2012年5月31日木曜日

教師に向いていない条件とは?

久しぶりの更新になります。
やはり新学期はなかなか気忙しく、書こうという気持ちになりません。

しかし、何ヶ月も放りっぱなしでは情けない。
というわけで、教師の条件を考えてみます。


教師に「向いている」条件は、きっといくらでもあります。

話すのが得意
子どもが好き
教えるのが好き
運動が得意

など、キリがありません。
向いている条件というのは、理想の条件であり、いくらでもあるし、どんな職業にだって当てはまってしまいます。

だからこそ、「向いていない」条件を考えてみたいのです。

いろいろ悩みましたが、堂々の第一位は「朝が苦手」でしょう。

朝が苦手な人は教師には向いていません。いくら子どもが好きでも、情熱が溢れていても、朝になかなか起きられない人は教師にならない方が幸せな人生を送れるはずです。

なぜなら、学校の業務開始は書類上は8:30ですが、実際は違います。
その日の教室の窓や戸を開け、登校指導をしようとすると、その45分くらい前、つまり7:45には学校に着いておく必要があります。もちろん、そんなことはやらないと割り切るのもいいでしょう。

しかし、8時半ギリギリに滑り込んで、その日一日を何とかやり切るには、多少の経験が必要です。

私の周りを見渡せば、ほぼ教師は8時には全員出勤しています。
家を出るのが7時前の教師もたくさんいます。

また、普段でさえそれですから、行事がある日はもっと早くなります。体育会の日は6時くらいには出勤する同僚もいます。

とかく、教師の朝は早いのです。
なぜか?

「先生」に残業はないからです。下校時刻になったら、子どもは帰ります。この決まりは動かせません。
「ちょっと待ってて」
「ちょっと延長」
が許されないのです。

準備不足だから、打ち合わせを延期するとか、アポを取り直すなどということは絶対にできません。

だからこそ、子どもがくる前の時間を大切にし、やり残しや積み残しが出ないように準備するのです。
朝に。

夕方にやればいいじゃん、
と思うでしょう。

夕方は「先生」の仕事ではなく、「教師」の仕事がまっています。なんとか会議に、なんとか部会、なんとか委員会、いつ終わるかもしれない会議や打ち合わせが際限なく時間を奪います。

一教師として、先生として自分の時間が担保されているのは、朝しかないのです。

朝から頭が回転するような人間でなければ、教師としては、本人の情熱や能力以前に多大なハンデを背負っていることになります。

しかし、書店を見渡せば、
「朝型人間になる!」
「朝時間で仕事が変わる!」
「一時間前出勤で能率アップ!」
などと謳う書籍がたくさん出ています。朝に強いことが利点になるのは、民間でも同じことかもしれません。

教育大学では、一時限目の講義やゼミを8時に始めてみればいいのです。
そうしたら、きっと教師の適性が一ヶ月で分かります。わざわざ免許を取り、採用試験に受かって、働き始めてから「向いていない」ことに気がつく人間が多少は減るでしょう。

朝のスタートがまずければ、その日が全部失敗になるくらい、クラスの朝のスタートは大事です。朝からスイッチを完全に入れられなければ、仕事を続けるのがイヤになるの無理はありません。

朝がスロースタートの人は、デザイン事務所などの朝が遅い職場を選べばいいのです。
夕方からのバーテンダーでもいいかもしれません。

仕事が自分に合う合わないという問題は、仕事の内容よりも、仕事のやり方に大きなウエイトがあるように思うのは私だけでしょうか。


というわけで、今日も私は11時に寝て、明日は朝5時に起きます。




2012年3月25日日曜日

教育を受けるのか、教材を消費するのか?

