらいいのか悩んだり、間違いを恐れたりするあまりに、全く手を挙げなくなってしまう子どもたちもいます。

多くの子が手を挙げられるように、また、一問一答だけではなく、様々な意見交流もできるように、教師は授業参観の45分の組み立てにはいつも頭を悩ませています。

とはいえ、なかなかプラン通りにはいかないのが授業参観で、子どもたち以上に教師は緊張しています。
子どもたちの手がたくさん挙がればほっとし、手が全く挙がらないときには焦ります。

親御さんたちは我が子を見に来ていることは百も承知です。でも、自分が見られているような気がして仕方ありません。
私は自意識が高いんでしょうか。

「仕込み」

これは、授業参観のために、事前に練習するか?ということです。

前の日に似たような問題を解いたり、似たような文章を読んだりするかというと、私の場合はほとんどしません。

でも、授業の流し方はそれまでにパターン化しておこうと努力しています。

算数で言えば、

まず、前の日の復習。
次に、今日の問題。
そして、練習。

常に、これです。
変化がないので子どもたちは面白くないかもしれません。

でも、授業参観だろうと、これをやるので、なかなか手を挙げて発表する自信のない子も、「前の日の復習」には手を挙げてくれるんじゃないかと思っています。(そうならないときもありますが)

また、授業参観が、発表の場となることがあります。

作文や、音読、グループ発表など。

この時はもちろん練習します。しかし、授業参観のためではなく、発表会のため、です。

ま、とはいえ、その発表会が通常の授業なのか、参観日なのか、は子どもたちだけではなく、教師にとっても大きな違いなので、指導への熱の入り方はどうしても変わるかもしれません。

ただ、何でもそうですが、練習しすぎたり、こなれすぎたりすると、見ている方は面白くありません。

「よく練習したなあ」「よく頑張ってるなあ」とは思っていただけるかもしれませんが、ライブ感がなくなってしまうのです。

多少、まごついたり、もたついたりして当たり前です。それまで一切なくなってしまうと、いくら発表会や参観日だろうと、やっている方も見ている方も、流すだけになってしまうように思います。

練習しすぎず、仕込みすぎず、でもつかませておく。

それが難しいところだと思っています。

さて、だらだら書きましたが、私自身、自分の授業参観をふり返って整理することができました。

授業参観は今もハレの日なのです。
その日のために、教師も子どもたちも何かの努力をしています。

普段通りを心掛けたり、普段以上を目指すハレの日です。

そう、練習通りに力を尽くすスポーツの祭典にように。

書いてみて分かりましたが、私の課題は「教室環境」ですね。

掃除、掲示物、そして自分の机の整理整頓!

これができてなくては、子どもたちの通知表の

「身の回りの整理整頓ができる」

を評価する資格がありません。

次の参観日までには、机を片付けます!

いや…普段から片付けねば…

2015年4月11日土曜日

教師に一番必要な道具とは?

新学期が始まりました。
私も新たな学年で、新たな子どもたちと出会い、新たな学級で新たな一年をスタートしました。教師になって、何回目かの春ですが、この季節はいつも緊張します。ふだんひどい肩こりがなお一層ひどくなります。

さて、ここ最近はなんだか教育にまつわる問題点ばかりを書いていたような気がするので、今回は気楽なことについて書いてみようと思います。

それは、道具です。

プロは道具にこだわる、とよく聞きます。
イメージしやすいところを言えば、

美容師さんならハサミ、
大工さんならカンナ、
デザイナーさんならペン、
営業マンならスケジュール帳、

といったところでしょうか。
私のイメージはあまりにステレオタイプかもしれません。お許しを。

では、教師の道具で「これ!」というものは一体なんなのでしょう?


私が思うに、教師が自分で用意する必要のある一番の道具は、

ストップウォッチ

です。

赤ペンではありません。
たしかに赤ペンにこだわる教師もたくさんいらっしゃると思います。
万年筆だったり、ソフトペンだったり、こだわりのペンで
採点されたら、子どもたちもうれしいかもしれません。


でも、ペンはこだわりがなければ、学校の事務室で用意してくれているものを使えば事足ります。
ストップウォッチは、そうはいきません。

学校には体育で使ったり、体力テストで使うためにいくつかのストップウォッチがあります。しかし、各教室にはありませんし、ましてや教師一人一人にストップウォッチは支給されることはありません。(少なくとも私の務める自治体では)

だから、自分で用意する必要があるのです。

そして、ストップウォッチは、「不意に」必要になるものなのです。
常に必要なものではないかもしれません。
でも、ふとしたときに必要になるのです。


例えば、

100マス計算をさせるとき。
100マスでなくても、「この問題を3分でやって」と言うとき。
ドッジボールをするとき。(時間をはかってやるので)
「隣同士、1分相談!」と言うとき。

これらは毎日のようにあるシーンです。とにかく、小学校教師は子どもたちに時間の区切りを常に意識させています。


年に何回かある場合を考えれば、

運動会のダンス演技の入場から退場までの時間を計るとき。
休んでいた子が50m走を計ってと体育の最後にいきなり言ってきたとき。
校外学習で駅まで歩く時間を計るとき。

など、本当にこちらが用意万端でストップウォッチを持ってなさそうなときに、時間を計らなければならない時がやってくるのです。

だから、私は時計をデジタルに変えました。
個人的には針の腕時計が好きなのですが、今はデジタル時計を使っています。

最初はG-SHOCKを試してみましたが、どうもストップウォッチとして使うには、少しボタンが押しにくいことが分かりました。普段は時計として使うのはもちろん、腕にはめたまま計測がしやすく、タイムを保存しておけるものが必要であると分かってきました。

今、現在、私の教師生活で、一番使いやすいと思っているものが、ランニング用の時計です。

ランニング用の時計は、走りながらでもボタンが押しやすいものが多く、かつ、タイムを50件、100件と保存しておけます。もちろん防水、耐気圧なので、プールのときもはめっぱなしで指導も計測もできます。

ただしランニング用の時計のデザインはあまりにスポーティーなので、普段着にもスーツにも合わないですが、そこは仕方ありません。

でも、そんな不格好を差し引いても、常に自分の腕にストップウォッチがあることは何ものにも代え難い便利さがあるのです。
授業中に必要を感じても、職員室や倉庫に取りにはいけませんし、取りにいくのも億劫です。いつもは必要でなくても、いつも身につけていないと必要な時には使えません。


計算や相談でストップウォッチを使うと、子どもたちを、そんなに時間で縛って、プレッシャーをかけているのかとご批判をいただくかも知れませんが、時間の縛りは子どもたちの集中力ややる気を、一段引き上げます。その集中した時の空気はとても気持ちのよいものです。この集中力はなぜか、教室の時計の秒針で計っては発揮されません。目の前で教師がボタンを押す、そのポーズが必要らしいのです。
(自分の指導力のなさを、ストップウォッチで誤摩化しているのかもしれませんが)


というわけで、この春、教師としてスタートを切ったみなさま、時計をランニング用に買い替えましょう。スマートウォッチが話題の昨今ですが、スマートウォッチは電池が不安です。教師の時計は、ランニング用に限ります。軽くて、丈夫で、見やすくて、押しやすくて、そして高くない。

今回はなんだか宣伝みたいになりました。
時計メーカーのみなさま、学校に営業かけたら、きっと売れますよ、ランニングウォッチ。