行政サービスという言葉がいつからできたのかは知りませんが、今ではすっかり違和感がなくなりました。
最寄りの役所に行っても、「窓口サービス課」なんて表示があったりします。

サービスには必ず消費者という受け手がいます。消費者のことを考えてなされる行為のすべてをサービスと言います。
であるのならば、行政サービスの受けては、その自治体で暮らす人々です。行政サービスに教育も含まれるのであるならば、教育というサービスを受け取るのは、児童ということになります


いつの時代も「官は民を見習え」との声があると思いますが、消費者マーケティングというものがもてはやされてからは、一層拍車がかかるようになりました。おかげで、今や行政の行うすべての事業はサービスです。

教育も例外ではありません。

子供たちは、教育を消費しているのです。

今の子供たちの多くは(こんな言い方ができるほど私の教師歴は長くはありませんが)、新しいものにしか取り組みません。取り組めません。

例を挙げて考えてみます。
今も昔も小学生が使う教材に「ドリル」というものがあります。漢字ドリルや計算ドリルがそうです。ドリルがなぜドリルという名前を冠しているのかと言えば、「繰り返し取り組み、螺旋状に上達していく」という目的があるからでしょう。

繰り返し取り組むものなのです。一度やればそれでいいというものではありません。
しかし、子どもたちの多くは、お手本をもとに繰り返し漢字を書くことや、何度も計算問題を解くことを極度に嫌がります。
「もうやったじゃないか」
「前にやったのに」
というわけです。

もちろん、繰り返し取り組むことは決して楽なことではありません。文句を言わずに取り組む子どもたちにとっても楽しいものではないでしょう。しかし、それでもその繰り返しの中に楽しみを見出したり、辛さやマンネリに耐えて反復練習するものがドリルです。

そんな子どもたちを見ていて思いました。

これはまさに、消費だと。

流行歌のサイクルが速くなり、ファッショントレンドは毎年のようにコロコロ変わり、メーカーの新製品開発期間は恐ろしく短くなったことと別問題ではないと。

歴史は長い目でみれば螺旋のように繰り返すのかもしれません。
しかし、短期的に見れば、時間は未来へ向かって一直線の矢印のように進んでいて、我々のいる現在はまさにその矢印の先っちょにくっついて、次々にまだ見たことにない未来をかき分けて進んでいます。

私たちはそんな時代感覚の中にいるような気がします。無論、子どもたちも。


ここではない、どこかへ。
かつてではない、これからへ。

イノベーション、ソリューションを叫び続けて、私たちは今までにはなかったものを求め続けています。誰かのコピーになることを拒否し、いつかの繰り返しになることを恐れながら。

子どもたちは、授業を消費し、教材を消費し、テストを消費しています。教師からの呼び掛けや、強制がなければ、子どもたちは一度やった問題を見直すことなく、間違えても振り返ることなく、新しい次の何かを求めています。

しかし、私はこの問題を子どもたちだけに押し付けようとしたくはありません。

なぜなら、子どもたちは気に入った本ならば何度でも読み返しますし、好きな遊びは何度やっても飽きません。

繰り返す価値があるのです。

繰り返す耐性がない子どもであっても、価値があれば繰り返すことができるのです。

であるならば、我々教師が価値のある教育を与えているか、という問題に行き着きます。
一度やっただけで、興味を失うような教育を与えてはいないだろうか?
教師自身が「教科書を終わらせなければならない」という意識で教材を消費してはいないか?

我が身を振り返っても、反省するところが多いです。

教師の「とりあえず、やればいい」とでもいうような教科書をこなす姿を見れば、そりゃ子どもたちは教材を消費するでしょう。

もちろん万事が万事、そんなことをしている教師はいないでしょう。
大切なところは、落としちゃいけないところは、熱を込めて繰り返し何度も教え説くものです。

しかし、子どもはよく見ているもので、教師が「流しているところ」を感じ取って「ああ、こんなんでいいのか」なんて思うものです。(みなさんにも、経験があるでしょう)

しかし、どうしてもそんな教え方になってしまう教材もあるんですねえ…前にも書きましたが、学校は何が何でも「時間内に終わらせる」場所ですから。

しかし、「やるときはやる!」「繰り返しが大事だ!」と子どもたちにゲキを飛ばすのです。

2012年2月27日月曜日

なぜ日教組は嫌われるのか?

そろそろ、ど真ん中の問題について考えてみましょう。日教組です。

私が教師になる前からずっと日教組は嫌われものでした。それは今も変わりません。いや、酷くなっているかもしれません。

日本の教育のガンだと言われたり、学力低下の元凶だと言われたり。日教組はいったいなぜこんなにもボロカスに言われるのでしょう。

しかも、日教組はマスメディアで攻撃を受けているのにもかかわらず、日教組自身が公式会見を開いて反論したり、意見を述べたりするのを私は見たことがありません。普通、こんな言われ方をしたら、言われっぱなしにはしないはずです。自分たちの信条や行為がけなされているのですから。でも、彼らは黙ったままです。少なくとも、世間に対しては閉じています。

これが世の中の日教組観をますます悪いものにしていると私は思います。私だったら、何かを言います。たとえ、倍以上言い返されると分かっていても、言うでしょう。

…と言うくらいですから、私は日教組には入っていません。かなり勧誘を受けましたが、断り続けました。最初は、私が何となく面倒くさそうだから断っていると思っていたみたいですが、私がちゃんと考えを持って断っていることが知られてからは、それ以後勧誘はありません。

しかし、大学を出たばっかりで不安も多く、周りに相談できる人がいない若い人ならば、
「教師のほとんどが入るから」
「何かあったときに守ってもらえないよ」
「相談できる仲間がいないと困るよ」

…などと、ベテラン教師から毎日のように説得を受ければ、特に考えもなければ、なんとなく面倒くさいと思っていたくらいでは、根負けするでしょう。

新人に対して執拗な勧誘をする彼らは、何を信じて、どんな正義を胸に抱いて、新人を勧誘し組織の維持をはかろうとしているのでしょう?

私は気になって日教組とは、どんな組織なのかをちょっと調べてみました。

日教組は、日本教職員組合と言い、教師の労働組合です。その始まりは、GHQ統治下の戦後に始まります。言うまでもなく、日本国憲法はGHQ主導のもと作られたものであり、それは旧文部省だって同じことです。アメリカは文部省を押さえることで、日本の教育を押さえたのです。日本が二度と国粋主義に走らぬように。

しかし、面白くないのは旧ソ連でした。戦勝国であるにもかかわらず、出遅れたために日本の統治にはほとんど介入することができなかったからです。
そんな旧ソ連はアメリカ主導の戦後日本教育に危機感を感じ、自国の思惑や思想を日本に啓蒙するために組織を作りました。

それが日教組の始まりです。

教師に限らず、あらゆる労働組合はソ連の掲げる共産主義の影響下で生まれたはずです。たとえそれが、地方の片隅で一人の労働者から起こったものであったとしても。

しかし、日教組は完全にトップダウン的にできたものです。旧ソ連の主導で、GHQとの折り合いの元で作られました。
一教師が、自分たちの職場環境を何とかしようとして始まったものではないのです。

だからこそ、今でも日教組では、指示や思想や義務や要請や命令、あらゆるものが上から下りてきます。逆に組合費は給料から天引きされて、上へと徴収されていきます。
お分かりのように、これは共産主義らしいシステムです。旧ソ連は見事にこれを日本の教育現場に根付かせました。
彼らは日々、組合から指示される仕事に追われています。集会への動員、講演会への動員、活動報告、選挙での電話勧誘…
それらは本当は自分たちの主義の実現のために、自主的に行われるはずのものです。しかし、彼らは一様に」「やらされている」かのように、義務であるかのように、その仕事に取り組んでいます。
そう、かつて旧ソ連での集団労働がそうであったように。

そんなに嫌なら組合を脱退すればいいじゃないかと思われるかもしれませんが、抜けるのは大変です。ありとあらゆる手段を使って引き留めるそうです。幸か不幸か、私はまだその現場に遭遇したことはありません。

日教組はコミンテルンの下部組織のようなものですから、それは日本国歌にも日本国旗にも文句を付けます。体制側の決めるあらゆることに反対をするでしょう。それが、コミンテルンの注入した姿勢だからです。(コミンテルンは終戦までに解散をしていますが、その影響力は続いていたと解釈して書いています。)

しかし、先にも書いたように旧ソ連とGHQは折り合いを付けているのです。ですから、その下部組織である日教組と文部省は本当は折り合いが付いているのです。しかしポーズとしては、対立の姿勢を取ってきました。それは両者がともに日本の教育に介入し、国体をなし崩しに崩すという共通のねらいがあるものの、それぞれがやはり大きな東西冷戦の中にあったからです。

文部省vs日教組は、東西冷戦の代理戦争でした。その最大の被害者は言うまでもなく、国民です。自国の誇りを忘れさせられ、国民としての意識も薄められ、幼稚な自己意識だけを増長させられたのですから。

しかし、東西冷戦は終わりました。ということは、日教組vs文部省の代理戦争も終わったのです。その証拠にベルリンの壁の崩壊から遅れること数年、日教組と文部省は、彼らの言葉を借りれば、「歴史的和解」をしています。つまり、これからは対立を避け、歩み寄って協力をしていこうと約束し合ったわけです。表立って。

日教組は後ろ盾を失ったわけですから、文部省にすり寄るのも現実的な姿勢なのかもしれません。しかし手のひらを返すように、主義主張をひっくり返せない組合員もいました。それこそ、コミンテルンの啓蒙を大切にしていた人たちかもしれません。彼らは日教組とは袂を分かち、「全教」(全日本教職員組合)として新たなスタートを切りました。

組織で言えば、日教組のほうが多数派で、全教の方が少数派です。もちろん地域によって違いはありますが。

政治的なことを言えば、旧来日教組は社会党を支持してきたわけですが、社会党も分裂した現在では、主に日教組は民主党を、全教は共産党を支持しています。

この二十世紀末の日教組の混迷ぶりを見れば、いかに旧ソ連の影響が大きかったのか分かるはずです。
指針を失った彼らは、自分たちで何とか組織を運営しようとはしますが、本部は求心力を失って組合員は減り、文部省と和解した以上、文部省の決定は言わば自分たちの主義主張が加味されたものとなって、抗議や反対運動がしにくくなりました。
一方で、日教組を受け入れざるを得なくなった文部省は、ゆとり教育や自虐史観にみちた歴史教育を推進させるのです。
文部省が文部科学省に再編成されたのには、東西冷戦の終わりや「歴史的和解」の影響が少なくないと私はみています。

現在、日教組の主義主張は20年前と変わりません。コミンテルンの後ろ盾を失った彼らは新しい指針を打ち出せずにいます。
「教え子を戦場へ送るな」
「憲法9条を守れ」
機関紙にはまだこのような文言が踊ります。冷戦が終わり、ヨーロッパは一つになり、同時多発テロがアメリカのど真ん中で起き、中国は経済力をモノを言わせてどんどんと傲慢になり、アラブでは革命が次々と起こっている現在に、まるで響かないそんな文言を振りかざすしかないのです。

また、現在においても、年功序列で給料が上がり、住宅手当がある待遇でありながら、
「生活が苦しい」
「給料を上げろ」
「民間並みにの給料を!」
というプラカードを平気で集会で掲げたりするのです。(これは私の職場に実際にありました)

やはり彼らは冷戦時代で止まっているのです。アメリカと旧ソ連の二大バランスの元で、右肩上がりを謳歌した時代から何も変わっていないのです。その当時は上から降りてくる指針がありました。啓蒙がありました。
しかし、それがなくなってからも、彼らは自分の頭で考えることを放棄し、古典のような主義主張を現在でも繰り返しているように見えます。

彼らがいくらバッシングを受けても、表立った反論をしないのは、上から降りてくる指示がないからではないでしょうか? 今ではいくら上を仰いでも、主義主張も啓蒙も薫陶も降りては来ません。昔の教えをひたすら握りしめ、内輪の不満を抑え込み、「不遇の時代だ」と傷を舐め合うしかないのです。


こんなことを考えてみると、やはり日教組は嫌われるだろうなと思います。いつの時代も変革をしてきたからこそ、伝統がある、と誰かが言っていましたが、かつては改革だ革命だと叫んだ左翼の闘志たちは、今は当時のまま凝り固まり、変革ができずにいます。

働くものが自らの職場に意見をし、環境改善をするのは悪いことではありません。でも、それをするのに左翼思想に染まる必要はないし、民主党の選挙応援をする必要はありません。

私の知る教師一人ひとりは、それぞれにすばらしい人たちばかりです。教師として日々、学ぶところがたくさんあります。
でもそんな彼らが、社会人として自らの組合である日教組についてオープンに話すことをせず、沈黙したまま、長いものに巻かれるように巻かれ、半強制的に組合行事に駆り出されて行くのを見ると悲しくなります。

日教組を憎んで、教師を憎まず。

みなさま、どうかそのスタンスで。

2012年2月16日木曜日

結婚しない女性教師がなぜこんなに多いのか?

自分の周りを見回してみると、なんと独身の先生が多いことか。
それも女性が。

最初はてっきり家庭を持っているとばかり思っていた人が、実は独身だった、というパターンを次から次へと聞くわ聞くわで、びっくりしました。

お話をしていても、特に結婚に問題があるような人たちとは思えません。だから、きっと教師という職業に問題があるのか、学校という職場に問題があるかのどちらかなのです。

ことわりをいれておきますと、これは小学校での話です。中学校や高校では少し違うのかもしれません。

ちなみに私の周りには独身男性教師は、若手以外にはいません。つまり、男性にとっては、職業としても職場としても結婚に関して言うならば、問題はさほどないと考えられるのです。

では、女性教師にとって小学校にある障壁とはいったいなんだろうかということを余計なお世話を百も承知で考えてみます。

まず、男性教師が圧倒的に少ないということが挙げられます。男性教師の多くの伴侶が女性教師であるのは自他ともに認めるところであるから、男性教師を増やせば今の状態は多少は緩和されると思われます。

しかし、なぜこんなに男性小学校教師が少ないのでしょう?男性が小学校教師を志望しないわけでも、意図的に採用試験から振り落とされているわけでもありません。

ただ、教員採用試験はバカみたいに公平なのです。そう、バカみたいに。

22〜23歳の男女を筆記と面接で試験したら、女性の方がはるかに優秀なのです。それはあらゆる職業の採用担当の方が実感しているはずです。筆記だけならともかく、面接でその差はてき面に出ます。なぜだかは知りませんが、そうなってしまうのです。

しかし、企業ならば、それを考慮して男性を採ります。現時点での能力よりも、これからの伸びしろに期待をするからです。実際、男性は4、5年もすると女性に追いつきます。(まあ、これは私の勝手な意見ですが。)

しかし、公的な教員採用試験では、すべてが公平です。男性の成長の遅さは考慮されないのです。潜在能力ではなく、現在能力で測られるのです。

その結果、必要十分な数の男女が試験を受ければ、女性ばかりが採用され、小学校現場は女性教師ばかりということになります。

中学校や高校の先生方、いかがでしょう?
同じ現象が起こってますか?
それとも、そもそも女学生は小学校ほどには中学校や高校を志望しないため、バランスが取れているのでしょうか?

次に、結婚する必要がない、ということを考えてみます。

確かに、給料は男性と全く同じです。しかも、公務員ですから出世してもしなくても、給料は上がっていきます。一生一担任でありつづければ、責任は重くならずに、ただ給料だけが900万くらいまで上がり続けるわけです。

これは魅力でしょう。
働く世の女性たちがキャリアを手に入れようと必死で責任をどんどん背負って出世しようとしているのに比べれば、かなり恵まれていると言えるかもしれません。が、これは教師にかぎらず、公務員全般に言えることです。

しかし、役職が変わらないということは責任も変わりませんが、子どもと一緒に走ったり跳んだりしなければならないこともまた、変わりません。すべてがすべて、楽なわけではありません。

ともあれ、経済的にそして、生活パターンとして、小学校教師は女性一人で生きて行くのにまったく支障がなく、とかく現実的な女性が将来を見越しても、安心して身を投じられる仕事なのでしょう。

また、同じような境遇の独身の同僚がたくさんいれば(実際にたくさんいるのです)、話し相手にも旅行のつれにも困りません。


では、最後に「結婚できない」「結婚したくない」ということについて考えてみます。

もし、女性小学校教師が「結婚できない」のだとしたら、先に述べた通り、職場の男性が少なすぎるのはもちろんですが、「待ち」や「受け」のタイプが多いのではと考えられます。

彼女たちは幼少の頃より、待ち受ける能力は高いのでしょう。どんな変な教師が担任になろうと、どんな奇天烈な友人がいようと、その環境を受け入れて、けれど流されず、その中でそこそこうまくやってきたからこそ、教員免許を取得し、採用試験にも受かり、今、教師なわけです。

待ち受けて、その中でうまくはやれるのです。その中で。

しかし、その外に向かって動き出す能力には欠けているのではないでしょうか?

中の環境が整わない場合、待ち受けるだけではどうにもなりません。学校現場に適齢期の男性教師がいなかったら、そこまでなのでしょう。

では、「結婚したくない」としたら、その理由は何か?

それはきっと、子どもの嫌な部分や家庭の嫌な部分を見すぎたのです。家庭を持つことに対する夢がなくなってしまったに違いありません。


長々と書きましたが、まずもって、男性教師の採用を増やしましょう。たとえ、男子学生が女子学生に比べて見劣りしたとしても、それは長い教師生活でのわずか4、5年のことなのです。

教師が結婚もせず、子どもがいないと何か問題が起こったときに親たちから言われて一番辛いことは、
「先生は子どもがいないから、わからないんですよ」
という一言です。
若ければまだ甘んじて受けることができます。しかし歳を取るに連れ、いくら受け入れる能力の高い教師でも、受け入れ難くなってくるでしょう。

もちろん、親たちからしてみても、教師が若さ溢れる時期を過ぎれば、担任が家庭では「親」であってほしいと思うのは納得できる話です。
もちろん、名教師として名を残した人に独身が多いのも確かですが、女性教師には名教師になるよりも、幸せな家庭を望む人が多いような気がします。

つまり、男性教師を増やすことが女性教師にとっても幸いなことであり、彼女たちの親としての成長は、そのまま教師の成長となり、日本の教育力の成長となるのです。

世の男性の皆さん、いくらあなたが少々変わっていようと、女性教師の受け入れ能力はかなり高いです。
結婚相手として、一考ください。



2012年1月3日火曜日

教師はなぜ職業を隠すのか?

「隣の人にも先生だと言ってない。公務員って言ってる。」

と同僚の先生が言ってるのを聞いて、ま、そんなこともあるよなあ、くらいに思っていたら、それが教師の当たり前だと知って驚きました。

確かに人を教える立場の教師が、近所で清掃活動に参加しないとか、ゴミの分別をしないとか、そんなことがあるのなら、職業を隠すということもあるかもしれません。

しかし、普通に暮らすのなら、取り立てて意識しすぎることでいいことはないように思います。

体面として模範的でなければならないのは何も教師だけではありません。消防士にしても、僧侶にしても、スポーツ選手のような著名人にしても、世間は模範的であることを求めるでしょう。しかし、近所にそれを隠せないこともあるでしょうし、隠そうとは思わないのではないでしょうか?

隠せば人間関係が築けなかったり、不信感を与えることになりかねないと私は思うのです。

お仕事は?

と聞かれて、

「NPOです。」と返す人は変でしょう?
「公務員です。」と返す人も、「会社員です。」と返す人もやっぱりちょっと不十分でしょう。

その後に「どういう仕事?」とか「会社は?」とかいう質問がくるはずです。
そんな次の質問を防ぐには、ちょっと言いにくそうに、「まあ、一応…公務員ですね」とか歯にものが挟まったような言い方をするしかありません。そうしたら、「ああ、言いにくいのかな。この人はただの役所ではないな。警察かな?税務署かな?」と思われるのでしょう。

どうやら教師の多くもそんな返答をしているようなのです。

しかしです。
そんなことをしたって無駄です。

朝、スーツを着ずにジャージで出かけているのです。8月になったら、ずっと休みに入っているのです。

隠せるものではありません。どっからどう見たって教師です。
バレているのにバレていないと思い、そして相手の方も分かっているのに分かっていないふりを続けていては、やはり結局のところ教師の世界を狭め、教師だけが寄り固まり、教師を特別なものにしてしまうのです。

教師だと周囲に知れたからって、何も不都合はないはずです。
誰だって仕事をしている最中のONの顔と、仕事が終わった後のOFFの顔が違って当たり前です。
誰だって、営業スマイルや営業トークの様子を家族や友人や隣人に見られるのは多少なりとも気まずいものです。
誰だってスイッチを入れて仕事をしています。

だから、OFFはスイッチを切ればいいのです。もちろん、挨拶や法令遵守は当たり前ですが、お酒だってタバコだって、買い物だって宴会だって合コンだって堂々とやればいいのです。「職業:教師」を名乗って、OFFの顔を見せればいいのです。
それが当たり前です。

ただ、自分のクラスの子どもたちはそれが分かりません。教師がOFFだって、子どもたちにとっては「先生」です。
だから「教師は休まらない。いつどこでクラスの子どもに会うか分からない。教師は特殊だ」と思っても仕方ないところはあるかもしれません。

でも、堂々としていればいいのです。デートをしていたって、ハンバーガーを齧っていたって、恥ずかしいことをしているわけではありません。

ましてや、近所づきあいや習いごとや遊びで出会う人たちに、隠す必要なんてまったくないのです。

「教師は特殊だ」
なんて思っているのは教師くらいです。

自分の仕事には誇りを持てばいいし、報酬に見合う仕事をすればいいのだし、マスコミが何と責めようと、既得権益だと言われようと、教師ひとりひとりがONもOFFもきちんと顔を見せるべきです。

教師がそこで閉じこもるからこそ、いらぬ誤解も偏見も出来てしまうのです。

センセイ、自分の仕事を誇ろうぜ!
ONとOFFを見せようぜ。

ってまあ、このブログは本名でかいていませんがね。


2011年12月22日木曜日

「教師は体力仕事」とはどういう意味か?

教師は聖職者か、労働者か?

なんて論争は私にとってはどうでもいいので、ちょっと仕事の内容について考えてみます。

教師は体力が勝負!なんてよく言われましたが、そもそもどんな職業だって体が資本であることには変わりがありません。

しかし、その「体力が勝負」ということの意味を私は当初、履き違えていました。
私はてっきり、子供たちと一緒に休み時間に走り回ったり、体育で手本を見せたりすることを想像していました。それくらいなら、自信はあったのです。体力の衰えを感じたことはありませんでしたし、少し前に日本三大尾根の一つと言われる剱岳の早月尾根を制していたからです。

しかし、小学校現場に入ってみて思い知らされました。
体力とは、運動能力ではなく、本当に「体力」だと。

子供たちは時間に縛られています。時計を見なくたって、チャイムや音楽が鳴り、嫌でも時間というものを思い知らされます。好きなときにお茶を飲むことも、外の空気を吸うこともできず、また、たとえ授業の内容を理解し切れなくても、授業は終わります。
教育現場は内容ではなく、完全に時間を軸に動いています。だから、子供たちはそれに自分自身をフィットさせなければなりません。それが、時間を守り、ルールを守ることの勉強であり、きっと将来、納期を守るという仕事の基本に繋がることなのです。

その絶対ともいうべき時間の縛りはもちろん、教師にも及ぶのです。普通の会社員のように好きなときにトイレに行くことはできません。のどが乾いたからといって、気分転換したいからといって、タバコを吸うことはおろか、コーヒーを飲むこともできません。

始業のチャイムが鳴ったら最後、子どもたちを下校させるまで仕事を中断することはできません。

授業が始まれば、終わるまでは休憩もトイレも基本的には許されていません。立って授業をする以外の選択肢はありません。(まあ、たまには座って読み聞かせをしたり、テストをさせている時間は座りますが)

そう、立っているのです。説明をするにせよ、教えて回るにせよ、立っています。この「立っている体力」がまずは教師に必要とされる体力です。

次に要求される体力は、「こなす体力」です。「教師の仕事」には残業があっても、「先生の仕事」には残業がありません。

子供たちは、基本には時間が来たら帰ります。遅れている子が残ってやることはありますが、教師がこなせなかったことで子供たちを残すわけにはいきません。

たとえ、教科書を教え切ることができなくても、決められた時間をこえて子供たちを教室に残して教えることはできないのです。

だから、こなす必要があります。決められたことを決められた時間内でこなすには体力がいります。

休むことなく動き続けなければならない時もあります。騒いだりダレたりしてしまう子供たちに、時に檄をとばし、特になだめすかして、こなす体力がいります。後回しはできません。後がないからです。

先生の仕事には、基本的に「待ち」の時間はありません。クライアントの返答待ちとか、決定待ちなどというものはありません。もちろん、子供たちが問題を解いたり、テストをしている間は確かに待っています。
しかし、やるべきことがないわけではありません。途中で手を挙げて質問する子や手を挙げないまでも問題につまずいている子がいれば、声を掛け、手助けをします。常に立ち、常に歩き、常に動き、子供たちと自分たちのやるべきことを時間内にこなすのです。

これはサラリーマン時代とは明らかに違う忙しさでした。残業や会議、クライアント待ち、の忙しさとはまったく違います。教師は3時に子供が帰ったら仕事が終われて楽でいいね、なんて誰が言ったのか知りませんが、楽ではありません。もちろん、子供が帰っても仕事はまだまだ続きます。

この、時間枠に極度に閉じ込められた忙しさは、体力がないとやってられません。運動能力ではありません。体力です。

いわば、体の使い方の能力です。筋力や持久力ではなく、体の使い方です。

ベテランは、さすがベテランであるということを私はそんなところに感じます。

どんな職業でもそうなのもしれません。体の使い方や、力の抜きどころというものは若者はベテランには勝てません。

これを新人としては張り付いてでもして学びたいわけですが、採用されると新人はたったひとりで教室に放り込まれるわけです。
そして、若さに任せて、なんとか時間軸と戦いながら、少しずつ教師の体力を身につけていくのです。


最初の一年は、無駄に動いて無駄に疲れて無駄に批判された…

私の実感です。
なんとか、ならんもんですかねぇ…


2011年12月14日水曜日

なぜ教師はWordで表を作るのか?

教育現場に入ってびっくりしたことがあります。

一つは、教師という生き物は恐ろしくパソコンが使えないということ。

もう一つは、パソコンが使える教師のWord能力が恐ろしく高いということです。

パソコンが使えない/使わない教師のコピー機の使用能力もかなりなものです。「そんな使い方するの?」と驚いたことも多々あります。しかし、何よりもびっくりしたのは、いわゆる「パソコンなら任しとけ」的な教師たちのWord能力の異様な高さです。

Officeを使うときには、きっとよく使うソフトというものがあるはずです。

pptをよく使う人、xslをよく使う人、そしてWordをよく使う人、自然と使いやすいソフトが決まってくるものだと思います。どのソフトを使ったとしても、同じような出来上がりの文書はできるからです。

しかし、Wordで表を作る人がいることにびっくりしました。どう考えても、100マス計算のようなただの格子状のフォーマットを作るのならExcelが楽でしょう。Wordで罫線を引きまくって出来ないことはないでしょうが、改行ひとつでレイアウトが狂うので私はとてもやる気になりません…が、教師の多くは、やるのです。

しかも、それが早いし、私が使ったことのないアイコンやプロパティを駆使するので、最初は画面を楽しく覗かせてもらいました。

また、会計をするにもやはりWordを使います。それはさすがに感心はせずに、なんて無駄な…と思いました。だって金額を打ち込んでも、合計も差額も出ず、手元の電卓を叩いているのですから。(今ではExcelでやっている教師も増えています。)

例を挙げればキリがありませんが、気になるのはどうしてこんなことになっているのか、ということです。

一昔前、教師も地方公務員の一種であり、各自治体が一太郎を導入し、その研修を繰り返したということは知っています。今でも「Wordは使にくい!一太郎がいい!」とこだわるベテランも多いです。
憶測ですが、その一太郎の研修をやりすぎたのがその一因なのではないかと私は思っています。一太郎でこれもできる、あれもできるとやっているうちに、すべてをワープロソフトでする文化が育ち、Wordが隆盛になっても続いているのではないでしょうか?

ただ、不思議なのは、大学を出てくる若い人たちもその傾向があるということです。Wordにこだわっているかのように、Wordを使います。
教育大学では、Wordばかりを使うように指導でもしているのでしょうか?

私に「Excel教えてください」と言う若い教師は少なくありません。もちろん、文系である以上、表計算をする機会は少ないのかもしれませんが、現在、学生である間になんの統計もグラフも作らないことがあるのでしょうか?

あるのかもしれません。
あっても、Excelを使わないのかもしれません。
レポートがWordならば、すべてをWordで終わらすのかもしれません。

Wordがいけないことはありません。しかし、Wordの制約の中で書面を考えるのは褒められたことではありません。これしかできないからと、ワークシートやプリントをWordの制約に当てはめることは子どものためにもなりません。

だからこそ、私はpptを勧めています。レイアウトは自由だし、写真やオブジェクトは行に左右されません。紙に書くのと同じような感覚で書類を作ることができます。

教師の中にはpptはプレゼン用だからと決めつけている人が多いように思いますが、印刷物を作る上でもかなり使い勝手がいいのはまちがいありません。

でもExcelにしろ、pptにしろ、新しいことを始めるとなると、「じゃあ、研修してよ」と口にするのもまた教師の常です。

いやいや、子どもに「みずから学べ」と言うんでしょ?
自主性が大事だと教えるんでしょ?

じゃあ、大人もやりましょうよ。ね?